いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

兵(つわもの)どもが夢の跡 千手堂:義経公妻子の五輪塔

2007-08-05 12:34:32 | 散策
会報の取材で仙台へ出張する機会があり、中学3年の修学旅行で見学した中尊寺が懐かしくなって、5月19日(土)、50年数年ぶりに平泉町まで足を延ばすことにしました。

修学旅行の記憶で思い出せるのは金色堂だけでした。月見坂入口にある中尊寺境内案内板を見ると、17の子院が境内に点在している。何はともあれ金色堂を目指しましたが、あまりの広さに圧倒され、境内散策を終えたのは4時間を30分過ぎた11時半頃でした。

中尊寺の次はどこにするか? 毛越寺(もうつうじ)にしよう。中尊寺まで利用したバスにするか徒歩にするか。方向音痴の元気印は、二者択一を迫られながら月見坂入口前の広場へ下る。だだっぴろい広場でバス停を探すのが面倒になり、小雨模様のどんよりした空が気掛かりでしたが、徒歩に決めました。

ところが、毛越寺への近道に入り平泉郷土資料館を過ぎると金鶏山(きんけいざん)登山口の標識が目に付いたのです。
急に山頂散策の誘惑に襲われ、標識に従って坂道を7~8分進むと右手に小さな木造の鳥居が見えてきました。金鶏山は60mほどの高さを持つ円錐形をした山で、鳥居から山頂までの参道には急勾配の坂道が多くて、頂上へ着いた時はうっすらと汗ばんでいました。
赤い鳥居の前にある階段を登り詰めると山頂です。そこには、平泉駅無事故祈願をした祠がひとつ設けられているだけでしたが、金鶏山を散策したい誘惑に負けたことが義経公妻子の墓、五輪塔(写真)との出会いとなったのです。元気印が得意とする勝手気侭な目標選定の付加価値でしょう。


五輪塔は参道入口となる鳥居の右脇にありました。
「源義経公妻子之墓」と書かれた標識と解説板があります。

『源頼朝の威圧に依って藤原泰衡が高館に義経公を襲った。義経公は北の方と幼児を殺害し、自害したと伝えられている。時は平安時代の文治五年(西紀1189)閏四月三十日、三一歳で最期を遂げられた。このお墓は、高館で悲しくとも露と消えた妻子の墓と伝えられているが、元は千手院境内で、ここから約三百米程の西北金鶏山の山麓にあったが、ここに墓石を遷し供養を怠らない』

毛越寺の大伽藍は藤原第2代基衡(もとひら)が建立しましたが、その一院に千手院(せんじゅいん)がありました。また、金鶏山の山頂には、お経を埋めた経塚(きょうずか)が造営されたため、平泉を鎮護する聖なる山として崇められるようになりました。藤原4代の時代に9基ほど造られた経塚の詳細は、昭和5(1930)年の乱掘で分からなくなったようです。
今は、昭和3(1928)年10月、金鶏山神社として奉納された平泉駅無事故祈願をする祠が残っているだけです。

千手堂は五輪塔の奥にひっそりと佇んでいます。
御本尊千手観音、弁財天尊、藤原三将軍の御位牌、藤原秀衡(ひでひら)公木像、愛染明王像、不動明王像が堂内に安置されている、と案内版の解説にあります。千手堂は戦禍などで消滅した毛越寺の千手院に属していた経堂の一つかも知れません。

では、高館で悲しくとも露と消えた義経公の妻子とは、どんな人なのだろうか。
毛越寺へ教えを請うと、右の塔が妻(享年22)、娘(享年4)の塔は左と伝聞されているとの話でした。

5歳の長男と生後7日の長女が犠牲になったとする義経記(ぎけいき)ではなく、吾妻鏡(あずまかがみ)を尊重しているのでしょう、五輪塔は2基です。従って、義経が自害する前に殺したのは、河越太郎重頼(しげより)の息女です。義経記では、久我内大臣雅道の御女ですが。

異母兄弟の権力争いの犠牲になった妻子の年が記録されていますが、双方共に名前に触れていないのは、滅亡する一族の妻子は歴史に名前を記録するだけの価値が無いのだと、元気印は憤慨しましたが、トンでもない間違いでした。

それは、古い家系図には女性の名前まで記されていないことが多いからです。
映画『七人の侍』で三船敏郎が自分の身分証明に差し出した侍の家系図では、名前を菊千代、年は13歳でした。だから、河越太郎重頼の息女や久我内大臣雅道の御女の名前があって当然と、元気印は考えていた。河越氏略家系図では長女の位置に女と表記されているだけです。早とちりもいい加減にせい、ですね。

また、重頼の長女は、武蔵国から義経の住んでいる京都へ嫁いだ姫君なので『京姫』、吾妻鏡では『郷御前』と呼ばれており、『新平家物語』(吉川英治)には百合野、『北条政子』(永井路子)では小菊と命名されて登場しているようです。

元気印が訪れた時の千手堂の境内はきれいに清掃されており、怠り無く供養しています。そこへ五輪塔を遷して供養を怠らない。そこには、平泉に藤原氏の基礎を築いた初代清衡(きよひら)の遺志が綿々と継承されています。

金鶏山では、今思い出しても不可思議な体験をしました。
金鶏山の山頂へ急な坂道を登っている時、それまで雲に遮られていた陽光が射し込み、目前の参道を照らしました。射し込む光道に沿って空を見上げると、雲の切れ目から陽光が漏れ落ちてくる。雲の切れ目は直ぐに塞がり参道は元に戻りました。それは一瞬の出来事であり、その時は気に留めず山頂へ向かいました。参拝の帰路に、怠り無く供養され見守られている無言の五輪塔に対面すると、これからも清衡が守護してくれることを、元気印へ訴えてくる。
理性では計り知れない何かが在るのだろうか?そんなことを思いながら毛越寺を巡り、高館・義経堂へ。

さて、高館(たかだち)は北上川に臨む丘陵で、義経親子が滞在していた衣河館(ころもがわのたち)があった場所と云われ、藤原4代泰衡(やすひら)軍が義経を襲い壊滅させています。

多勢に無勢の義経軍は、郎党20数人になるまで防戦しましたが、やがて全員討ち死にしてしまいます。覚悟を決めた義経は妻子を殺害し、自らも果てます。
衣河館は焼失しましたが、義経の遺体は衣川雲際寺へ担ぎ込まれ、義経の信望があつかった禅師頼然は夫婦の位牌を雲際寺に安置して御本尊の不動明王と共に祀り、今日に到っています。

頼朝との不和が確実になり奥州へ逃れた文治2(1186)年、義経は乳母の菩提を弔うために不動明王を雲際寺に奉納しています。雲際寺は、北の方と称された『京姫』を新たな開祖として復興しています。そして、5年前、義経を偲ぶ法要が執り行われています。

高館には、仙台藩主第4代伊達綱村が天和3(1683)年に義経を偲んで建立した義経堂があり、義経公の木像が安置されています。それから6年後の元禄2(1689)年、芭蕉はこの地を訪れて次の句を詠じたのは常識になっています。

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

義経が自害してから丁度500年後のことです。義経没後494年目に綱村が義経堂を建立しています。
偶然かも知れませんが、不思議な類似点です。




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