「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

石門心学・中澤道二に学ぶ②「わしの噺は神道儒道仏道の、生(いき)てぴちぴちするのを、手づかまへにして話す噺。」

2021-12-07 22:42:58 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第八十二回(令和3年12月7日)
石門心学・中澤道二に学ぶ②
「わしの噺は神道儒道仏道の、生(いき)てぴちぴちするのを、手づかまへにして話す噺。」
                (『道二翁道話』続編三編巻之上)

 中澤道二(どうに)は、道話の中で、儒学の経書の言葉を、庶民の生活に引き付けて具体的に話している。『道二翁道話』続編三編では、『孟子』告子上の「学問の道は他なし、其の放心を求むるのみ。」を題材に、「放心」の意味を語り、本心を取り戻す事を説いている。道二が紹介している歌に

  よいものを生れ付には持つてゐれど皆ポンポンにかすめとられる

があるが、道二は、本心を失わさせるものを「ポンポン」と解り易い言葉で表現した。そして、そのポンポンに心を奪われる事を「放心」と呼んだのである。

「道から離れるのは、ただ物事に執着するからじゃ。執着とは物に取られる事じゃ。放心するのじゃよ。放心とは向こうへきょろりと心を取り放して、此の方はお留守。それゆえ、見るに取られ、聞くに取られ、目が明くと何がほしい、かにが欲しいと、見るものさわるものに取られ切っている。」(二篇巻上)

 自らの本心を、他の物への執着によって失ってしまうのである。それは、無意識のうちに行われ、いつの間にか本心を失ってしまうのである。それを「放心」と言う。

 道話の中で、喜兵衛という者の話が紹介されている。禅学に熱心だった喜兵衛は、道話を聞いて感銘を受け、「世界に敵は一人も居なくなった」と喜び、心学に入って熱心に世話を焼く様になった。ところが、禅学を学んでいた時の仲間達はそれが気に入らず、喜兵衛とは物も言わない事を決めた。そこで、町で喜兵衛が語り掛けたり、目礼をしても全く無視する様になった。更には憎らしい素振り迄見せる様になった。さすがの喜兵衛も腹が立って、「この間また敵が出来ました。もうこちらから物は申すまいと思います。」と道二に述べた。それを聞いて道二は次の様に諭した。

「人は万物の霊だ長だというのは、仁義礼智信という五常が具わっているからそう呼べるのである。その悪者達は、こちらが目礼しても挨拶もせぬというのは、五常の中の礼が、一つ欠けている片輪者、その片輪者の仲間に入り、その上貴様のは向こうよりは位が一段低い片輪者。なぜならば、向こうの片輪者に習ってなる片輪者だから、向こうの片輪者が先生じゃ。貴様はお弟子じゃ。アハ……。イヤ悪くすると、此片輪者の御弟子入りをする者が沢山ある。姑御がこわい顔して、さっぱり物を言わぬと、こちらからもつんつんして物を言わぬなどと言うが、やっぱりお弟子に成るのじゃ。太郎兵衛がアア言うたから、おれも黙っては居られぬというのも、お弟子に成ったのじゃ。」。この言葉で喜兵衛は、相手に合わせて本心を失ってしまっている事に気付き、本心を取り戻した。

道二は言う。「三教(神道・儒教・仏教)とも向こうへ心を取られぬ用心の為に学ぶのじゃ。」「お前がたも平生どうぞ、片輪者の御弟子にならぬ様、ご用心、ご用心。」と。

 この喜兵衛の話は、身につまされる。何か言いがかりを付けて来たり、人をボロクソに非難したりする独善家と出会うと、「この野郎」と、つい言い負かしたくなって来る。だが、それは道を外れている相手と同レベルに自らを貶める事であり、道二の言う「弟子になる」事に他ならない事なのだ。その時、自分の心が相手に奪われ「放心」しているのである。本当に「ご用心、ご用心」である。


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