甲子園きっぷ  yama’s stadium☆彡

~球児たちの あしあと~

兵庫球児100年のあしあと 35

2018-06-13 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 35


第68回大会には明石城西、北摂三田、伊川谷北が甲子園への道を歩み始めた。

この年には出場校は現在とほぼ同数の164校となり、甲子園県の兵庫が「近くて遠い甲子園」・・・

と言われるようになった全国でも指折り数える激戦区となった。

67回大会から2連覇 東洋大姫路が史上4度目の決勝延長戦(十回)で滝川第二を下して8度目の甲子園へ。

1963年創部の東洋大姫路。

1969年 第51回大会の初優勝から僅か18年の間に8度の優勝は本当に凄い。


第69回大会は、東洋大姫路が強さを魅せる中、前年準決勝で涙した明石が

1984年 第66回大会から3年ぶり6度目の優勝。

この後30年もの長い時間が流れ、明石は決勝の舞台に上がっていない。

100度目の夏、古豪明石3年ぶり7度目の優勝!を多くのOBの方々は心待ちにしているだろう。


この大会から今では必ず観る光景、応援者もその姿を楽しみにされている勝利を讃える校歌斉唱が聞こえるようになった。

この頃の各校の部員数がどのくらい居たのかは不明だけど、スタンドで戦う選手にとっても

勝利の校歌斉唱は懸命に応援プレイに徹したことへ何より胸を張れる瞬間だったはずだ。

驚くは、69年目にして・・・

またひとつ兵庫の高校野球の大きな改革だ。


決勝で敗れた高砂ナインへ監督さんの言葉が胸に染みる。

そう・・・球児たちはみんな

そこまでの長い時間それを目指して、経験したことがない者には絶対に分からない、

考えられないくらいの汗と涙を流してきたんだから。

素晴らしい指導者との出逢いだな。


第68回大会(1986年)

~東洋V2、長谷川 躍動~


第68回大会決勝で力投する東洋大姫路の長谷川滋利投手


1986(昭和61)年の第68回大会は明石城西、北摂三田、伊川谷北が初出場し、参加校は164校を数えた。

ベスト8は加古川西、明石、星陵、須磨(須磨翔風)、西宮南の公立5校、

滝川第二、神戸弘陵、東洋大姫路の私立3校。

明石を7-0で下した滝川第二と、旋風を巻き起こした西宮南を延長戦で退けた東洋大姫路が決勝に進んだ。


総力戦となった決勝。

東洋大姫路は7-7の延長十回、長谷川滋利(元マリナーズなど)が

左前打で出塁してサヨナラのホームを踏んで連覇を達成した。


長谷川は83年、宝殿中(高砂市)が全国制覇した時の優勝投手。

監督の梅谷馨は「日本一になるような子はどこか違うものを持っている」と言っていたが、

その勝負強さは大したものだった。


滝川、滝川第二を率いた吉本宗泰と梅谷が対決した最後の試合でもあった。



第69回大会(1987年)

~高砂破り、明石が栄冠~


第69回大会決勝で高砂を破り、6度目の優勝を果たした明石ナイン


1987(昭和62)年の第69回大会から春夏の甲子園大会同様、

勝利校の校歌が試合後の球場に流れるようになった。


ベスト8は宝塚西、舞子、武庫荘、高砂、明石、社の公立6校、

東洋大姫路と村野工の私立2校。

決勝も明石ー高砂の公立対決となり、藤本一郎、井上高行が゛投の2本柱゛を

形成する明石が4-1で春夏連続の甲子園出場を決めた。

3年ぶり6度目の栄冠。


高砂の左腕エース橋本智裕は、全7試合59イニングを1人で投げ抜いた。

決勝翌日の8月1日付神戸新聞には肩を落とす高砂ナインの写真とともに、

監督の藤井智司の「泣くな。みんなよくやったんだ。みんなに100点、いや150点やりたい」

と選手をたたえる言葉が載っている。


東洋大姫路監督の梅谷馨が今大会を最後に勇退した。

甲子園出場は夏が5度、春は3度だった。


神戸新聞 吉岡猛逸氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)



兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿