少し古い新聞記事ですが、2018年4月15日付東京新聞朝刊の「時代を読む」欄に掲載された記事を紹介します。関西学院大学准教授の貴戸 理恵氏のコラムです。
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「弱者」の「敗者」化
「所得の多い家庭の子のほうがよりよい教育を受けられる傾向」をどう思うか。公立の小中学校の保護者に尋ねたベネッセ教育総合研究所と朝日新聞の共同調査によると、「問題だ」と見なす保護者は34.3%と過去最低。「当然だ」「やむをえない*」と答えた人の合計が6割を超え最多となった。2008年には「問題だ」と見なす人が5割超で、こちらが多数派だった。
これを「格差」容認派が増えた、というのはトリッキーである。増えているのは「不平等」の容認だろう。格差は単に差があることを示すが、不平等はその差が「不当」であるという価値判断を含む。
教育における格差は「不当」であるといえる。なぜならそれは、個人が能力や意欲を発揮する以前のスタートラインの差、すなわち「機会の不平等」に関わっているからだ。
同じスタートラインに立って競った結果の差であれば「当然」「やむを得ない*」と見なす余地は大きいだろう。だが「よーいドン」の時点で、みんなより恵まれた位置を与えられる人がいる一方、後方から走り始めなければならない人がいる状態は、民主主義的価値から見れば問題である。にもかかわらず、容認派が増加している現実を、どう捉えればよいだろう。
上の調査の回答者となった小中学生の親たちは、大まかには40代だろう。この世代は「いい学校に行きいい会社に入れば安泰」と受験に駆り立てられ、その「安泰」が揺らいだ1990年代後半以降に社会に出て行った。不当にさらされつつ競争させられるなかで、「世の中なんてそんなもの」というあきらめと「ともあれ、私は有利に生きのびる」という切り替えの感覚が身についていったのではないか。さまざまな不当さから目をそらさなければ「頑張ろう」と前向きになることも難しい現実がある。
しかし、こうした現状を肯定することはできない。機会の不平等を感知するセンサーが鈍るとき、スタート時点でハンディを負っている人は、本来的には「弱者」であるにもかかわらず「敗者」と見なされていくことになる。教育は、能力主義的な競争という名目を与えることによって「そうはいっても勉強ができないおまえは負けだ」と「敗者化」に一役買っていく。
そして、これは「強者の勝者化」とセットだ。上の調査によれば、不平等容認派の背景は、高学歴で経済的にゆとりのある、都市部在住の層である。強者ほど自分のスタートラインの「上げ底」を認めたがらず「勝ったのは自分の能力ゆえ」と思いがち。そんな実態が浮かび上がる。
立ち返って問う必要を感じる。教育は何のためにあるのか。
「自分が将来有利に生きるため」とするならば、教育は個人を豊かにするだけの私的財にすぎなくなる。かつては「国や社会の役に立つ人間になるため」という答えがあったが、そうした言い方のリアリティーは、教育が大衆化した現在では失われている。
現代において、教育を、個人の利害を超え、他者や社会へ個人をつなぐものとして捉えなおすにはどうしたらよいか。考えていかなくてはならない。教養とは本来、「不当さ」をその身に引き受けさせられた他者への想像力を、可能にするものであるはずなのだから。
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(* 原文表記のまま掲載しています。※文中の段落のブロック分けと太字化は、ブログ管理人によります。)
教育を受ける権利は、すべての国民が平等に有する権利であり、日本国憲法で保障されています。その権利に不平等が生じている状態を容認することは、憲法によって保障されている基本的人権を否定することにつながると私は思います。否定という表現が行き過ぎなら、歪めると言い換えたらよいでしょうか。そしてそれは、基本的人権自体をも軽んずることにつながり、ひいては自ら放棄することにもつながりかねないと思うのです。
よく、「権利と義務」のようにセットで考えられがちですが、これにもこの人権軽視が表れているのではないでしょうか。「権利だけを主張するのはわがままだ。権利を主張するなら、義務も遂行すべきだ。義務を遂行しないなら、権利を主張できない」という論理です。一見筋が通っているようですが、これは権力者、つまり、義務を遂行させたい側から見た論理ではないでしょうか。義務の遂行云々以前に、権利が憲法で保障されているのですから、国民側からすれば権利を主張するのは当然のことであり、決してわがままではないはずです。
にも拘わらず、わがままと感じ、義務とセットで考えてしまうのは、自己責任論と同様に、いつのまにか権力者によって国民に刷り込まれた、権力者に好都合な論理なのではないかと、私は考えるのです。
自分たちが作った憲法について、そして憲法が保障している自らの権利について、国民がきちんと理解していないと、権力者につけ込まれるだけだと私は思いますが、いかがでしょうか? 安倍政権が狙う憲法改正は、まさにこの"隙"を狙い、利用するものだと思いますが、いかがでしょうか??
弱者への目線は、つまりは基本的人権の視点で考えることだと思うtakuetsu@管理人でした。