えつこのマンマダイアリー

♪東京の田舎でのスローライフ...病気とも仲良く...
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第5章 放射線治療 5.

2007年06月29日 | 乳がん闘病記
5.
 F先生のお達し通り、その後2日間はプロテクトシートをつけて入浴した。
 2005年4月14日。入浴のとき絆創膏を外し、初めて患部を見た。鏡に映った自分の姿を見て、「あぁ、こうなったんだ…」とだけ思った。乳房がだいぶなくなったことに関しては、喪失感や悲壮感、絶望感など不思議となかった。もともと小さくて、下着でごまかしてきた胸だ。今さらどうということもない。ただし、温存できていなかったら、きっと相当な喪失感を味わっていただろうと容易に想像できる。改めて乳頭を残せたことに感謝すると同時に、乳房を温存できなかった人には気の毒な思いで一杯だった。

 セカンドオピニオンを求めたN先生が「乳頭を残すのと残さないのとでは大きく違う」と言っていた意味が、今さらながらよくわかった。それがなかったら、あばら骨が浮き出て見え、やはり女性の胸には見えなかったに違いない。
 Y先生とF先生が「整形に工夫しました」と言っていた意味もよくわかる。少し前なら、いや、医師の判断によっては現在でも乳頭を残せなかった例にもかかわらず、敢えて残したところに工夫の跡が見てとれた。径2cmの腫瘍の周囲より2cm大きく円状に切除したということは、6cmの球状に近い大きさの乳腺がなくなったということだ。ピンポン玉より大きい。でも、そんなに切ったようには見えなかった。先生たちに感謝しなくてはいけないのかな。
 H看護師に補正用具や下着のパンフを集めてもらっておいたが、それも必要ないかもしれないと思った。そうでなくても、昨今のブラジャーには“水増し?”パッドがついていたりする。別売りの水増しパッドもある。それで充分だと思った。

 おそるおそる傷口を触ってみると、乳房とは思えないほど表面が硬く、皮膚の感覚はまるでなかった。硬いのはどうやら、脂肪組織を取ったために、表皮のすぐ下に胸筋や胸壁があるからのようだ。感覚の麻痺は、時間の経過とともに少しずつ変化していくだろう。

 夫にもためらわずに見せた。闘病記の中には、「術後すぐには夫に見せられなかった」という体験談が少なからずあったのを思い出しながら。「夫を落胆させるのが嫌だった」「夫に嫌われるのではないかと怖かった」という、女性ならではの病気による理由らしい。そういう人たちは、乳房を温存できなかったか、温存できても切除範囲が大きいかなのだろうな、とも思う。あるいは、精神的な喪失感が、女性としての劣等感や卑屈感を生んでしまうのかもしれない。

 できばえに関する夫の感想は私と同じだった。「上手にやってくれた方なんじゃないの?」と。残念ながら他の医師の腕前と比べようもないが、この際そう思うことにしようと思った。

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