丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

紀行文「奥の舗装道」第12章

2010年12月09日 | 個人史
第12章 涙から明日へ ---後書き

『なぜ一人行くの……(以下略)』
    (堺正章「涙から明日へ」)

宿題で提出した元の紀行文は原稿用紙6枚。
その2年後に、それを元にして改めて書き直そうと思ったのだが、どこまで記憶が残っているのか自信がなかった。
幸いにも、ジローがこの修学旅行を背景にした『破廉恥城始末記』なるユーモア小説を書いていたので、本人の承諾を得てそのノートを借り受けて、補完する形で使わせてもらった。元の紀行文ではそこからの抜粋もけっこう入れていたのだが、今回はその部分を全面的に削除。一部参考として使う程度とする。何しろベースになるテーマ自体が大いに異なっているので。

先にも書いたように、この紀行文形式にした段階で、当時印象に強く残っている歌を、ワンコーラス、短い歌では全曲書き並べる事で自分の印象風景の補完としていたのだが、ノートに載せるくらいならそれでもよかったのだが、さすがにこの場にそのままあげるのには抵抗もあって、ほんのさわりだけにすることに。
これでは本当に伝えたい事は伝えられないのだが仕方がない。

一応、載せた歌についてはデーターを上げるとともに、解説もつけておく、


・「北の国へ」
   作詞・作曲:高石友也
高石友也の初期のシングル曲。
当時、労働歌や反戦歌を多く歌っていた高石だが、後に転向してカントリーソングを歌うようになったが、初期の頃から原風景としてのカントリー志向もあったことを匂わせる歌と言える。

・「私達の望むものは」
   作詞・作曲:岡林信康
岡林信康のメッセージソングの代表曲。
望む物はAではなくBである、という内容が、後半になって逆転する。建前だけで生きていく事に疲れてしまうというのか。そういった心の叫びが見られる歌。 

・「人生」
   作詞:山上路夫  作曲不詳(京都地方の民謡)
「竹田の子守唄」で有名な赤い鳥がメジャーデビューするときに、このままの歌詞では問題があるからということで、歌詞が書き換えられて発表される。事実「竹田の子守唄」は長い期間、放送禁止曲指定されていたのだが、一般には要望が高く、最終的にはこの「人生」という歌を知るものはほとんどいない。けっこう良い歌詞なので、これ自体も気に入ってはいるのだが。

・「明日こそ別れを告げよ」
   作詞:落合武司   作曲:加藤ヒロシ
京都の3人組フォークグループ「ザ・ムッシュ」の歌。この紀行文の第4章の中で、曲名だけ記した公害をテーマにした「坊やの絵」が有名。アングラレコードから数枚レコードを出し、深夜放送のDJもやって関西ではよく知られたグループだったが、全国的メジャーになることもなく解散。
余談だが、先日、解散コンサートの中古レコードを見つけて購入した。

・「オーブル街」
   作詞:松山猛    作曲:加藤和彦
僕の好きなグループフォーク・クルセダーズのファーストアルバム収録曲。

・「恋人を捜そう」
   作詞:原とし子   作曲:米山正夫
西郷輝彦は僕の世代の代表的アイドル歌手の一人。いわゆる元祖「御三家」。西郷か舟木かと世代を二分していたが、僕は隠れ西郷ファンだった。彼の歌の中で一番好きだったのがこの曲だった。深夜放送に何度もリクエスト葉書を書いていたので、この漢字を覚えてしまった。

・「ふるさとよおまえは」
   作詞:永 六輔   作曲:いずみ たく
実はこの曲は一度も聞いた事がなかった。僕が高校1年の時の文化祭で先輩の誰かが歌っているのを聞いて、言い歌だなと記憶に残っていた。だから誰が歌っているのかさえ知らなかった。
ネットは便利な物で、今回この歌を検索して、一発でヒットする。歌まで流れてきたが、聞き覚えのない声だった。知らないはずだ。本物の歌を聞いたのはこの時が初めてなのだから。

・「僕の旅は小さな叫び」
   作詞:山川啓介  作曲:渋谷毅 
N社(今はP社)の製品のCMソング。ステレオセットを買うとおまけでこのレコードが貰えたという。だからその後にもレコード化されていない。
このレコードが欲しくてばかでかいN社のステレオセットを買ったのに、父の知り合いの電器屋はこのレコードをくれなかった。

・「北帰行」
   作詞・作曲:宇田博
小林旭の歌で有名だが、多くの人が歌っている。「ほっきこう」で良いはずなのに変換されない。

・「追放の歌」
   作詞・作曲:高橋照幸
「休みの国」というアマチュアフォークグループが歌っているのだが、僕は最初は楽譜だけでしか知らなかった。後にURCレコードのCDを買ったが、自分で楽譜から歌っていたのと若干違っていて、自分の解釈の方が良いと思っている。

・「ひとりぼっちの旅」
   作詞:久二比呂志   作曲:はしだのりひこ
はしだのりひこという人物はあまり好きではない。当時はフォークルの残党という事で贔屓にしていたのだが、フォークルでの顛末・裏話を知るにつれて気に入らなくなってきた。でも曲は好きなのだが。

・「どうにかなるさ」
   作詞:山上路夫   作曲:かまやつ ひろし 
堺正章主演のTVドラマの中で、彼がギターを弾きながら何度も口ずさんでいた曲。番組に問い合わせが多く来たらしく、実は元はかまやつひろしが歌っている歌だ、ということで思いがけず元の曲が大ヒットする事に。
かまやつひろしの歌も悪くはないが、やはりTVで歌っていた堺正章の歌が好きだ。

・「今日までそして明日から」
   作詞・作曲:吉田拓郎
卓郎が出てきた時、僕はフォークに見切りをつけていた時だったから、彼の歌に出会う事はなかった。だからかなり遅れて彼の曲を聴いたのだが、最初に聞いたのがこの曲だった。岡林の叫びに似たような部分もあり、まったく違うものでもあり、時代の違いを感じる。

・「涙から明日へ」
   作詞:小谷 夏   作曲:山下毅雄

それ以外に、歌詞は書いていないが題名だけ拝借したのが「もう25分で」。
これはフォークルのさよならコンサートで歌われたコミックソング。
この題名だけを書きたくて、わざわざ時計を見てその瞬間を記憶に残した。


個人史の中で、たまたま思い出を書き連ねていたということで、この紀行文を書き直して載せる。当時の印象や心象風景がいろいろ蘇ってくる。

アルバムには写真もいくつもあるので、写真集もスキャナで読み込んでアップしてみたいとは思っているが、いつのことになるやら。

           原文  1972年11月26日




紀行文「奥の舗装道」第11章

2010年12月07日 | 個人史
第11章 今日までそして明日から

『今夜の夜汽車で……(以下略)』
  (かまやつひろし「どうにかなるさ」)

いよいよ東北を離れる。もう終わりなのだ。なんとなく淋しい。みんな元に戻っていく。でっも僕はどこに戻るのだろう。

寝台車の一番上を取る。一番安いそうだが関係ない。それに上の方が僕には楽だ。
この夜はジローの落語の独演会がある。彼のおかげで上方落語の面白さを知る事が出来た。かなり楽しかった。
その後はベッドの上と下とでトランプ。ちょっと変わった経験である。

寝台車は初めてである。でもいつしか眠っていた。その間にも汽車は走る。一週間かかって着いたところをたった一晩で一気に時間を戻すタイムマシンかのように。すべてがまた元に戻っていく。

そして18日朝。


 ”明けぬれば 汽車は上野の空にあり”

 ”東京の 空に浮かびしあの月は
        昨日の空に見えし月かや”


東京に着く。もう終わりなのだ。もう消えたのだ。すべてが過去の闇に消えていったのだ。
東京のビル街に昇る朝日が素直な心できれいだなと思った。


 ”陽光の まぶしきあかりに 耐えきれず
         今ぞ消えゆく 陰の月かな”


東に太陽、西に月。二つを同時に見てきれいだなと思ったのは初めてである。でも何か象徴的でもある。今、古い時代は終わって、新しい時代が始まるのだ。僕自身にとって。でも僕にとって朝日とは何だろう。そして本当に朝日なんか来るのだろうか。
『友よ』という歌がある。あの歌の歌詞に「夜明けは近い」と繰り返すところがあるが、あれは、夜明けなど来ない絶望的暗闇だからこそ、会えて「夜明けは近い」と歌うのだ、そう信じ込むんだということなのだ。だからこそ生きていけるんだ。
生きるってことは信じ込む事なんだ。決して来ない明日の日々を、来ないと知りつつ追いかける事なんだ。

10時25分。新幹線の中。「もう25分」で大阪に着く。夢のように過ぎた日々であった。あるいは夢なのかも知れない。でももう終わったのだ。

一週間、長かったのか短かったのか。そして一隊何が残ったのだろうか。
人は皆家路を目指す。だが終わりなき旅に帰るあてのない旅人は、一隊どこへ行けばよいのだろうか。

『私は今日まで生きてみました……(以下略)』
   (吉田拓郎「今日までそして明日から」)

紀行文「奥の舗装道」第10章

2010年12月06日 | 個人史
第10章 北帰行

17日、最後の旅館を出る。北国最後の日なのだ。

十和田湖に行く。乙女像。かなり失望。もっと期待していたのに。あれのどこが乙女なのだ。
ボートに乗る。一緒に乗ってくれるような女子がいないから、仕方なしに、同じくあぶれ者のYo君と一緒に乗る。水は大変きれいであった。
僕の好きな歌に、デューク・エイセスの「日本の歌シリーズ」の中の「十和田の底に」という歌がある。そのメロディーそのまま。
自然の作りが良いので、船から見る景色もまた良い。船で十和田湖を渡る。

奥入瀬川に沿って歩く。カメラに入るような景色はない。もう終わりが近いという気分である。

『窓は夜露にぬれて……(以下略)』
        (小林旭「北帰行」)

昼、昼食時、ちょっと気分の悪い出来事があった。落ち着いて考えれば他愛のない出来事に過ぎないのだが。
旅行中、僕は班長をさせらていたのだが、まあ集合時の点呼確認くらいの仕事しかないのだが。ところが僕の班に、まったく集合時間を守る気のないN君という大人物がいた。点呼のたびに必ず彼一人だけいないという。反対に、彼さえいれば他の班員はすべているという。
この昼食時もそうだった。お店の二階で、つめつめの席なので、自分の席を確保するのがせいいっぱい。さっさと座って食べる用意もしていたのだが、点呼になってやはりN君だけが見あたらない。仕方がないので探しに席を立って、見つけた時には確保していた席が別の女子によって埋められていた。席が空いている物と思われてしまっていたようだった。で、せっかく食べる用意までできていたのに、他の席に移らされてしまって気分は最悪。

(後期註:40年経ってその時の事を思い出すと、いまだに気分が悪いのは、食べ物の恨みだからだろう。別に僕が確保していた席に座っていた女子に罪はないのだが。先日の同窓会でも中心になって頑張っていたのを見てはいるのだが、顔を見るとこの時の事をいつまでも思い出してしまう)

そんなわけで、食事もそこそこに飛び出してしまい、代わりに外でソバを食べる。170円の、しなくてもよい出費であった。

八甲田山で停車。まだあの有名な映画をやっていない頃。ここに何の予備知識もない。
アベックがすごくちらつく。そしてつまらない。何か僕の居場所がないような。いつの間にか消えてしまったような。いや、元々初めから無かったのかも知れない。この旅行中、というより高校生活中ずっと、いや生まれた時からそうなのかもしれない。
たえず追放されてきたのじゃないのだろうか。
先にバスに乗って寝る。時間の経つのが遅い。

『誰もいない、でこぼこ道を歩いてく……(以下略)』
             (休みの国「追放の歌」)

途中りんご園による。でも気分的にのらなかったのと、食べられてしまうりんごが可愛そうになったのとで、1つ食べただけでバスに帰って寝る。耳にガイドさん達の津軽弁の会話が聞こえてくる。まったく理解できない。

『ひとりぼっちの旅に出た……(以下略)』
   (シューベルツ「ひとりぼっちの旅」)

バスの中での歌は「りんごの歌」ばかり。でも、本当に「りんごの気持ち」などわかっている人が何人いるのだろうか。


   りんごが泣いている
   透明な涙を流して
   りんごは傷ついて
   透明な血に覆われた
   もっと生きたかったのに
   青い空を見たかったのに
   りんごは悲しい声で叫んでいる
   でも、あなたには聞こえない


青森の街を歩く。でも土産にするものは何もなかった。
やしょくを買いに寿司屋に行こうと言う事でついていったが、実は財布の中は非常に乏しかった。「巻き寿司」を1本買う事にしたが、お金が足りるかどうかすごく不安。でも、青森で言う「巻き寿司」が実は「干瓢巻き」の細巻きだという事を始めて知った。だから1本は買えたのでよかった。食文化の違いを初めて知った時だった。
後で聞けばすぐ海だそうだ。行きたかった。夜の海風に吹かれたかった。でも、すべて終わり。

紀行文「奥の舗装道」第9章

2010年12月04日 | 個人史
第9章 僕の旅は小さな叫び

16日。今日からバスにガイドがつく。
今まで旅行会社の手落ちで付いていなかったのだが(3組では地理の先生がガイドしていた。毎夜、クラスの修学旅行委員が予習してたりもした)、これで社内が白けないで済む。もっとも急遽やってきたバスガイドという事もあり、学校名を正しく言ってはもらえなかったり。少々ややこしい校名の我が校と言う事もあって、某教師の弁では、正確に呼ばれないのはうちの学校の宿命だとか。
次に行くのは小岩井農場。
岩木富士がきれいに見える。時々遠くから駒ヶ岳の鳴き声が聞こえる。

農場と言うだけあって、広い野原。馬もいればヘリコプターの飛んでいる。みんな羽を得た鳥のように飛び回る。でもやはり何かさえない。

昼、ジンギスカン料理。
旅行前から一番いやだった時間。僕は基本的に牛と鯨の肉以外は食べない主義(後に豚肉も食べるようにはなったが)、というより、口に入れてものどを通らない。それで心配していたのだが、案の定食べられない。一口、口にしただけでもうだめ。この日はご飯だけを食べて早々と外に出る。
それで一人馬に乗る。けっこう良い気持ちではあった。でも一人はつまらない。

 『明日になれば 明日が来るのか……(以下略)』
      (吉田拓郎「僕の旅は小さな叫び」)

移動中のバスの中では新米バスガイドをからかったり。池田と言ってもわからないので、丹波篠山の近くと冗談を言ったのだが、篠山なら知っているという。池田がどれだけ田舎だと思われたことやら。

八幡平に着く。かなりきれいでもあり、かなり俗っぽくもあった。日光の外人好みのキンキラキンに嫌気がさしたことがあるが、似たような気分になった。

北国のせいか少々寒い。
発荷峠で停車。ますます寒い。見下ろせば十和田湖。とうとう来たのです。
旅館は一軒屋。外に買い物に行けるような所もない。とにかく寒い。よけいに出たくない。

紀行文「奥の舗装道」第8章

2010年12月03日 | 個人史
第8章 北上夜曲

15日朝、今日は平泉巡り。

まずは毛越寺。とくにどうってことはない。平凡な、実に平凡な。さして印象に残らない。目に写ったのは、ただちらつく女子だけであった。

(後日注:修学旅行から何10年もたって、実はこの毛越寺が実に思い出に残っている。残りすぎて、40年ぶりにわざわざ訪れたりする。高校生にはここの良さがわからないのだろう。)

中尊寺。嬉しい事に正常のみくじがある。
大吉。「待ち人……来る」
だんだん良くなる。

金色堂。なんとも言い難い。修理無しの方がいいという声がある。同意。
芭蕉は平泉に義経を偲んだという。すべて歴史の中に消えた現実を感じる。
つまり、今のこの風景に芭蕉なり義経を持ってきてもぴんと来ないのだ。何か違和感を感じるのだ。自然は同じなのに…………と、普通感じるのだが、実は歴史が流れるのと同じように、自然も---木や草や石までも---変わってきているのだ。それら時代時代に合った自然があるのだ。
だから今いる平泉は、僕たちの平泉であって。すでに芭蕉たちは消えてしまっているのだ。
国や城が夢の跡となった夏草も、芭蕉もそのまた夢の跡にいる。
すべてが夢の中に消えていくのだ。

帰り、月見坂の途中にある弁慶堂に変わった趣向のみくじがある。人形がみくじを運んでくるのだ。
大吉。「待ち人……来る。早かるべし」
そしてとうとう現れなかった。でもまだ信じてる。

この日の旅館は一番のサービスである。ただ大部屋に押し込められたのが難。

花巻と言えばわんこそばが名物。食べに行く者も多数いるが、僕は食事もあるし、600円は高いと思うから150円の月見蕎麦にする。
折しもこの日は十六夜。空には満月、そばには満月。

この日も一騒動があった。
誰かが女子浴場の札を「男子」に変えたのだ。そしてその結果、例のY氏を含む一隊が浴場の中で女子と鉢合わせを。
あらぬ疑いをかけられて全員追い出される(トーゼン)。
みんな割り切れない顔。Y氏、つくづくこの旅行はついていないと言うか。

朝は依然おかしな雰囲気。
高校生が飲んではいけない飲み物を、前の夜に外で買ってきた連中がこっそりと飲んでいる。僕も一杯貰ったから共犯になったが、おかしな気分。そんなうちにでごたごたがあって、その場の勢いで布団蒸しにされてしまった。とにかくクタンクタン。

紀行文「奥の舗装道」第7章

2010年12月02日 | 個人史
第7章 松島旅情

この日は松島巡り。
はじめから期待はしていなかったが、その予想通りであった。
ディスカバー・ジャパンという言葉がある。あの言葉も意味深である。再発見というのは、改めて見直そうという事だけど、そのためには、つまりはその土地を深く心に刻む事。すなわち、自分の物にしなければいけないんだ。早い話が、自分の思い出を作る事。去来抄でも、芭蕉の『行く春を近江の人と惜しみけり』をあげて言っている。古人の心と自分の思い出を合わせた心である。芭蕉にとって松島もそうであったろう。しかし僕には何も印象を受ける物はなかった。少なくとも2泊3日は住まないとだめだ。
そこで一句。


  ”松島に あるは苦の根と 松尾のみ”


苦と句をかけてみる。良い句が浮かばないという事。
僕にとって松島はゆきずりの風景にすぎない。

「ふるさとよお前は、憎い奴……(以下略)」
   (高山ナツキ「ふるさとよお前は」)

旅館は男女別。男子ばかりだと、かくもひどいものなのだろうか、かなり乱れた空気である。旅館自体いかがわしい雰囲気。神経が参ってしまう。

廊下に大人のオモチャの自動販売機があった。100円を入れてハンドルを回すとカプセルが出てくる。何が出てくるのかは運次第だが、いずれもいかがわしいものばかり。
さすがにそんなおもちゃに100円を投じる物はいないのだが、誰かがその機械のハンドルをいたずらに回していると、なんとお金を入れていないにも関わらずハンドルが回ってしまった。当然おもちゃも出てきた。
それを伝え聞いた者達が機械に一斉に群がる事に。

翌朝、機械の前には「品切れ」の張り紙がしてあった。さもあらん。

部屋は大変狭い。どんな風に布団を敷いても二人はみ出してしまう。そこでY氏とジローには押し入れで休んでいただく事にする。

その夜は怪談話。恐ろしさの中で一夜を過ごす。
明くる朝、気がつくと上の押し入れで寝ていたはずのY氏が下で寝ている。わけを聞けば、墜落したとの事。しかも2回も。



紀行文「奥の舗装道」第6章

2010年12月01日 | 個人史
第6章 恋人を捜そう

『オーブルの街は僕の涙いっぱい……(以下略)』
          (加藤和彦「オーブル街」)

14日、晴れ。また旅から旅に流れていく。思い出も何も後に残して振り返らずに。

作並の遊園地に行く。なんとなく気分がすぐれない。何かつまらない。菊人形にしても、人形に申し訳程度に菊を添えたような物。スリラーハウスも観覧車もちゃちである。そしてますます憂鬱にさせたのは、アベックが気になりだした事である。修学旅行という物はアベックをたくさん作り出す物である。そして、その大部分が旅行後自然解消してしまう。人と人とのつながりなんて、そんな簡単なものなのだろうか。それとも


  ”たわむれに 二人歩くも 旅心”


それとも、旅のいたずらなのだろうか。
(後日注:その後、同級生同士で結婚したのが2組。160名で2組というのが割合としてどうなのか)
K女史たちに頼まれて、T嬢とN氏の隠し撮りを試みる。そしてなんとか1枚写したところで、すごーーーーーくむなしくなってきてしまった。すごーーーーくくだらないように思えてきて、その写真はとうとう1年たってから秘密裏に渡す。僕が持っていても仕方がなかったから。
恋人のいない旅行なんて、コーヒーのないクリープみたい。

『一人で行くよりも、二人の方が……(以下略)』
         (西郷輝彦「恋人を捜そう」)

青葉城に行く。初めての見学らしい見学である。「青葉城}と聞くと、僕は幼少時代に見た貸本屋の漫画を思い出す。
戦国時代を背景にした、もちろん架空の他愛もない漫画で、その中のセリフに、『青葉城を枯葉城にしてしまえ!』というのがあって、妙に印象的に記憶に残っている。

ここにおみくじの自動販売機がある。味も素っ気もない、ただあきれるばかり。
引いてみる。大吉。
『待人……来ますが遅くなります』
どこかに恋人、落ちていないかな。