丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

小豆島家族旅行

2010年08月13日 | 個人史
夏に両親とすぐ上の兄の4人で小豆島旅行に行く。
ちょうど小豆島にペンフレンドがいたのだが、連絡が付けば会いに行ってもよかったのだが、ちょっと気恥ずかしいのと、日程等不明で連絡がつかなかったので調整は出来なかったが、ここにペンフレンドがいると思うと身近に思えたり。

もっとも父の従妹が小豆島に住んでいて、ペンフレンドにそのことを伝えて名前も伝えたら知っているということだった。

船で島まで渡って、そこからは、免許取り立ての兄の運転でレンタカーを借りる。途中、ひやっとする場面もあったり。
名所の寒霞渓や二十四の瞳の分教所跡とかも行ったり。当時はまだ道もそんなに整備されていなかったから、新米運転ではつらかったことと思われる。今はかなり整備されて車で行きやすくなっているようだから、一度行ってみたいのだが。

確か一泊二日だったと思うが、短い旅行から始まって、この年から毎年夏には家族旅行をするようになる。年々参加人数も増えて、最高では25人くらいか、バスをチャーターして行くようになったり。両親の健康状態が悪くなってからは一族郎党が集まっての旅行は出来なくなってしまったが、あの頃が懐かしい。

花火

2010年08月12日 | 個人史
花火大会もあってそのついでに同窓会があったわけなのだが、実を言えば花火は苦手だ。


遠くから眺めているのはまだ良いのだが、河原等で間近に見るのは怖い。
昔祖父の家が宝塚にあった頃、宝塚の花火大会をよく見に連れて行かれた。河原で間近に見るのだが、花火というのは距離の関係で音と実際の花火がずれこむ。つまり大輪が開いてその後にドカーンという音が聞こえてくるのだが、そのタイムラグが怖かった。音もしないのに大輪が開いて、そして消えるか消えないかの瞬間に大きな音がする。音の恐怖というか、映像と同時でない音が恐怖だったのかもしれない。だからその大輪自体が恐怖の象徴だった。


大輪が開く前に打ち上げるシュルシュルという音が聞こえたらもうだめ。耳と目を同時に塞いだ。お化け屋敷に入るのとたいして変わらない感覚だった。


かなり離れた距離での花火はしっかり見られる。花火が襲ってくることもない。真下だと火花が落ちてくる危険性なども感じていたのかも知れない。

ついでながら、遊びでやる花火も、打ち上げ系は嫌いだ。怖いといった方が適切かも知れない。

高校同窓会

2010年08月10日 | 個人史
個人史がちょうど高校時代に入っているちょうどのタイミングで、高校時代の同窓会が開かれました。
写真一覧をフォトチャンネルにのせました。場所はここです。
http://blog.goo.ne.jp/photo/26727

残念ながら外務大臣はパキスタンの外相会議に出るために欠席というメッセージが送られてきました。
小学校の同級生だったUさんも来られました。写真を撮りたかったのでお願いしましたが断られました。しかたがないので、全体の中のスナップの一部でしか入っていませんが。


今回は陸上部のOB会と合同で花火を見る会ということで、総勢100名ほど。
そのうち14期卒業生は40名ほど。
僕が先の同窓会に参加したのがもう25年ほど前の話。14期生自体はいつ頃か、毎年集まるようになっていたみたいですが、そのことは昨年まで知らず(僕と連絡取れなかったようです)、偶然僕のHP(またはブログ)で気づいた人が声を掛けてくれたのでようやくこの同窓会の存在を知りました。
(母校の卒業生のアドレス等には載せていたのですが、アドレス元のサーバーが無くなったためにアドレス変更ということになって、行方不明になっていたようです)

中には卒業以来40年ぶりという人もいたり。そこまでいくとみんな歳を取ってますね。
男連中は髪が白くなったり肥えたり。顔は変わっていないのに体型だけ二倍に肥えた奴にあって、そう言ったら、逆に「膨張したな」と言われてしまいました。君にだけは言われたくないよ、と思ったり。

対して女性陣は、みんな56歳57歳なのに、みんな美人に変身している。
孫もいる人もいるというのに、いわゆる妖艶。大昔は年増の女性の色気なんて言葉を聞いても、そんな人たちを見て目がおかしいのではと思っていたが、うーーん、確かに違う。高校時代のアルバムを見直して、そりゃぁ昔は「可愛かった」けれど、今は確かに美人という形容がぴったりの人ばかり。良い風に磨かれてきている。おかげでますます声が掛けられなくなった。

先生方も皆さん健在で、物理のT先生は糖尿病だろうかえらく痩せられていたが、地理のN先生は白髪頭になったくらい。授業時に口癖のように言われていた「おーー間違い」のセリフを皆、なつがしがっていた。日本史のM先生は2年時の担任だったが、僕が教師になってから某公立高校に生徒の進路相談全体会で再会した時のことをよく覚えておられた。数学のM先生は2年の時に来られた先生だが、テスト問題ではよくいじめられたか。けっこう関わりも多かったはずだが、思いでの場面にはいなかったか。

次回はどうやら軽井沢で行うとか。ちょっと参加は無理かも知れないが。

フォークギターと高校生集会

2010年08月05日 | 個人史
高一になってフォークギターを買ってもらう。
今まで義兄の中古のガットギターを勝手に借りて使っていたのだが、自分用として、迷わずにフォークギターにする。行きつけのレコード・楽器店で、実際に触ってみて決める。

ボディーに自分のサインをマジックで書く。中学の頃からサインを決めて使っていたが、現在使っているサインと基本的には変わっていない。
これ以降、フォークギターは社会人になって別のを購入したり、軽音楽部(実質はギター・マンドリン部)の顧問になったので、クラシックギターも購入し、転勤後持って行ったのだが、その学校でのクラブ消滅後、音楽室整理のどさくさで紛失し、後にもう少し上等なのに買い換えたりした。

で、高校1年の時に自分のギターを持ち出してからは、どこに行くにもギターと一緒という生活が15年ほど続くことになる。

高校1年の夏に、アングラフォークの集会で、高校生フォークフェスティバルというのが大阪城の野外音楽堂で開催されることになって、フォーク仲間のT君と一緒に聞きに行く。もちろんギターをかかえて。
大阪城公園では、別の集会もやっていて、最初そちらと間違えてしまって、歌本も買ったのに、違うことに気がついて正しい集会に行くことが出来た。歌本は間違えたが、当時はどこの集会でも似たような歌ばかりやっていたからそんなに困ることにはならなかった。

集会の途中、雨が降り出して、屋根のあるステージ付近にみんな逃げ込むことになって、当時としては定番の「雨よいつまでも」という、雨が降り続けるようにと言う内容の歌をみんなで合唱した。高田渡や中川五郎の他に、出演者予定にはなかった岡林信康や西岡たかしなども飛び入り参加してけっこう賑やかな集会になって、フォーク雑誌にも写真入りで掲載されたが、ステージ間近のど真ん中、歌っている目の前に僕がいるのが写っていた。

まあこの時代が全盛な頃で、この後転がるように時代は移り変わっていくのだが。

こばからしいしらかばこ

2010年08月03日 | 個人史
林間学舎が行われた。場所は信州の白樺湖。
二泊だったと思う。宿舎に入ってワイワイして、翌日は白樺湖の側にある車山までハイキング。汗はかいたが、山頂でのんびり。M君が自動販売機でコカコーラを買って飲んでいた。そう言う物があるのは知っていたが、この時が初めてのコカコーラを間近に見た日。
休憩時にクラスが違っていたから話をする機会がなかったUさんに声を掛けた。
後にも先にも、高校時代でUさんと話したのはこれっきり。

このときの昼食に出された弁当が、おにぎりと漬け物だけ。
これを巡って林間学舎に来てからの生徒の不満が爆発。
宿舎に戻ってあれこれ不満が噴出。証拠写真まで撮って、学校に戻ってから生徒会新聞に摘発。笑顔の裏に恐るべき実態ということで、見出しにつけられたのが、「こばからしいしらかばこ」
実はこの見出し、僕が付けたものなのだが。

今から思えば高校1年生の林間学舎ってこのレベルなのかもしれないが、まあ生徒には内容を事前にはほとんど知らされなくて、教師にすべて任せろ悪いようにはしないから、的な旅行計画にうんざりしたようだった。このことが後に修学旅行造反につながっていったのかもしれない。

で、結局この林間学舎がどんなに小馬鹿らしいものだったのか、今ではまったく覚えていない。弁当だけしか覚えていない。

追記です。

同窓会で話を振れば、同じ時に来ていた他校の弁当は豪華だったとか。
卒業アルバムを見れば、この時に善光寺まで行っている。そういえば信州蕎麦を初めて食べた覚えがあった。

高校の教師陣

2010年08月01日 | 個人史
1年の担任教師は物理の教師だった。自作の問題集を作っていて、その中からテスト問題が出題されていた。だからその問題集を購入しているとテストに実に有利だったが、買っていないととたんに不利だった。3学期に成績がやばくなったので、仕方なく購入したのだが。
この教師、1年の時に結婚された。クラスでお祝いをしようということになって、マムシドリンクをプレゼントする。良く効いたと言っていたが、その言葉通り、そのちょうど1年後には「二人目」の子どもが産まれたとか。どういうこっちゃ?

隣のクラスの教師は地理の先生。この教師は得意がロシア語。授業ではロシア語連発やら、ロシア旅行の話をしたりしていたが、大阪万博の時に本当にソ連館に行って担当のロシア人と話をして大行列を尻目に裏口から入場していた。

漢文の教師は趣味で自作の漢詩を作っていて、卒業時に希望者に自費出版の本をくれた。同窓会時に2冊目もいただいた。いまだに読めていない。

古文の教師は源氏物語をやっていて、性格悪い登場人物を「オニオコゼ」と呼び続けていたり、独特の授業でけっこう面白かった。教科書だけでなく、いろいろな教材をプリントして使っていて、原典を読みたいと本気で思っている。

倫理社会の先生は催眠術の魔術師。彼の授業で睡魔に襲われなかった者は一人もいなかった。5分ともたない。

日本史の先生は2年時の担任だったが、一風変わった授業内容で、「お茶の歴史」から始まり、外伝的な歴史をいっぱい扱い、知らぬうちに近代になり、明治時代は西園寺公望の日記を教材に使い、現代が過ぎれば古代になって「神武天皇は実在したか?」「邪馬台国論争とは?」など、日本史のはざまの話ばかりで、大学入試にはまったく役立たなかったが、それはそれなりに面白かった。

世界史の先生は、後に僕が教師になった時に新入生の親として再会するが、世界史は苦手だったので、卒業必要出席日数を取ったら授業に出なくなったので印象がない。

現代国語の教師の話は別項として扱いたい。

数学は毎年二人の教師が違う単元を平行して教えていた。名前のイニシャルで呼び分けて、「数F」「数f」とか、後に教育実習で来ていた先生がそのまま採用されて「数w」が出来、「数m」とかもあった。単元の分け方はわからない。いわゆる代数と幾何という分け方でもなかった。片方でまるでわからなくて15点だったときも、もう片方ではけっこうまともな点数だったり。単元によってムラが大きかった。当時TVで評判の子ども人形劇の主人公を使ったねずみ算からの出題もあったり、後の僕の作ったテスト問題の出題傾向に影響を与える。

芸術教科は選択制で入学時に希望で分かれる。音楽と美術と書道で、当然ながら音楽を取るが、1年の時だけの授業。これは附属中学の教師が附属中学の音楽教室を使って授業を行った。
最終的にテストは「赤とんぼ」の混声3部合唱だったのだが、混声四部合唱にしたいという生徒の希望があって、僕が四部に編曲することになった。しかし元々四部の局ならいざしらず、元々が三部でうまく調和するように出来ている曲を無理矢理四部に書き直したので、所詮無理はあったがなんとか編曲する。
で、合唱上の都合で、僕が二つのパートを歌い分けるはめになり、結果的にはテストとしては不利になったのではないか(つられたと判断されたかも?)と思ったのだが、どうだったか。
合唱でやった「小さい秋みつけた」のピアノ伴奏がとても素敵で、いまだにこの曲を聴くと伴奏に耳を傾けるのだが、あの時ほどの演奏にまだ会えてはいない。

体育はむしろ苦手でしかないのだが、なぜだか体育委員に選ばれてしまった。まあ体操だけは得意だからそれだけはこなせたが、後は苦手な場面が多くてみんなに迷惑をいっぱいかけてしまった。ちなみにプールはまだできていなかった。

英語は3科目あって、リーダーとサイドリーダーと文法作文と。英語は思いっきり落ちこぼれた。中学までの学習がまるで生きてこなかった。特に作文は大の苦手。タネ本を買ってきて合わせたがそのタネ本自体がひどい本でほとんど役に立たなかった。
サイドリーダーのの教師はエロ教師と呼ばれていて、まあ別に特に変ではなかったが、ある意味生徒から親しくからかわれてはいた。迷子犬が学校に住み着いていた時も、すぐに子どもを生み続けるので、その教師の名前で呼ばれていたりもした。
サイドリーダーでは教材になる本を使うと、誰かがすぐにその日本語本を見つけてくる。すると教師は途中でも辞めて別の本に変えるのだが、すぐに生徒は飜訳本を見つける。絶版本を使った時でも古本屋で見つけてきたりのいたちごっこの繰り返し。おかげで英語の短編集がいっぱいたまった。けっこうどれも面白く、推理作家のアガサ・クリスティーの名前を知ったのもこのおかげだった。もっともどの本も完読はしていないのだが。

ちなみにレベルが高い学校だったが、英語のリーダーの教科書が、僕の中学の卒業生の多くが進学した新設校と同じ教科書を使っていたのには少し驚いた。
この教科書は今でも残しているけれど、読む気にはなれていない。