「道の学問・心の学問」第六十一回(令和3年7月13日)
石田梅岩に学ぶ②
「此心を知らしむる時は、生死は言に及ばず、名聞利欲もはなれやすき事あり。是を導かん為なり。」
(「斉家論」上)
石田梅岩が、教化実践の為に「講席」を開講したのは45歳の時で、亡くなったのは60歳だった。15年の間、梅岩はひたすら人々を教え導いた。
梅岩は古歌「風呂焚(ふろたき)の其の身は煤(すす)にうづもれて人の垢(あか)をば洗ふものかは」を示して、「ただ教えたいと思う事が日夜朝暮に病となった。自分には決して忠孝の徳が備わっている訳ではないのだが、他人の不忠や不孝を見ると治したいと思ってしまうのである。」と述べている。仏教では、修行の途上にありながらも、迷える衆生を悲しみ教え導くと言うが、梅園の姿は菩薩の姿に似ている。
梅岩は、45歳までは自らの学びの深化で精一杯だった。それでも青年の時から神道布教の志を密かに抱いていた。儒学の学び、40歳で出会った正師の下での信念の深まりを経て、自らの本性=「自分とは何か」を確信出来た時、梅岩は人々の教化と言う心の奥底にずっと抱いていた願いの実現の為に起ち上り、邁進したのである。
その教化の志について亡くなる年に著した「斉家論」の中では次の様に記している。
「私が教えを立てる志は、数年心を尽くして聖賢(聖人・賢人)とは何かを確信した者に似たような所がある。私が確信を持った「此の心」を人々に知らしめるならば、生死の事は言うに及ばず、人間が囚われやすい名聞(世間の評判や名誉心)や利欲からも離れ易くなる事が出来る。この事に導かん為に教えたいのである。尤も、私の漢学能力が拙い中での儒学講釈だから、聴衆は少ないに違いない。もし聞く人が誰も居ない様ならば、辻立ちしてでも私の志を述べようと思っていた。私が願っている事は、一人でも五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の交わりの正しい在り方を知り、主君に仕える者ならば、己を忘れて身をゆだね、苦労を省みずに勤めるべき事を先として、自分が得る事は後にする「忠」の人が生まれ、又父母に仕えるには、親しみを持って愛し、常々喜んだ顔色に充ちていて、身のこなしは柳が風になびく様に、睦まじく仕える「孝」を尽くす人が出て来たならば、その事が生涯の私の楽しみなのである。例え千万人に笑われ恥を受けるとも、決して揺らぐ事の無い私の志なのである。」
梅岩は、名聞や利欲に囚われず、生死をも超脱出来る様な、「人としての本来あるべき姿」を教えたいと強烈に願っていた。見聞きする人々の醜い名聞利欲に惑わされている姿に、青年の時から胸を痛め悲しんでいたのである。梅岩は、決して難しい事を教えたのではなかった。人として当然あるべき姿を、自らの確信と実践を通して示したのである。
石田梅岩に学ぶ②
「此心を知らしむる時は、生死は言に及ばず、名聞利欲もはなれやすき事あり。是を導かん為なり。」
(「斉家論」上)
石田梅岩が、教化実践の為に「講席」を開講したのは45歳の時で、亡くなったのは60歳だった。15年の間、梅岩はひたすら人々を教え導いた。
梅岩は古歌「風呂焚(ふろたき)の其の身は煤(すす)にうづもれて人の垢(あか)をば洗ふものかは」を示して、「ただ教えたいと思う事が日夜朝暮に病となった。自分には決して忠孝の徳が備わっている訳ではないのだが、他人の不忠や不孝を見ると治したいと思ってしまうのである。」と述べている。仏教では、修行の途上にありながらも、迷える衆生を悲しみ教え導くと言うが、梅園の姿は菩薩の姿に似ている。
梅岩は、45歳までは自らの学びの深化で精一杯だった。それでも青年の時から神道布教の志を密かに抱いていた。儒学の学び、40歳で出会った正師の下での信念の深まりを経て、自らの本性=「自分とは何か」を確信出来た時、梅岩は人々の教化と言う心の奥底にずっと抱いていた願いの実現の為に起ち上り、邁進したのである。
その教化の志について亡くなる年に著した「斉家論」の中では次の様に記している。
「私が教えを立てる志は、数年心を尽くして聖賢(聖人・賢人)とは何かを確信した者に似たような所がある。私が確信を持った「此の心」を人々に知らしめるならば、生死の事は言うに及ばず、人間が囚われやすい名聞(世間の評判や名誉心)や利欲からも離れ易くなる事が出来る。この事に導かん為に教えたいのである。尤も、私の漢学能力が拙い中での儒学講釈だから、聴衆は少ないに違いない。もし聞く人が誰も居ない様ならば、辻立ちしてでも私の志を述べようと思っていた。私が願っている事は、一人でも五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の交わりの正しい在り方を知り、主君に仕える者ならば、己を忘れて身をゆだね、苦労を省みずに勤めるべき事を先として、自分が得る事は後にする「忠」の人が生まれ、又父母に仕えるには、親しみを持って愛し、常々喜んだ顔色に充ちていて、身のこなしは柳が風になびく様に、睦まじく仕える「孝」を尽くす人が出て来たならば、その事が生涯の私の楽しみなのである。例え千万人に笑われ恥を受けるとも、決して揺らぐ事の無い私の志なのである。」
梅岩は、名聞や利欲に囚われず、生死をも超脱出来る様な、「人としての本来あるべき姿」を教えたいと強烈に願っていた。見聞きする人々の醜い名聞利欲に惑わされている姿に、青年の時から胸を痛め悲しんでいたのである。梅岩は、決して難しい事を教えたのではなかった。人として当然あるべき姿を、自らの確信と実践を通して示したのである。
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