「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

石田梅岩に学ぶ③「天の与(あたう)る楽(たのしみ)は、実(げに)面白きありさま哉。何を以てかこれに加へん。」

2021-07-20 14:54:30 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第六十二回(令和3年7月20日)
石田梅岩に学ぶ③
「天の与(あたう)る楽(たのしみ)は、実(げに)面白きありさま哉。何を以てかこれに加へん。」 
              (『都鄙問答』巻之一「都鄙問答の段」)

 「石田先生事蹟」によると、梅岩は三十五・六歳の頃迄、「性」=「自らの本性」を知りたいと努力していたが、疑いが晴れる事無く、教え導いてくれる師にも出会えなかった。だが、小栗了雲老師と出会い、日夜工夫する中、母が病に伏し故郷に戻り看病していた正月のある日、用事があって扉を出た時に、忽然としてこれ迄の疑いが消えて、「堯舜(聖人)の道は孝や悌の実践の中にのみある。鵜は水を潜り、鳥は空を飛ぶ、道は上にも下にも明らかである。性は是天地万物の親である」と知った。梅岩四十歳の時だった。だが、自分の見解を師に話すと、まだ自分の我見が残っており不十分であると指導を受けた。更に一年余の工夫を経て、ある夜、深更に及び身は疲れ、夜の明けるのも知らずに臥していた時に、雀の鳴く声が聞こえた。その時、腹の中は大海の静々たる様であり、また晴天の様であった。その雀が鳴く声は、大海の静々たる中に、鵜が水を分けて入る様に覚えて、それより自分の見の執着から解き放たれた、と言う。この時に、梅岩は自然と一体となった自らの本性を確と自覚したのである。

 梅岩は孟子の「心を尽くして性を知るとき、則ち天を知る。」(「尽心上」)の言葉が、自らの教えを立てる根本である、述べている。梅岩が自らの「性」を求め続けて格闘し、遂に得た確信こそが「石門心学」の根本なのである。それ故梅岩は、自らの本性を知る事を周りの人々に教え、本性の深い自覚に基づいて生きる事の幸せを説いた。

 梅岩が心血を注いで著した『都鄙問答』の冒頭に『易経』の「大(おおいなる)哉(かな)乾元(けんげん)、万物資(と)りて始む。乃ち天を統(す)ぶ。雲行き雨施して、品物形を流しき、乾道変化して、各(おのおの)性命を正す也。」(※天地間の万物は、一つの原理から生じたものであり、この原理によって統一せられている。しかも、この原理は、静止不動の抽象的概念ではなく、万物の中に生々流動しており、それぞれにその姿を現わしている。『日本教育宝典』脚注より)を引用し、その後にここに紹介する言葉を記している。「天の与える楽しみは何と面白いことばかりではないだろうか。それ以外の楽しみなど、これに加える必要もない。」と。冒頭こう言い切って梅岩は本文の個別問答に入るのである。

 梅岩は本性を自覚する時に、大自然の中に溶け込む様な境地を実感している。自らの生命も天が与えたものであり、心尽くして性を知る事は、天を知る事に他ならない。天は万物を流転させ、万古不動の根源である。自らの回りの全ての事が天の働きの表れなのである。その様に観じた時、「本当に面白く、それに加える事など全く必要ない」と言い切ったのだ。

 四季の移ろいの美を感じ、出会った人々との縁を思い、自らの環境に感謝し、自らの立場での為すべき事を誠実に果たして行くなら、それこそが、天に則る人間本来の生き方に相違ない。日々「天の与える楽しみ」を実感しつつ生を噛みしめて行きたい。


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