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高館(たかだち)では、北上川を隔てて横たわる束稲山(たばしねやま)の山容に見惚れました。午後2時を回った頃でしたが、雨空は五月晴れの空に変わり、白い雲が束稲山を覆うようにしてたなびいている。高館から展望した束稲山は淡い色彩で描かれた風景画のようでした
(写真:5月19日午後撮影)。
高館一帯は、藤原初代清衡(きよひら)の時代から平泉の要害地でしたが、北上川の浸食で狭くなり往時の半分になってしまったそうです。義兄・頼朝に追われ奥州に落ち延びた義経を暖かく迎えた藤原3代秀衡(ひでひら)は、高館に義経の居館を設けて厚遇します。義経妻子と奥州藤原氏滅亡の一端は「義経公妻子の墓」に書いてありますので、立ち寄ってみて下さい。
束稲山(595.7m)の周辺には、駒形山(430m)、経塚山(519.1m)があり、高館から展望するとこれらの奥に位置する束稲山は殆ど見えないが、地元の人は「それら全てを総称して束稲山と呼んでいる」ようです。それらの山が重なり合って、山の奥行きに深さを与え景色を引き立てています。そこから生まれる落着きのある山容が、高館から束稲山を展望する人の心を捉えるのでしょう。元気印の持っている日本地図には、束稲山・596とのみ表記されているだけです。
高館から束稲山を展望して、その美しさに惚れ込んだ人は数え切れないでしょう。しかし、高館にある史跡からは、芭蕉、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)の二人が特定できます。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」を刻んだ芭蕉句碑と三樹三郎が「平泉落日」の感動を詠んだ詩碑がありますので。
三樹三郎は、幕末の尊皇攘夷運動に甚大な影響を与えた「日本外史」の著者頼山陽(らい さんよう)の三男に当たる幕末の儒学者です。江戸で儒学を学んでいる時、寛永寺の石灯籠を破壊したことで退学となり、東北から蝦夷を遊歴しています。京都に戻った彼は、勤王の志士として再び活動を始め、小塚原刑場で斬首され生涯を閉じています。
寛永寺(上野)は徳川将軍家の祈祷所・菩提寺です。それを知らない三樹三郎とは思えません。彼の尊皇攘夷行動は過激だったのでしょう。安政の大獄で捕らえられると、父の愛弟子石川和助の助命嘆願も功を奏せず、35歳で刑場の露と消えています。
その12年前、三樹三郎が平泉を訪れた時に詠んだのが、平泉落日の感動であると、詩碑にあります。退学処分を受けて放浪の旅に出かけたのでしょうか。高館・義経堂は53年前に建立され、義経の木造が安置されていました。高館を訪れた彼は、甲冑姿の義経の木像に対面している筈です。詩碑の解説を読んでいると、彼の心境が痛いほど伝わってきます。
『小舟を仕立てて北上川を溯った。藤原全盛からの六百年は一瞬の夢の間である。判官館(はんがんだて)や衣川のたたずまい、義経と頼朝、平泉と鎌倉の悲しい間柄。そして、いま三代百年の豊土山川がいたずらに荒れはてて、ただ義経主従の繰立てのみが悲しくよみがえる。草木狐兎までが鎌倉になびいた歴史の浮き沈みのはかなさ。夕日の影は古塔のあたりにかげり落ちて、ひとしお物悲しい』
俳人の鋭い感性で藤原氏の栄枯盛衰と義経の悲運を句で詠んだ芭蕉、自らの立場を平泉と鎌倉に例え、義経に託して自分の運命を予言した三樹三郎。芭蕉と三樹三郎は、奥州藤原氏とは無縁の人物ですが、高館を訪れた人物がもう一人存在します。
それは、奥州藤原氏と同族関係にある歌僧西行法師で、平泉に2度来ています。
初めは久安3(1147)年に平泉を訪れ2年ほど滞在しています。藤原2代基衡(もとひら)が没する10年前、秀衡が25歳の時期に当たります。
中尊寺は初代清衡によって再建され、2代、3代に引き継がれた平泉は、奥州の中心となる都に整備されてきましたが、それが完成する直前でしょう。藤原政権の政庁といわれる「平泉館(ひらいずみのたち)」(柳之御所・やなぎのごしょ)は既に機能しており、毛越寺(もうつうじ)の伽藍造営が真最中の頃と思われます。
奥州藤原氏は中央とは一線を画した文化を築いています。一言でいうと、仏教文化でしょう。
それに感銘を受けた頼朝は、中尊寺二階大堂を模して鎌倉に永福寺(二階堂)を建立しています。また、中尊寺の秘宝であった「金銀字一切経(きんぎんじいっさいきょう)」「金字一切経」あわせて四千巻以上を京都伏見に持ち帰らせたのは、秀吉です。
現在、「中尊寺経」として高野山金剛峯寺に所蔵されている金銀字一切経4,296巻は国宝に指定されており、龍安寺(大阪)や勧心寺(同)などにも分蔵されているようです。中尊寺に残されている金銀字一切経は16巻のみのようです。
敗軍の将、兵を語らず。しかし、中尊寺や平泉の歴史を検索していくと大英博物館が所蔵するエジプトの遺跡群に代表される、海外の著名な博物館が敗者の地で繰り広げた文化遺産奪取活動の成果であることを連想しました。
平泉に入る7年前、23歳で出家した北面の武士が西行です。武士社会の拘束から逃れるのが出家の動機とする説に従えば、自由人としての西行像が浮かんできます。自由人となった西行は花と月の歌人といわれ、200首以上の桜の歌を残しています。
京都は公家社会から武家社会へ移行する過渡期に入り、平家と源氏とが権力争に明け暮れています。平重衡(しげもり)の焼き討ちにあった東大寺は、治承4(1180)年、伽藍の大部分を焼失します。翌年、造東大寺大勧進職に就いた俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、大仏を完成した文治元(1185)年に大仏開眼法要を行いますが、大仏殿の再建が残されていました。
このような状況を憂えた西行は、大仏開眼法要が営まれた翌年、同族のよしみを武器にした資金調達を目的として、東大寺大仏殿の再建勧進を秀衡に訴えるため平泉に向かいます。全盛期の藤原氏を肌で感じ取っている西行の決断は間違っていません。これが2度目です。
日本の推定総人口が1千万人の時代に、平泉の人口は10~15万人と推定されています。平泉は京都の16~30万人に次ぐ大都市であったからです。70歳の老法師・西行の訴えに、秀衡がどう答えたか?残念ながら、元気印は、その確証を持っていませんが、それなりの心づけをしない秀衡とは思いたくありません。
頼朝から追訴されている義経を厚遇した秀衡は、義経を大将に据えて頼朝と戦えとの遺言を泰衡、忠衡に残しています。「この遺言だに違えずば、末代といふとも 汝らが末の世は 安穏なるべしと心得よ」との予測をしている秀衡が、西行の訴えを無下に断るようでは、元気印は失望するだけです。
文治2(1186)年10月12日、平泉に到着した西行は、束稲山に咲いている山桜の歌を「山家集」に書き残しています。東北の桜の開花は遅いので、翌年5月頃の歌でしょうか。
ききもせず たばしねやまのさくらばな よしののほかに かかるべしとは
元気印は次のように解釈しています。
束稲山の桜が見事とは聞かないが、吉野の千本さくらに匹敵するほど豪華な桜である。
義経が平泉に潜入しているとの情報が頼朝の耳に入ったのが文治3(1187)年ですから、歌を詠んだ西行が、義経妻子や弁慶などと逢っている筈と、元気印は想像力を刺激しています。それに、西行は平泉に入る途中鎌倉へ寄って、頼朝と弓馬の道を夜通し語りあったと吾妻鏡に記録されています。頼朝と西行の密談が行われたことを暗示している可能性は否定できません。
同族である藤原氏を裏切ることを西行が拒否したので、夜を徹して弓馬の道を語り明かしたとして、密談のあったことを記録に残したのでは・・・。或いは、東大寺大仏殿再建の勧進を頼朝が断っていることの暗示? 西行と頼朝しか知らない極秘事項なのでしょうか。
長安部頼長(詳細は不詳)が花見をするために、駒形山の麓に1万本の山桜を植樹したのが、束稲山桜の始まりといわれ、「山家集」で西行が讃えてから知名度が上がりました。
しかし、天明6(1786)年に奥州紀行をした菅江真澄(すがえ ますみ:江戸後期の旅行者、博物者)の著書には、桜は1本もないと記され、600年後には全滅しているようですが、その理由は分かりません。束稲山の桜は消滅しても、束稲山の名前だけは残り日本地図に表記されています。その真横、高館から見て正面の位置には卍がふたつ表記され、中尊寺、毛越寺とあった。
芭蕉、三樹三郎、西行と高館との関りを書いてきましたが、芭蕉の句に落ちついてしいます。
夏草や 兵どもが 夢の跡
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高館一帯は、藤原初代清衡(きよひら)の時代から平泉の要害地でしたが、北上川の浸食で狭くなり往時の半分になってしまったそうです。義兄・頼朝に追われ奥州に落ち延びた義経を暖かく迎えた藤原3代秀衡(ひでひら)は、高館に義経の居館を設けて厚遇します。義経妻子と奥州藤原氏滅亡の一端は「義経公妻子の墓」に書いてありますので、立ち寄ってみて下さい。
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束稲山(595.7m)の周辺には、駒形山(430m)、経塚山(519.1m)があり、高館から展望するとこれらの奥に位置する束稲山は殆ど見えないが、地元の人は「それら全てを総称して束稲山と呼んでいる」ようです。それらの山が重なり合って、山の奥行きに深さを与え景色を引き立てています。そこから生まれる落着きのある山容が、高館から束稲山を展望する人の心を捉えるのでしょう。元気印の持っている日本地図には、束稲山・596とのみ表記されているだけです。
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高館から束稲山を展望して、その美しさに惚れ込んだ人は数え切れないでしょう。しかし、高館にある史跡からは、芭蕉、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)の二人が特定できます。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」を刻んだ芭蕉句碑と三樹三郎が「平泉落日」の感動を詠んだ詩碑がありますので。
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三樹三郎は、幕末の尊皇攘夷運動に甚大な影響を与えた「日本外史」の著者頼山陽(らい さんよう)の三男に当たる幕末の儒学者です。江戸で儒学を学んでいる時、寛永寺の石灯籠を破壊したことで退学となり、東北から蝦夷を遊歴しています。京都に戻った彼は、勤王の志士として再び活動を始め、小塚原刑場で斬首され生涯を閉じています。
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寛永寺(上野)は徳川将軍家の祈祷所・菩提寺です。それを知らない三樹三郎とは思えません。彼の尊皇攘夷行動は過激だったのでしょう。安政の大獄で捕らえられると、父の愛弟子石川和助の助命嘆願も功を奏せず、35歳で刑場の露と消えています。
その12年前、三樹三郎が平泉を訪れた時に詠んだのが、平泉落日の感動であると、詩碑にあります。退学処分を受けて放浪の旅に出かけたのでしょうか。高館・義経堂は53年前に建立され、義経の木造が安置されていました。高館を訪れた彼は、甲冑姿の義経の木像に対面している筈です。詩碑の解説を読んでいると、彼の心境が痛いほど伝わってきます。
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俳人の鋭い感性で藤原氏の栄枯盛衰と義経の悲運を句で詠んだ芭蕉、自らの立場を平泉と鎌倉に例え、義経に託して自分の運命を予言した三樹三郎。芭蕉と三樹三郎は、奥州藤原氏とは無縁の人物ですが、高館を訪れた人物がもう一人存在します。
それは、奥州藤原氏と同族関係にある歌僧西行法師で、平泉に2度来ています。
初めは久安3(1147)年に平泉を訪れ2年ほど滞在しています。藤原2代基衡(もとひら)が没する10年前、秀衡が25歳の時期に当たります。
中尊寺は初代清衡によって再建され、2代、3代に引き継がれた平泉は、奥州の中心となる都に整備されてきましたが、それが完成する直前でしょう。藤原政権の政庁といわれる「平泉館(ひらいずみのたち)」(柳之御所・やなぎのごしょ)は既に機能しており、毛越寺(もうつうじ)の伽藍造営が真最中の頃と思われます。
奥州藤原氏は中央とは一線を画した文化を築いています。一言でいうと、仏教文化でしょう。
それに感銘を受けた頼朝は、中尊寺二階大堂を模して鎌倉に永福寺(二階堂)を建立しています。また、中尊寺の秘宝であった「金銀字一切経(きんぎんじいっさいきょう)」「金字一切経」あわせて四千巻以上を京都伏見に持ち帰らせたのは、秀吉です。
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現在、「中尊寺経」として高野山金剛峯寺に所蔵されている金銀字一切経4,296巻は国宝に指定されており、龍安寺(大阪)や勧心寺(同)などにも分蔵されているようです。中尊寺に残されている金銀字一切経は16巻のみのようです。
敗軍の将、兵を語らず。しかし、中尊寺や平泉の歴史を検索していくと大英博物館が所蔵するエジプトの遺跡群に代表される、海外の著名な博物館が敗者の地で繰り広げた文化遺産奪取活動の成果であることを連想しました。
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京都は公家社会から武家社会へ移行する過渡期に入り、平家と源氏とが権力争に明け暮れています。平重衡(しげもり)の焼き討ちにあった東大寺は、治承4(1180)年、伽藍の大部分を焼失します。翌年、造東大寺大勧進職に就いた俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、大仏を完成した文治元(1185)年に大仏開眼法要を行いますが、大仏殿の再建が残されていました。
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日本の推定総人口が1千万人の時代に、平泉の人口は10~15万人と推定されています。平泉は京都の16~30万人に次ぐ大都市であったからです。70歳の老法師・西行の訴えに、秀衡がどう答えたか?残念ながら、元気印は、その確証を持っていませんが、それなりの心づけをしない秀衡とは思いたくありません。
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ききもせず たばしねやまのさくらばな よしののほかに かかるべしとは
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同族である藤原氏を裏切ることを西行が拒否したので、夜を徹して弓馬の道を語り明かしたとして、密談のあったことを記録に残したのでは・・・。或いは、東大寺大仏殿再建の勧進を頼朝が断っていることの暗示? 西行と頼朝しか知らない極秘事項なのでしょうか。
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しかし、天明6(1786)年に奥州紀行をした菅江真澄(すがえ ますみ:江戸後期の旅行者、博物者)の著書には、桜は1本もないと記され、600年後には全滅しているようですが、その理由は分かりません。束稲山の桜は消滅しても、束稲山の名前だけは残り日本地図に表記されています。その真横、高館から見て正面の位置には卍がふたつ表記され、中尊寺、毛越寺とあった。
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芭蕉、三樹三郎、西行と高館との関りを書いてきましたが、芭蕉の句に落ちついてしいます。
夏草や 兵どもが 夢の跡
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