2013年9月8日。
《中米に限らず、世界中には学校に行けず生きるために物売りをしている子ども達が山のようにいる。この写真はボリビアの道路で料金所待ちをしている車にものを売っている子ども達だが、ここグアテマラでも、僕は改めて考えさせられた。》
グアテマラシティから北東へ約300km。道路も舗装されておらず、電気も夜の6時から10時までしか供給されない田舎町、セムク・チャンペイ。今僕は、この田舎町にいる。
朝。基本的にいつも早起きの僕はこの日も6時には起きて、宿に併設されているレストランの椅子を借りて朝食をとっていた。と言ってももちろんレストランの食事ではなく、前日に商店で買ってきた安~いパンをかじっていたのだが(笑)。
すると、1人の少女がやってきた。
とっても可愛らしくて、綺麗な民族衣装に身を包んでいる。7歳か8歳くらいといったところだろうか。
目的は「物売り」。売っていたものは「チョコレート」。
か細い声で、「チョコラテ」とだけ一言。
僕は速攻でこう答える。「ノー、グラシアス」(結構です、どうもありがとう)と。
僕は決めている。必要のないものは同情せず、絶対に買わないと。それが良いのか悪いのかは正直分からない。でも、もしいちいち売りに来る子ども達すべてからものを買っていたら、いくらあってもお金が足りないし、際限なく子ども達はやって来る。
僕はチョコレートが食べたいわけではない。だから、いつものように断っただけだ。でもなぜか、この女の子には後ろ髪を引かれる思いがした。
なんでだかは分からないが、なぜか買ってあげないことに、妙な罪悪感を感じたのだ。
久しぶりに、僕の魂が話しかけてきた。
「なんだよ、だったら買ってやりゃあいいじゃねぇかよ。別に今オマエがその女の子からチョコレートを買ったところで、オマエが破産するわけじゃねぇだろ?たかだか数十円だろ?罪悪感を感じるくらいなら、そんくらい買ってりゃあいいじゃねぇか。」
僕の心が答える。
「いや、俺は決めてるんだ。必要のないものは、たとえどんなにみすぼらしい子どもからでも買わないって。今その子からものを買うことが本当に正義なのか分からないし、何より物売りの子どもは山のようにいる。その一人一人からものを買っていたら大変なことになってしまうだろ。」
魂が言う。
「そりゃ全員から買っていたら大騒ぎだな。でもよ、買える範囲で買ってやるのもまた正義じゃねぇのか?偉そうに何が正義か分からないとか言って、本当はおめぇがケチなだけじゃねぇのか?」
心が言う。
「ケチというより、必要のないものは買わないなんて、当たり前の話だろ?それにあの子ども達の中には、子どもが売れば同情を得てものが売れるからと、大人に利用されている子どももいるらしいし。俺たちが子どもからものを買うことで、悪影響を与えている可能性だってあるはずだ。子どもが売る⇒売れる⇒もっと売らされる⇒教育を受けられない、という風に。それに、すべての子どもから平等にものを買うことも不可能だし。だから俺は一切買わないと決めたんだ。」
ここは電気も夜しか来ない、超が付くほどの田舎町。学校はあるのだろうか。村人は、どのように生計を立てているのだろうか。それとも、僕なんかが余計な心配をする必要などなく、観光客からの十分な収入があったりするのだろうか。
世界中どこに行っても、子ども達による物売りは存在する。世界中どこに行っても、物乞いが道端に座っている。僕はそれを目にする度に、どうしたらいいのか分からなくなる。本当は何をすべきなのか。施しをすることが正義なのか。逆にあげないことが正義なのか。
その人個人で考えたら、少しでも施しを与えることが良いのかもしれない。しかしそれが社会全体で考えたら、果たして良いことなのだろうか。いや、それ以前に、こんなにもたくさんの子どもの物売りや物乞いが存在している時点で、社会全体もクソもないんじゃないか。社会全体が腐っているから、こんなにもたくさんの子どもの物売りや物乞いが存在しているんだし、全体を見ずに個を助けるべきなんじゃないか。
日本の旅人で、たまに百均などで買ってきたボールペンやお菓子などをあっちこっちで配っている人を目にするが、あれも僕は気になる。確かに喜ばれるのだが、しかしだからと言って、むやみやたらと配ることが、果たして本当に良いことなのか。
やっぱり僕には、まだまだ世界は分からない。目の前の子どもにすら何をすべきなのかが分からない、本当に愚か者だ。
でもいいんだ、僕は分からないことを自覚している、「無知の知」なのだ!もうソクラテスの域に達しているのだから(笑)!
分からないことが分かるようになることは、きっと素晴らしい。でも、分からないことがどんどん増えていくこともまた、きっと素晴らしい。世界は「分からないこと」に満ちている。解けない謎、分からない問題、解決できない課題ばかりが満ち満ちている。でも、それを知ったからこそ「分からない」を自覚できるのだ。それが大切なのだ。
ニッポンの若者には、ぜひどんどん「分からない」を増やしてほしい。「分からないこと」を恐れずに、「分からないこと」だらけの人間になってほしい。知っていることが多ければ多いほど人間が豊かになるのと同様に、「分からないこと」が多ければ多いほど、それもまた人間を豊かにしてくれると、僕は思うのだ。
ニッポンの若者よ、「分からないこと」だらけの人間であれ!(笑)
2013年9月8日。果てしない大森林と川のせせらぎが絶え間なく聞こえる、セムク・チャンペイにて。
《中米に限らず、世界中には学校に行けず生きるために物売りをしている子ども達が山のようにいる。この写真はボリビアの道路で料金所待ちをしている車にものを売っている子ども達だが、ここグアテマラでも、僕は改めて考えさせられた。》
グアテマラシティから北東へ約300km。道路も舗装されておらず、電気も夜の6時から10時までしか供給されない田舎町、セムク・チャンペイ。今僕は、この田舎町にいる。
朝。基本的にいつも早起きの僕はこの日も6時には起きて、宿に併設されているレストランの椅子を借りて朝食をとっていた。と言ってももちろんレストランの食事ではなく、前日に商店で買ってきた安~いパンをかじっていたのだが(笑)。
すると、1人の少女がやってきた。
とっても可愛らしくて、綺麗な民族衣装に身を包んでいる。7歳か8歳くらいといったところだろうか。
目的は「物売り」。売っていたものは「チョコレート」。
か細い声で、「チョコラテ」とだけ一言。
僕は速攻でこう答える。「ノー、グラシアス」(結構です、どうもありがとう)と。
僕は決めている。必要のないものは同情せず、絶対に買わないと。それが良いのか悪いのかは正直分からない。でも、もしいちいち売りに来る子ども達すべてからものを買っていたら、いくらあってもお金が足りないし、際限なく子ども達はやって来る。
僕はチョコレートが食べたいわけではない。だから、いつものように断っただけだ。でもなぜか、この女の子には後ろ髪を引かれる思いがした。
なんでだかは分からないが、なぜか買ってあげないことに、妙な罪悪感を感じたのだ。
久しぶりに、僕の魂が話しかけてきた。
「なんだよ、だったら買ってやりゃあいいじゃねぇかよ。別に今オマエがその女の子からチョコレートを買ったところで、オマエが破産するわけじゃねぇだろ?たかだか数十円だろ?罪悪感を感じるくらいなら、そんくらい買ってりゃあいいじゃねぇか。」
僕の心が答える。
「いや、俺は決めてるんだ。必要のないものは、たとえどんなにみすぼらしい子どもからでも買わないって。今その子からものを買うことが本当に正義なのか分からないし、何より物売りの子どもは山のようにいる。その一人一人からものを買っていたら大変なことになってしまうだろ。」
魂が言う。
「そりゃ全員から買っていたら大騒ぎだな。でもよ、買える範囲で買ってやるのもまた正義じゃねぇのか?偉そうに何が正義か分からないとか言って、本当はおめぇがケチなだけじゃねぇのか?」
心が言う。
「ケチというより、必要のないものは買わないなんて、当たり前の話だろ?それにあの子ども達の中には、子どもが売れば同情を得てものが売れるからと、大人に利用されている子どももいるらしいし。俺たちが子どもからものを買うことで、悪影響を与えている可能性だってあるはずだ。子どもが売る⇒売れる⇒もっと売らされる⇒教育を受けられない、という風に。それに、すべての子どもから平等にものを買うことも不可能だし。だから俺は一切買わないと決めたんだ。」
ここは電気も夜しか来ない、超が付くほどの田舎町。学校はあるのだろうか。村人は、どのように生計を立てているのだろうか。それとも、僕なんかが余計な心配をする必要などなく、観光客からの十分な収入があったりするのだろうか。
世界中どこに行っても、子ども達による物売りは存在する。世界中どこに行っても、物乞いが道端に座っている。僕はそれを目にする度に、どうしたらいいのか分からなくなる。本当は何をすべきなのか。施しをすることが正義なのか。逆にあげないことが正義なのか。
その人個人で考えたら、少しでも施しを与えることが良いのかもしれない。しかしそれが社会全体で考えたら、果たして良いことなのだろうか。いや、それ以前に、こんなにもたくさんの子どもの物売りや物乞いが存在している時点で、社会全体もクソもないんじゃないか。社会全体が腐っているから、こんなにもたくさんの子どもの物売りや物乞いが存在しているんだし、全体を見ずに個を助けるべきなんじゃないか。
日本の旅人で、たまに百均などで買ってきたボールペンやお菓子などをあっちこっちで配っている人を目にするが、あれも僕は気になる。確かに喜ばれるのだが、しかしだからと言って、むやみやたらと配ることが、果たして本当に良いことなのか。
やっぱり僕には、まだまだ世界は分からない。目の前の子どもにすら何をすべきなのかが分からない、本当に愚か者だ。
でもいいんだ、僕は分からないことを自覚している、「無知の知」なのだ!もうソクラテスの域に達しているのだから(笑)!
分からないことが分かるようになることは、きっと素晴らしい。でも、分からないことがどんどん増えていくこともまた、きっと素晴らしい。世界は「分からないこと」に満ちている。解けない謎、分からない問題、解決できない課題ばかりが満ち満ちている。でも、それを知ったからこそ「分からない」を自覚できるのだ。それが大切なのだ。
ニッポンの若者には、ぜひどんどん「分からない」を増やしてほしい。「分からないこと」を恐れずに、「分からないこと」だらけの人間になってほしい。知っていることが多ければ多いほど人間が豊かになるのと同様に、「分からないこと」が多ければ多いほど、それもまた人間を豊かにしてくれると、僕は思うのだ。
ニッポンの若者よ、「分からないこと」だらけの人間であれ!(笑)
2013年9月8日。果てしない大森林と川のせせらぎが絶え間なく聞こえる、セムク・チャンペイにて。