丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

K中学校のこと(1)

2009年09月13日 | 個人史
川西市立K小学校の卒業生は、2つの中学校に分かれて進学することになる。
小学校より南部、弥生時代の遺跡がある加茂台地を中心とした加茂地区は、その南部の空港騒音問題で有名になった久代地区にある町名のついたK小学校の卒業生と一緒にK南中学校に進学する。

一方、小学校より北側に住む子どもは、能勢電鉄で2駅先の駅前にあるK北小学校の卒業生と一緒にK中学校に進学することとなる。

小学校が6学年で2千人を超えていたが、中学校では別の中学校に分かれた分、他校から合流があるので、3学年で千人の規模の学校になる。やはりマンモス校には違いない。

K中学校は校歌に歌われている「大塚山」という山を削って作られた学校のようで、山の麓になる阪急電車の川西能勢口駅から山をえっちらこっちら登った先にある。
僕の家からは北へまっすぐ直線で行くと近いはずなのだが、なぜか東に駅前まで行ってそれから北進するのが正規の通学路になる。おそらくなのだが、山に登り始める急な崖状の所に、どういうわけか宝塚市が入り込んでいて、家から直線では宝塚市を通り抜ける必要があるからかもしれない。おまけに宝塚市を越えて行くためには、途中に小川が流れていて、その川を横切らないといけないのだが、小さな橋を渡るにはけっこう遠回りになり、石伝いに小川を横切る方法もあるのだが、もっと近いのは、水害よけのダム状のせき止め口を飛び越えて行く方法なのだが、さすがにお勧めはできない。従って、公式的には直線で行く道は指定されないのだが、遅刻しそうなときとかはよくこの経路で行ったものだ。もっとも最終的には学校の裏山の音楽室の裏をこっそり抜けるという裏道で校内に入ることになるのだが。

宝塚市の境界がどこまで入り込んでいるのかは地図を見ないとわからないのだが、卒業後数年経って、その境界線のすぐ近くにK小学校の分割校として新しい小学校ができた。もっと早くできていればこの小学校に通うことになっていたと思われるが、ちょっと残念な気がする。

中学校の入学式は確か4月1日に行われたように思う。確かではないが。
入学式には僕の家は親は来ないで、高校2年の兄が着いてきた。「父兄」であることは確かだ。まあその頃から「父兄」という呼び方の形骸化は感じていた。「保護者」という呼び方が一般化するのはまだまだずっと先の話。現在でも保守的なところでは保護する存在は「父兄」と呼ばれ、保護される存在は「子女」と呼ばれている。
そしてうちの親は僕が中学在校時には一度も中学校にはやって来なかった。親が学校に来たのは卒業式に来ただけである。ちなみにその日にはその足で映画を見に行ったので、映画を見るためについでに卒業式に寄ったような気もしないではないが。