昭和の碩学 清水幾太郎に学ぶシリーズ 3回目は、対策について。
事前の情報提供の重要さが強調されています。
第二波を前にした、あるいは、日本人犠牲者がまだ発生していない今のタイミングで、詳しい情報を”ちぎっては投げ”式に情報提供してゆく必要をあらためて痛感します。
<流言蜚語への対策>
ローマの詩人ウィリギリウスは或る詩の中で流言蜚語を叛逆者たる巨人の妹として歌ってゐる。ゼウスに向かって戦ひを挑んだ巨人達は、ゼウスのために一敗地に塗れてしまった。そこで巨人達の母である大地は、息子の復讐のために新しく流言を生んだといふのである。流言は歩みゆくにつれて力を増し、地上を行くのであるが、その頭は雲の中に隠れてをり、昼間は望楼に坐し、主として夜間に飛廻るなどといふ点をウィリギウスは流言蜚語の性格として指摘している。 無根拠といふ点に於いて流言蜚語を軽視し侮蔑する人々も、その働き或いは結果に関しては厳格な態度を以てその防止に努めるのが常である。
流言蜚語への対策として採用するのは、これを二つに区別することが出来る。 第一はこれを禁止することである。消極的な禁止乃至弾圧である。フランシス・ベーコンは言ふ。「これを余り厳格に抑圧するのは当を得た救済策ではない」。余り厳格に禁止することが、却って「そこに何かあるのではないか」「やはりそれが急所ではないか」といふ疑惑を人々の間に植ゑるのは事実である。併し禁止といふ方法を無力にさせる最も根本的な理由は、民衆が報道に飢ゑてゐるといふことである。そんなものを食ってはならぬと警告を発しても、民衆が飢ゑてゐる以上、余り効果が挙がらぬのは当然である。そこで第二の積極的な方法としてこの飢ゑを充たす方針が実行される。即ち事実の真相を発表するのである。 真相の発表も民衆が注意を一点に集中させてゐない時ならば容易であらう。だが既に流言蜚語のために彼等の注意が一点に集中せしめられてをり、その感覚が極度に鋭敏になっている時に、彼等を真に満足せしめるやうな報道を行ふことは殆ど不可能である。真相の発表が縷々新しい流言蜚語の材料として役立つ所以である。 これと共に真相の発表といふ方法の限界を示すものとしては、民衆の飢ゑが既に流言蜚語によって或る程度充たされているといふことである。真相の発表は民衆の食欲を満足させる優れた食物であるに相違ない。だがこれが与へられる前に民衆は既に流言蜚語といふ食物を摂取してゐる。それがどんなに食ふべからざるものであらうとも、兎に角彼等はこれを食ってゐる。その上立派な食物が与へられても、流言蜚語を吐き出すことは出来ないし、食欲が減じてゐるのに重ねて食ふことは困難である。 真相の発表といふ方法の制限を示す以上の二点によって教へられることは、この方法は流言蜚語の発生する以前に於いて取らるべきであったといふことである。それがどのやうに真実であらうとも、流言蜚語の発生後に於いて用ひられたのでは、遺憾ながらその意義の大半は失はれねばならぬ。 (流言蜚語の)発生に先立って常に真相の発表に努力すべきであり、これによってその発生を防ぐべきである。それに先立って行はれてこそ価値あるものが、それに後れて行はれる時は逆に新しい疑惑の種子とさへなるからである。
<ソース>
清水幾太郎:流言蜚語の根拠と対策. 流言、うわさ、そして情報 -うわさの研究集大成ー 現代のエスプリ別冊 242-254 至文堂
(これの元ソース 「流言蜚語」 清水幾太郎著作集2 講談社)