「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

熊澤蕃山④「心地虚中なれば有することなし。故に問ことを好めり。」

2020-09-25 11:04:17 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第十九回(令和2年9月25日)

熊澤蕃山に学ぶ④

「心地虚中なれば有することなし。故に問ことを好めり。」 
                            (『集義和書』巻第四)

 今回は「君子」八ヶ条の内の最後の三カ条に学びたい。

一、心地(しんぢ)虚中なれば有することなし。故に問(とふ)ことを好めり。まされるを愛しおとれるをめぐむ。富貴をうらやまず、貧賤をあなどらず。富貴は人の役(えき)なり。上に居(をる)のみ。貧賤は易簡なり、下に居るのみ。富貴にして役せざれば乱れ、貧賤にして易簡ならざればやぶる。貴富なるときは貴富を行ひ、貧賤なる時は貧賤を行ひ、すべて天命をたのしみて吾あづからず。

 君子の心の中には、執着すべき妄念が無い。孔子の所謂「意(前もってのかんぐり)・必(無理をも通す思い込み)・固(がんこ)・我(自分本位)」を浄化出来ているのである。それ故、心の中は「虚」の状態である。だから、人に問う事を好む。自分より優っている者を愛し、劣っている者には恵みを施す。それが自然と行えるのである。富貴や貧賤は天が与えたものであり、富貴の者は上に居る重い役割があり、貧賤な者は気楽に人の下に居れば良い。与えられたその立場立場での役割を担うだけであり、全てに於て天命を楽しむだけである。

一、志を持するには伯夷を師とすべし。衣を千仞の岡にふるひ、足を万里の流にあらふがごとくなるべし。衆をい(容)ることは柳下恵を学ぶべし。天空(むなしう)して鳥の飛にまかせ、海ひろくして魚のをどるにしたがふがごとくなるべし。

 志を持ち続ける事は、シナの清廉の士である伯夷を師とすべきだ。「衣を千仞の岡にふるひ、足を万里の流にあらふ」とは、職を辞し世塵を離れて高山清流の間に隠れる事で、伯夷が「義として周の粟を食わず」と首陽山に隠れて節義を貫き餓死した事を範としたい。人を容れる度量は柳下恵(シナの周代魯の賢者)に学びたい。天は空虚で鳥の飛ぶに任せ、海は広大で魚が躍るに任せている。その様に万人を認めて全てを受け容れる事が出来る様にありたい。

一、人見てよしとすれども、神のみることよからざる事をばぜず。人見てあしゝとすれども、天のみることよき事をばこれをなすべし。一僕の罪かろきを殺して天下を得ることもせず。何ぞ不義に与(くみ)し乱にしたがはんや。

 人を基準にして判断するのでは無く、神や天が見ている事を判断の基準とすべきである。神や天の心はわが心の中に在る良知によって明らかなのである。名利の為に罪なき人を殺したり、不義に与して乱に従う事などはもっての他である。

 心を常に虚にして人に問う事を好む事。置かれた立場で天命を楽しんで生きる事。天や海の如き広い度量。神や天に問いかけて善悪を判断して生きる事。西郷南洲の敬天愛人に繋がって行く人の道である。蕃山はそれを君子の理想として掲げ、自らの目標としたのである。


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