身内のことを他人に言うとき、その身内がたとえ目上の人間であっても、敬語を使うのは間違いですが、敬語を使う人が増えていますね。
例)(A)私の母は私のために洋服を作ってくださいました。
(B)御社の製品は大変性能が良いと、うちの社長がおっしゃっています。
(A)の類似例として次のようなのもよく耳にしますね。これもおかしいですよね。
(C)うちの夫にクリスマスプレゼントをいただきました。
敬語は人間関係の変化に応じて相対的に使い分けなければいけないので、正確に使うのは確かにむずかしいですが、日本語、ひいては日本文化独特の貴重な感性だと私は思っているので、正しく使い分けていきたいと常々思っています。
ということで、次のように言うのが正しい日本語ではないでしょうか?
(A’)私の母は私のために洋服を作ってくれました。
(B’)御社の製品は大変性能が良いと、うちの社長が申しております。
(C’)うちの夫にクリスマスプレゼントをもらいました。
また、人に自分の親のことを「父」「母」と言わずに「お父さん」「お母さん」などと言う人が増えていますねぇ。子どもならまだしも、いい大人がこんな言い方をしているのを聞くと、「あらま~」と思ってしまいます。
ということで again、今日もまた「うるさいおばさん」してしまいました
例)(A)私の母は私のために洋服を作ってくださいました。
(B)御社の製品は大変性能が良いと、うちの社長がおっしゃっています。
(A)の類似例として次のようなのもよく耳にしますね。これもおかしいですよね。
(C)うちの夫にクリスマスプレゼントをいただきました。
敬語は人間関係の変化に応じて相対的に使い分けなければいけないので、正確に使うのは確かにむずかしいですが、日本語、ひいては日本文化独特の貴重な感性だと私は思っているので、正しく使い分けていきたいと常々思っています。
ということで、次のように言うのが正しい日本語ではないでしょうか?
(A’)私の母は私のために洋服を作ってくれました。
(B’)御社の製品は大変性能が良いと、うちの社長が申しております。
(C’)うちの夫にクリスマスプレゼントをもらいました。
また、人に自分の親のことを「父」「母」と言わずに「お父さん」「お母さん」などと言う人が増えていますねぇ。子どもならまだしも、いい大人がこんな言い方をしているのを聞くと、「あらま~」と思ってしまいます。
ということで again、今日もまた「うるさいおばさん」してしまいました
日頃から、気になっていた言葉の使い方を
同じように感じている方がいらっしゃったことが
もう嬉しくってうれしくって・・。
いつもは誰に言っても、まじめ過ぎるんだから、
と言って相手にしてもらえなかったので、
パソコンの前で、そうだそうだと、喜んでしまいました。
と言いつつ、まだまだ敬語の使い方には自信はなく、
恥ずかしいばかりです。
>日々、大学生の息子の日本語を直すと、「言葉は変化していくものだから、仕方ないの! そんなこと言うなら、おかあさんは平安時代の言葉でもしゃべってろよ」と反論される私です。
なぜ最近敬語が乱れているか?
これを私なりに分析すると以下の通りです。
まず、もともと日本語の敬語は難しいという点があります。日本語ほど複雑な敬語システムを持つ言語は世界に類を見ないと聞きます。難しいものは勉強しないと習得はできませんね。
ところで自分が敬語をきちんと系統だてて教えてもらったことがあるかというと、ノーです。
それに、正しい敬語を話す人が少なくなったという背景があります。言葉というのは、コミュニケーションを通じて醸成されますので、そのような環境がなければ学びようがありません。
さらに、その根底には敬意の喪失があるように思います。敬意のないところに敬語を話す風土は生まれません。昔は、高位の人、お年寄り、先生など敬語を使われる人々にはそれなりの尊厳と品位がありました。最近はそのような人々の権威を失墜させるような出来事が数多く報道されています。(そのような人々の非行は昔もあったのかもしれませんが、節度をもって報道されていました。なんでも粗探しをする報道の質の低下は目に余るものがあります。)
モラルの低下と権威の失墜が悪循環を呈しているというのが、私の個人的印象です。
というわけでまともな敬語を話せなくなった人が多くなったとしてもいちがいに攻めるわけにはいきません。自分も自信がないですし...。
息子さんの肩を持つようですみませんm(_ _)m。
[次のコメントに続く]
NHKの「日本語のカタチとココロ」で金田一秀穂先生がなかなか興味深いことをおっしゃっています。
『言葉は、コミュニケーションの道具として必ずしも万能ではありません。だとしたら、「言葉に頼る」、あるいは「言葉の形にとらわれすぎる」というのは、あまりよいことではないのではないでしょうか。
言葉に頼るいちばんの例が、いわゆるコンビニ敬語です。「ご注文はコーヒーでよろしかったでしょうか」「こちらサラダになります」など、コンビニやファミリーレストランでよく聞かれる言葉です。
・・・中略・・・
このコンビニ敬語は形だけ整えた簡単で便利な敬語ですから、とても機械的で心の込もらない言葉になっています。接客敬語は特殊だから仕方がないとはいえ、そのマニュアル的な敬語に頼っていればいいと思うのは間違いです。けれども、それらの言葉を使っている若者は、社会経験が浅く、社会に出てから学ぶはずの敬語の使い方をまだ知らないだけで、失礼をしようと思ってコンビニ敬語を使っているわけではないのですから、お客様に敬意を表そうとする気持ちは汲んであげてもいいのではないか、と私は思います。
・・・中略・・・
私があまり敬語を重要視していないのは究極の感謝とか究極の謝罪といった心情を相手に伝えられるのは実は言葉ではないのではないかと思っているからです。はたして、本当の「ありがとう」、本当の「ごめんなさい」を言葉だけで伝えられるものでしょうか。そういうことをいくら言葉で伝えても、かえって空回りするような感じがします。言葉を研究している身で何ですが、究極の場面においては、「言葉とは無力なものなのだ」と私は思っているのです。』
とはいうものの「日々、大学生の息子の日本語を直す」takuetsuさんの日ごろの努力に息子さんが感謝する日がきっと来るでしょう。
いまだに「ご注文はコーヒーでよろしかったでしょうか」という表現に違和感を持つだちょうでした。
敬語は本当に難しいですよね~
きちんと敬語を使える人に会うと(テレビの中でも)心から素敵だな~と思います。
自分の親を「父、母」と言わないで、「お父さん、お母さん」と言う芸能人多いですよね~
とっても気になっています。
テレビの影響は大きいと思います。皆それでいいのかと思ってしまいますよね~
正しく使って欲しいな~と思います。
特にアイドルとか人気のある人が使えてないと、事務所の人は何故注意しないのか、といつも思います。
何日か前の朝日新聞の「声」欄で、40代の女性が「『やる』の多用が気になる、自分の会話から『やる』を減らしてみませんか?」と言っていたのにとても共感してしまいました。やはり同じことを考えている人がいるんだなーと、ぱんさんと同じように思ったものです。
確かに言葉は刻一刻と変わるものでしょうが、それこそ今はやりの「品格」を失いたくないものですよね。
またご意見をお寄せくださいませ!
だちょうさんの分析、どれにもうなずきながら拝読しました。
敬語は複雑ですから、系統立てて教えるのも教わるのもむずかしいでしょうね。おっしゃるように、コミュニケーションの中で体得できるものだと思います。
ということは、大人自身が敬語を使えなくなってきているのでしょうね。
あと、自分がどのように体得したかを振り返ってみると、親戚も来客も多い家庭で育ち、両親が接待する場にもよくつき合わせられたのです。小学生の頃から来客にお茶を出したり、挨拶させられたし、礼状を書くこともよくさせられました。
現在はそういう生の機会が少なくなっているのでしょうね。拝顔する→手紙→電話→メール...と、ツールが変わってきたことが関係しているかも...。メールのやりとりでは敬語は体得しづらいですものね。
ですから、敬語を使えなくなった人を一概に責めることはできないというだちょうさんの意見には、大いに同意できます。自分にも責任がありますよね。
金田一さんは言葉の学者でありながら、考え方が柔軟ですよね。以前から感心していました。
お父上の春彦氏も、「言葉は変わるもの」というのを前提にした、やはり柔軟な考え方をなさっていたように思います。
愚息の言うように、確かに言葉は変わるものだし、私自身も誤用→慣用化した言葉や、元の意味を知らずに使っている言葉がたくさんあるわけで、依怙地になるのは愚かな面もあるかもしれません。
ただ、「変わるものだから」で何でも許してしまうと、もうなし崩し的に崩れていってしまうと思うのです。それに歯止めをかけるものが、言葉へのある程度のこだわり、教養、興味、愛着、品格などでしょうか...。それらを失わずに言葉を使っていきたいと思っています。
さらに大事なことは、「伝えたい気持ち」なのでしょうね。それが伴っていなくて相手に違和感を与える最たる例がコンビ二敬語でしょう。たとえマニュアルどおりに喋っていても、それに真摯な心が込められていれば、つまり主体的に話されていれば、自然に自分の言葉になると思うし、違和感は減ると思います。
逆に、秀穂氏が言うように、言葉が無力なほど究極の場面では、主体的な気持ちが行き交えば言葉は要らないのでしょう。
要は、伝えたいという主体的な気持ちで言葉を使うことが大事なのでしょうね。そういう意味では、「これが正しい日本語だ」と人に強要できるものでも、するものでもないのかもしれません。
その意味では、正しい日本語というよりは、美しい日本語を使っていきたいと思います。むずかしいことですが...。
せっかく絵文字を入れてくださろうとしたのに、ごめんなさいね、タイトルには入らないようですね。
nonkiさんにもいろいろ共感していただけて嬉しいです(←代わりに使ってみました) やっぱり「お父さん、お母さん」は気になりますよねぇ。
それと、「テレビの影響は大きい」というのにまさに同感です。みんなが、特に有名人が使っていると、それが正しいような、いいような、かっこいいような、錯覚をしてしまいがちですよね。
ここでも言えることは、「誰それが使っているから」とか「誰それの真似をするとかっこいいから」とかのような受身な動機ではなく、主体的に言葉を選んでほしいと思います。
これからもどうぞよろしく...またいらしてくださいね。