『シン・ゴジラ』を観てきた。
上映後、館内には拍手が鳴った。確かに面白かった。
物語は政治的視点からの展開が大半を占める。
巨大生物を前に政治は行政はどう動くのかをできるだけ緻密に織り上げる。
小松左京の小説みたいだと思った。
東日本大震災で露呈したパッチワークの行政間ネット。
あそこを引っ張れば、ここが破れる。こっちを引っ張ればあそこ。
法律は本当に込み入っている。法律がダメなら条例で局所的に強い拘束をかける。
あの法令が是でもこちらの解釈では非なんてザラだ。
だが、虚構はそれとは関係なく日常を壊していく。
ゴジラは絶対の生物としてそこに現れ、総てを壊していく。慈悲などない、思想自体がない。台風や地震と同じ存在。
だが、その絶対さ故、虚構。
重火器が通じないような生物がいたならば、有効な武力は限られている。でも、それを日本人が選択し、他国に行使してもらうなどあってはならない。
だから、彼らは各国を押さえ込み、自分たちの方法でゴジラを封じようとする。
見方によってはとんでもないエゴだ。ゴジラを消滅させることができるかもしれない作戦を拒み、留め置くという作戦はのちの危険を増大させている。
それでも日本人は日本を見捨てないだろう。それでいいと思うのだろう。
日本人は太平洋の沿岸に抱かれた国土で生きてきた。外で生きていくことは、できるとしても、きっと選択はしない。
東日本大震災で僕らが形成した薄気味悪い団結。そこには団結したという空っぽの集団があっただけだ。そうしなければ自我が保てなかっただけだ。
あのとき必要だったのは、日本を救うという気持ちだったんだと思う。
ナショナリズムではない。愛国心でもない。
目の前の大事な人に手を伸ばす。そういう小さな力。
今でも群をなさない小さな力がたくさんある。
彼らがいるからこそ僕は信じたい。
「スクラップビルドでこの国はのし上がってきた。今回も立ち上がるさ」