「続『永遠の武士道』」第五回(令和2年6月23日)
凡そ人は貴きも賤きも一日に両度づゝの食なれば、是を鍛錬せずと云ふことなし、
(『定本 名将言行録』「北条氏康」)
北条氏康の前で、嗣子氏政が共に食事を摂っていた時の事である。氏康は急に涙を落して次の様に述べた。「今氏政が食事をしている姿を見ると、一杯のご飯に汁を二度かけて食べている。凡そ人は身分に拘わらず毎日二回の食事をするもの(江戸時代までは一日二食)である。それ故、その仕方を鍛錬出来ないはずは無い。一杯のご飯にどれだけの汁を掛ければ良いか、その事も推し量る事が出来ずして、足りないと言って重ねて掛ける事は、愚かな事である。朝夕為す事でさえ計算する事が出来ないのに、人間の心の底を推し量って人物の良し悪しを目利きする事などは到底出来ないであろう。人物の良し悪しを判断する事が出来なければ良い士(さむらい)を持つ事は出来ない。良い士を持たなければ、今は戦国乱世のただ中であり、自分が明日にでも死ねば、他国の名将が隣国から乱入して、氏政を滅ぼす事は疑いが無い、そうすれば、北条の家は自分一人で終わってしまう。」
食事は毎日の事である。その日常生活の中に名将となる為の心の鍛錬の姿があるとの氏康の教えは、理に適っている。名将とは生れ付きの才能ではない。日々の心の在り方の中にこそ「凡人」が「非凡」に飛躍する契機は潜んでいるのだ。稀代の名将を生んだ隠れた鍛錬の姿を窺う事が出来るエピソードである。
実は、この話は私が若い頃に『名将言行録』を繙いた際に最も心に残った話であり、それ以降、食事の際のご飯とおかずとの分量の配合には心掛ける様にして来た。その積み重ねが他者への思い遣りの心も育んでくれたと思っている。リーダーには不可欠の鍛錬だと思う。
この話以外にも、氏康は氏政に様々な教訓を与えている。「主将が部下を選ぶと思っているかも知れないが、部下も主将を選ぶのだ。」「部下を愛し、庶民を恵む事は主将の職分故、家老任せにせずに自ら行わなければならない。」「部下のちょっとした功績も忘れず、少しの苦労もそのまま放置せず、時々褒美を与えて愈々志を励まさねばならない。平生から部下の功労を偸んではならない。」氏康の部下や領民に対する細やかな心遣いが溢れた訓えである。
氏康亡き後を任された氏政は、二十年近く天下の名城小田原城に拠って領地を守り抜くが、豊臣秀吉の実力を推し量る事が出来ず、天正8年(1590)秀吉率いる二十万の大軍による小田原攻めによって力尽きて降伏した。氏政は切腹し、遂に北条氏は滅ぼされてしまう。
凡そ人は貴きも賤きも一日に両度づゝの食なれば、是を鍛錬せずと云ふことなし、
(『定本 名将言行録』「北条氏康」)
北条氏康の前で、嗣子氏政が共に食事を摂っていた時の事である。氏康は急に涙を落して次の様に述べた。「今氏政が食事をしている姿を見ると、一杯のご飯に汁を二度かけて食べている。凡そ人は身分に拘わらず毎日二回の食事をするもの(江戸時代までは一日二食)である。それ故、その仕方を鍛錬出来ないはずは無い。一杯のご飯にどれだけの汁を掛ければ良いか、その事も推し量る事が出来ずして、足りないと言って重ねて掛ける事は、愚かな事である。朝夕為す事でさえ計算する事が出来ないのに、人間の心の底を推し量って人物の良し悪しを目利きする事などは到底出来ないであろう。人物の良し悪しを判断する事が出来なければ良い士(さむらい)を持つ事は出来ない。良い士を持たなければ、今は戦国乱世のただ中であり、自分が明日にでも死ねば、他国の名将が隣国から乱入して、氏政を滅ぼす事は疑いが無い、そうすれば、北条の家は自分一人で終わってしまう。」
食事は毎日の事である。その日常生活の中に名将となる為の心の鍛錬の姿があるとの氏康の教えは、理に適っている。名将とは生れ付きの才能ではない。日々の心の在り方の中にこそ「凡人」が「非凡」に飛躍する契機は潜んでいるのだ。稀代の名将を生んだ隠れた鍛錬の姿を窺う事が出来るエピソードである。
実は、この話は私が若い頃に『名将言行録』を繙いた際に最も心に残った話であり、それ以降、食事の際のご飯とおかずとの分量の配合には心掛ける様にして来た。その積み重ねが他者への思い遣りの心も育んでくれたと思っている。リーダーには不可欠の鍛錬だと思う。
この話以外にも、氏康は氏政に様々な教訓を与えている。「主将が部下を選ぶと思っているかも知れないが、部下も主将を選ぶのだ。」「部下を愛し、庶民を恵む事は主将の職分故、家老任せにせずに自ら行わなければならない。」「部下のちょっとした功績も忘れず、少しの苦労もそのまま放置せず、時々褒美を与えて愈々志を励まさねばならない。平生から部下の功労を偸んではならない。」氏康の部下や領民に対する細やかな心遣いが溢れた訓えである。
氏康亡き後を任された氏政は、二十年近く天下の名城小田原城に拠って領地を守り抜くが、豊臣秀吉の実力を推し量る事が出来ず、天正8年(1590)秀吉率いる二十万の大軍による小田原攻めによって力尽きて降伏した。氏政は切腹し、遂に北条氏は滅ぼされてしまう。
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