MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『リバー、流れないでよ』。

2024-10-17 00:28:58 | 映画日記
『リバー、流れないでよ』を観た。
「うーん、いかにもヨーロッパ企画」という後半の展開を除けば、とてもいい映画だと思う。

冬の貴船。
たった二分を繰り返し続ける旅館。
「今、この瞬間が続けばいいのに」と願った貴船の神様が叶えたことなのか?
この二分がずっとずっと繰り返し続けるのも悪くない。
ずっと同じ時間にいたい。今を終わらせたくないというのはたぶん誰にでもあることなんだと思う。

今が続けばいいのに。
それでも川と同じように時間はどんどん流れていく。
未来に進むことを強制される。
変化してくことが当たり前なのだ。
それでも願う。
変わってほしくないものがあるから。
変わってほしいものがあるから。
戻りたい場所だから。
戻りたい時間だから。
夢でもいいから。
「リバー、流れないでよ」

『劇場版 アナウンサーたちの戦争』

2024-08-25 04:34:00 | 映画日記
『劇場版 アナウンサーたちの戦争』を観てきた。

太平洋戦争に敗北し、日本はその責任を軍部に求めた。次に政治家に求めた。
その間、マスコミはそれを報道し続けた。
マスコミが自分自身の責任に向き合い、それを発信し始めたのはそのあとだった。
アナウンサーたちは、世の中の情報と視聴者たちの直接的なインターフェースに立つ。マイクやカメラの向こうには何千、何万という人たちがそれを見て聞いて世の動向を知り、自分たちの生活に反映させていく。
明日の天気、傘はいるだろうか?洗濯はできるだろうか?
株の動きはどうだろうか?景気はどうだろうか?

そのアナウンサーが積極的にウソの情報を流せ、あるいは情報を隠せといわれたとき、現在のアナウンサーたちはどう思うだろうか?
アナウンサーはいまでも人気の職業だ。それはいい。でも、単なるスピーカーになってはいないだろうか?
「虫眼鏡で調べて、望遠鏡でしゃべる」
和田信賢という人物は、これに拘ったアナウンサーだった。
戦争がなければ、”実況アナウンサー”として人気者で終われる人生だったんじゃないだろうか。スポーツ実況などでは膨大な情報量を使いこなし、巧みな話術で音声だけでその熱を伝える。本当にやりたかったのは、そういうことだったんじゃないだろうか。
そんな彼が太平洋戦争の開戦ニュース放送のその時の放送に立ち合い、最後の玉音放送の要旨を放送することになった。
学徒出陣実況を任されていたのに、死地に向かう学生の本音と建前をの狭間ですりつぶされ、放送から逃げ出してしまった。
「壮士ひとたび去りて、復び帰らず」
その言葉以外に、彼が学徒出陣実況で何を読みたかったのか、その原稿すら残っていない。
主演の森田剛がそれを埋めるように、フィクションの原稿を叫ぶ。
その姿は、おそらく和田信賢の心情と同じだったんじゃないだろうか。
勝った勝った、被害は軽微とウソをつき、国威発揚の名のもとに言葉を空虚にしていく。惨め、そんな気持ちで毎日を過ごしていたんだろう。

この作品に出てくる多くのアナウンサーたちは、戦後その職を辞している。
辞めたかったわけじゃない。ただ、ウソを市井の人たちに流し続けたという過去に耐えられなかったんじゃないだろう。

和田信賢アナウンサーは、一度は職を辞したものの、その能力を買われて嘱託職員としてアナウンサーの仕事を続ける。
そして、彼が本当にやりたかったスポーツ実況の最高峰である、オリンピックの実況を担当し、すべてをやり終えたようにヘルシンキで客死した。

情報の発信は、今や誰でもできるようになった。
「新しい戦前になるんじゃないか」とタモリは言った。それが予言だったかのように、あちこちで(本格的な)戦争がはじまった。
情報の信憑性が薄いままでも、マスコミはそれを流しているときがあるんじゃないだろうかと思うことがある。

今、マスコミたちは虫眼鏡で見ているのだろうか。

障害者の人権について。

2024-07-13 23:00:21 | 日記
日本は人権意識が低い。
これは昨年行われたG7サミットを前にG6から書簡で指摘されたことだ。
慌てふためいてLGBTに関する法案を作ったけれど、大事なのは”差別を防ぐことは私たちの原理原則である”と言われたことだ。

国会議員に障害者がいる。彼らのためにスロープを設置してほしいと要望を出したら、一部から批判が上がった。
電車や映画の鑑賞に車いすの上り下りを手伝ってもらった。
これを当然のこととして要求したことが騒ぎになった。
これらは、人権の観点から見れば当たり前の要求だ。
障害者は可哀想だから手を差し伸べている。
この感覚がまだまだ根強い。
障害者手当を羨ましいと思う人もいるだろう。
違う。
手当を出さなければ平等になれない社会が出来上がっているのがおかしいのだ。

「お前は、障害者を擁護して何様だ?」と思われるかもしれないけれど、障害者に対するサービスとして「おかしいな?」と思っているところもある。
たとえば、映画館や美術館などの障害者割引。
あれは必要ない。なんで割引されるのかよくわからない。
「割引してあげるから、多少の不便は我慢してね」ってことなんだろうか?
そういえば、映画館の車いす用のスペース。最前列の端っこだったりととんでもなくスクリーンが見えにくい場所にある。
割引しなくてもいいから、障害者用のエレベーターを設置して、上の階に数席で良いから場所を取ってもらって、鑑賞できるようにするべきだ。
電車の乗り降りも、そろそろ標準でホームとの段差をなくすような橋渡しの機構を電車に取り付けてもいいんじゃないか?

大阪府は人権博物館を縮小してしまった。
差別の歴史、何が差別になるのか、どんな差別があるのかを知る貴重な場所だったのに。
何でもかんでも平等にしろ、というわけじゃない。
移民政策には僕も反対だし。

それでも、「可哀想だから助けてあげているんだ」という感覚を捨てない限り、日本は人権に疎い民族から抜けきれない。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』。

2024-06-12 05:12:10 | 日記
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』を観てきた。
前編後編合わせての感想。

この人を守るためなら、すべての物はなんだっていい。
それが例え、世界を終わらせる結果につながるとしても。

そう思えるということは素晴らしいことだと思う。
おんたんは門出を守るため、自分の世界を捨てて、違う世界で生きていくことを選択した。
そのせいで、色々なものがおかしくなってしまったのかもしれない。
それでも、僕は彼女を支持したいと思う。

原作とは少し違った終わり方で、おそらく8月32日が終わらない世界線なんだと思う。
「おんたん!近づきすぎ!」
「はにゃにゃふわ~」
という世界の物語になっているんだと思う。
どちらの世界も、おんたんがいて門出がいる。
だからそれでいい。
終わらない夏休みがこれから始まる。

『ゴジラ -1.0』。

2023-12-10 22:28:14 | 映画日記
『ゴジラ -1.0』を観てきた。

ゴジラがなぜ日本で受け入れられているか。
70年前から時代に合わせるように変化しながらゴジラシリーズは脈々と作り続けられている。

”科学の進歩は良い面と悪い面がある。映像として出来ることはその二つを忘れさせないために、ゴジラのような作品は作り続けられなければならない”
『大仏廻国』の中で宝田明が語った言葉。

科学の進歩の尖峰に位置する原子力の功罪をゴジラは象徴し続けている存在で、『ゴジラ』から『シン・ゴジラ』までそれは続いている。
最強の生物であるゴジラに対して人は科学を持って挑む。
オキシジェンデストロイヤー、スーパーX、ガルーダ、モゲラ、抗核バクテリア、メカゴジラ、血液凝固剤…。
数々の科学技術でゴジラを封じてきた。しかし、街が復興するとともにゴジラは帰ってきた。何度も襲い、何度も壊し、何度も奪う。ゴジラは天災なのだ。
台風や地震、火山と同じように不幸をもたらす。人は天災を受け入れるしかない。そして、天災が終われば復興を行い、また天災で壊される。日本人は自然災害に対して”しかたがない”と受け入れる柔軟さ(実直さ?)を持っている。
だからだろうか。第二次大戦の終戦も国民はあっさりと受け入れた。しかし忘れたわけでは無い。恨み辛みに我慢を重ねて抑え込んでいただろう。戦争は終わっても、心の中で終わらない戦争がある。
戦争という災厄をやっと乗り越えた先で生まれてしまった今作の『ゴジラ』は、終わらない戦争の中にある者たちがその戦争を終わらせる物語でもある。
だが、天災として、科学の功罪としてのゴジラは、まだ終わっていない。
悲しいことに彼女たちは楽にはシねない。「あのときシんでおけば」と思うぐらいの過酷な生が待っているだろう。
そして、また天災が帰ってくるのだ。
ゴジラという姿形で。
-1.0。
ゴジラは先に突き進む人類を、また後ろに押し戻す。