「道の学問・心の学問」第六回(令和2年6月26日)
中江藤樹に学ぶ③
正真の学問は、食物をにる火、燈のごとくなれば、すこしにては用に立がたし。 (『翁問答』下巻之本)
「正真の学問」と「にせの学問」の違いを指摘した藤樹は、「正真の学問」が自ずと身に付く様に時間をかけて日々学んで行く事を強調している。
「正真の学問は食物を煮る火や灯火の様なもので、少し学ぶだけでは役に立たない。偽の学問は家を焼く火の様なもので、少しでも災いになる。偽の学問をして人柄が悪くなる人を見て正真の学問を嫌いになるのは、家を焼く火を見て、食物を煮る火やともしびを嫌いになる事と同じである。」と。そして「この譬えにてよくよく心に納得して欲しい」と述べる。
食物を煮る火は、決して強くはないが時間をかけて徐々に食物を変化させていく。灯火は、ほのかな明かりだが、人の行く先を照らし続ける。学問とはその様なものである。単なる知識は、ともすれば一過性となってしまう。長い時間をかけてじっくりと温め続けたものこそが本物を生む。四〇歳を過ぎれば顔に責任を持てと言われるが、四十年かけて抱き続けた心の姿が自づと顔貌に表れて来るのである。
戦歿学徒の遺稿集である『雲ながるる果てに』の中に出て来る特攻隊の青年は特攻出撃を目前にした日記に「生まれ出でてより死ぬまで、我等は己の一秒一刻によって創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらぞうをきざみつつあるのです。」(『永遠の武士道』281頁)と記している。正に我々の人生とは現在の一瞬一瞬の積み重ねであり、心の灯火によって人格を成熟させているのが日々の生活に他ならない。
灯火というと、佐藤一斎『言志晩録』の「一燈を掲げて暗夜を行く。暗夜を憂ふること勿れ。只だ一燈を頼め。」が思い起こされる。自らが掲げる「一燈」を決して絶やしてはならない。一燈を灯し続ける原動力が「正真の学問」なのである。
日々、少しづつ自らを温め続ける「正真の学問」が求められている。学問にあせりは禁物である。着実でなければならない。同じ書で佐藤一斎は「壮にして学べば、則ち老いて衰へず、老いて学べば、則ち死して朽ちず。」と記している。私達は、毎日「正真の学問」を積み重ねる事で、最期には「朽ちぬ魂」へと昇華する事が出来るのである。
中江藤樹に学ぶ③
正真の学問は、食物をにる火、燈のごとくなれば、すこしにては用に立がたし。 (『翁問答』下巻之本)
「正真の学問」と「にせの学問」の違いを指摘した藤樹は、「正真の学問」が自ずと身に付く様に時間をかけて日々学んで行く事を強調している。
「正真の学問は食物を煮る火や灯火の様なもので、少し学ぶだけでは役に立たない。偽の学問は家を焼く火の様なもので、少しでも災いになる。偽の学問をして人柄が悪くなる人を見て正真の学問を嫌いになるのは、家を焼く火を見て、食物を煮る火やともしびを嫌いになる事と同じである。」と。そして「この譬えにてよくよく心に納得して欲しい」と述べる。
食物を煮る火は、決して強くはないが時間をかけて徐々に食物を変化させていく。灯火は、ほのかな明かりだが、人の行く先を照らし続ける。学問とはその様なものである。単なる知識は、ともすれば一過性となってしまう。長い時間をかけてじっくりと温め続けたものこそが本物を生む。四〇歳を過ぎれば顔に責任を持てと言われるが、四十年かけて抱き続けた心の姿が自づと顔貌に表れて来るのである。
戦歿学徒の遺稿集である『雲ながるる果てに』の中に出て来る特攻隊の青年は特攻出撃を目前にした日記に「生まれ出でてより死ぬまで、我等は己の一秒一刻によって創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらぞうをきざみつつあるのです。」(『永遠の武士道』281頁)と記している。正に我々の人生とは現在の一瞬一瞬の積み重ねであり、心の灯火によって人格を成熟させているのが日々の生活に他ならない。
灯火というと、佐藤一斎『言志晩録』の「一燈を掲げて暗夜を行く。暗夜を憂ふること勿れ。只だ一燈を頼め。」が思い起こされる。自らが掲げる「一燈」を決して絶やしてはならない。一燈を灯し続ける原動力が「正真の学問」なのである。
日々、少しづつ自らを温め続ける「正真の学問」が求められている。学問にあせりは禁物である。着実でなければならない。同じ書で佐藤一斎は「壮にして学べば、則ち老いて衰へず、老いて学べば、則ち死して朽ちず。」と記している。私達は、毎日「正真の学問」を積み重ねる事で、最期には「朽ちぬ魂」へと昇華する事が出来るのである。
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