世界中から熱苦しく・・・「ふじもん世界放学ブログ」

元「変な学校先生」私ふじもんが、ただ今世界を駆け巡っています!世界の今と僕の魂をお届けしますので、ぜひお読み下さ~い!

【第1章 南米編 VIVA!平和ボケニッポン人!】

2013-06-14 22:20:49 | 日記
2013年6月13日。

と~っても静かでレトロな街、ウルグアイのコロニア・デル・サクラメント。

「とっても良い街だから、一度行ってみるよいいよ!」という安宿のお母さんの言葉に魅かれ、ウルグアイまで足を運んだ。

本当に静かで平和そのもの。自動車もバイクもほとんど走っておらず、聞こえる音といえば風の音が、レストランから流れる懐古的で心安らぐ音楽くらいか。あ、犬の鳴き声も多かったな。敢えて言うなら、野良犬が多いのがちょっと弱点かも・・・。まぁそれはいいか。

過去の歴史に思いを馳せ、街の中を歩く。

深いことは考えない。思い付くことだけを思い、あとは空にする。

平和だ。そして静かだ。

ふと時計を見る。なんだ、まださっき時計を見てから15分しか経っていないじゃないか。

世界はどこでも同じ時間が流れているはず。しかし、何だかここは違う。

なんて静かで、なんてゆっくりなのだろう。

あ~平和だ。平和ボケだな、こりゃ。

ん?平和ボケ?

静かな空気の中で、僕はふと考える。

世界中どこでも、日本人は犯罪の標的になりやすいという。1つは、やはりお金を持っているから。そしてもう1つは、スキが多いから。

日本人はよく、平和ボケしていると言われる。でも、よく考えてみた。それって、「言われている」んじゃなくて、自分たちで勝手に「言っている」だけなんじゃないかって。

僕はこれまでにそれなりに外国に行ってきたけど、「ヘイ、平和ボケジャパニーズ」と言われたことはない。

そしてさらに考えた。「平和でボケられるなんて、なんて素晴らしいことなんだろう」と。

レストランで荷物を置いたままトイレに行っても、誰も盗らない。ズボンのポケットから財布が半分くらい飛び出ていても、滅多にすられることもない。携帯をテーブルの上に置いてドリンクバーを取りに行っても、まず大丈夫。そんな国、世界でも日本くらいだ。

なんて平和なんだ!素晴らしいじゃないか、日本って!

平和でボケられるくらいの国なんて、世界中にほとんどない。そりゃ外交の話になれば、平和ボケはダメなのかもしれない。でも、国内で普通に暮らしている僕ら国民にとって、「平和ボケ」ができるなんで、最高の国じゃないか!

こんな平和を保てている自分たちの国民性に誇りを持ちたいし、平和な日本を築いて下さった先人たちに心から感謝もしたい。いや、しなければならない。もちろん外交の話になると、そもそも日本は戦後のアメリカ支配の下で・・・などなど難しい話になってしまうけど、そういうのは抜きにしても、「平和でボケられる」国家であるってことは、間違いなく素晴らしいはずだ。

海外に出たら、「平和ボケ」は危険だ。それはそうだけど、そんなにボケられちゃうくらい、日本って平和なんだぜ!って、僕は逆に誇りに思いたい。

もし外国人が、「ヘイ日本人、君たちは本当に平和ボケしちゃってダメだね」なんて言ってきたら、こう返そう。

「おう、そうなんだよ。俺たちの国は国民の罪への意識がみんなすごく高くてさ。とっても平和なんだよ。夜一人で外出しても平気だし、ポケットから財布が飛び出しながら歩いても大丈夫なんだぜ。出来た国だろ?経済格差だって、他の国に比べれば少ない。こんな素晴らしい国にしちゃったもんだから、ついつい油断しちゃうんだよね」って。

そうだ、これは「平和ボケ」じゃない。僕たちは、ボケてるわけじゃない。

これは「平和ぐせ」だ。平和な国に出来たが故の、癖なんだ。

素晴らしいじゃないか、日本!そうだ、僕たちは「平和ぐせ」ニッポン人だ!

VIVA!ニッポン人よ!

2013年6月13日。とっても居心地がいい、ブエノスアイレスのいつもの安宿にて。

【第1章 南米編 今日も僕は「無力」だった。】

2013-06-13 19:46:48 | 日記
2013年6月12日。

この写真は、どこのものだと思うだろうか。

意外かもしれないが、アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスの街の中心にあるスラム街なのだ。この街は、ブエノスアイレスの中心にある、レティーロという鉄道駅とバスターミナルのすぐ裏にある。

僕は勝手なイメージを持っていた。ブエノスアイレスはもっと清楚で綺麗な街だと勝手に思っていた。しかし、着いた瞬間から、いや、着く前から、僕のイメージ通りではないのだと思い知ることになった。

事前の情報では、とにかくブエノスアイレスは犯罪が多いと色々な方から言われていた。「写真を撮ってあげるよ」と親切に声を掛けておいて、カメラを渡すとそのままダッシュ。あとはポカーンとするしかない、という手口。パラグアイでは、実際にカメラを撮られたという女の子もいた。

そしてもう1つ流行っているのが、ケチャップ強盗。1人が後ろからサッとケチャップをかけ、他の人が「大変だ、ケチャップがついてるよ!」と、これも親切な振りをして話しかける。「早く落とさないと大変だよ、服を脱いで!」と、ケチャップを拭きながら服を脱がし、そのドサクサに紛れて財布やカメラなどを盗んでいく。この手口の被害者もかなりいるとのことだった。

そんな話を事前に聞いていた僕は、「どうやら僕が勝手に持っていたイメージとは違うようだな」と、気を引き締めてブエノスアイレスに乗り込んだ。

昨日の朝、ブエノスアイレスに到着。

バスを降り、ターミナルから外に出る。

嗅ぎ慣れた異臭を感じた。ふと右側を見ると、そこにはスラムが広がっていた。

ブエノスアイレスの玄関口ともいえる大型バスターミナルのすぐ裏がこのような状況とは・・・僕は正直驚いた。

宿に向かって歩く。

信号で立ち止まる。

スラムから駆け寄ってきた子ども達が、僕に何かくれとせがんでくる。

その服はみすぼらしく、靴など履いていない。

僕は無視をする。

可愛そうだと思うが、1人1人を相手にするわけにはいかない。誰か1人に何かをあげようものなら、次から次へとせがまれるのは目に見えている。

子ども達はしつこく僕にせがんでくる。

ほとんどいないアジア人の顔の上に、大きなバックパックを背負っている。外国人の旅行者だというのは一目瞭然だ。

1人の少年が、僕のスネを蹴ってきた。

僕は少し前かがみになった。

その瞬間。

後ろから、別の少年が僕の後ろポケットに手を突っ込んできた。

僕は後ろのポケットには何も入れないので、何も盗るものはない。しかし当然、その少年の手を振り払うため振り返りながら両手を後ろにやった。

その瞬間。

僕のスネを蹴った少年が、間髪入れずに前のポケットに手を入れようとしてきた。

素早く気付いた僕は少年の手をバチッと叩いて振り払った。

ちょっとまずいな思った僕は、日本語で「いい加減にしろコラ!」と叫び、子ども達を追い払った。


日本でこのような子どもを見かけることは、まずない。しかし世界には、このような子ども達が山のようにいる。

この子ども達は、決してスリなどやりたくてやっているわけではないはずだ。たまたま見かけた僕に恨みがあるわけもない。ただ、それをしないと生きていけない。生きていくために、犯罪に手を染めるしかない。この2人の少年の動きは、実に機敏だった。何度もこの手口でスリを働いてきたのであろう。

世界中どこに行っても、このような子ども達に出会うことになる。そういう子ども達が限りなくいないであろう日本は素晴らしい!とも言えるのかもしれないが、それでは不十分だと僕は思う。

「自分の国さえ良ければいい」という考え方を捨てなければ、これからの世界は存続すらできないはずだ。どこかの国みたいに自国の利益のみを追求し、自国にとって都合の悪い事はノータッチ。それじゃダメだ。もう、そういう時代じゃない。「国家」という枠組みを捨てることはできないし、捨てる必要もないと思う。しかし、「お隣さんも幸せに」という気概、「競争」から「共存」への意識改革なくして、これからの世界の繁栄はないはずだ。それほどまでに、世界は繋がり一体化しているのだと思う。

この子ども達に、僕ができることは何なのだろう。僕は無力だ。あまりにも無力だ。この旅の中で、僕は何回「無力」を感じるのだろう。

少しでも「何か」を発信するため、今日も僕はここでブログを書く。

2013年6月12日。今日はお客さんが少ないブエノスアイレスの安宿にて。

【第1章 南米編 勝手に1人悟ったつもりの至極当然のこと】

2013-06-12 20:13:43 | 日記
2013年6月11日。

今朝、アルゼンチンの首都であるブエノスアイレスに到着した。

夜行バスでここまでやってきたのだが、ブラジルとパラグアイの思い出を一人考えていた。

今思う。旅を始めて1ヶ月弱。僕はなんと多くの方々に助けられてきたのだろう。

ブラジルのリベルダージという東洋人街でお会いしたある日系人の社長の方に夕飯をご馳走していただいたとき、その方はこうおっしゃった。

「俺はさ、若いころあっちこっち旅をしたけど、色んな人に助けられたんだよ。仕事をしていてもそうだったしな。たくさんメシもおごってもらった。俺は今、その恩返しをしてるつもりなんだ。だから、若い連中には色々ご馳走してあげたいし、何かあれば力になってやりたいんだよな。俺が若いころ年上の先輩に世話になったんだから、今度は俺が世話するのは当然だろう。だから飲め!食え!」

日本を出る前に、大学時代の仲間と飲んでいたとき、そのうちの1人が、僕にこう質問した。

「藤本はいつも教育のこととか若い世代のこととか言ってるけど、そういうエネルギーはどこから来るのか知りたいんだよね。」

その質問を受けたとき、僕は「うーん、なんでだろうね・・・」と、いまいちハッキリ答えなかった。答えようと思えば何かしら答えられたのだが、なぜか滞った。改めて心を素にして考えてみたら、僕の教育への情熱とは何なのだろう、と。

リベルダージの社長さんの言葉を思い出す。

「俺が若いころ年上の先輩に世話になったんだから、今度は俺が世話するのは当然だろう。」

バスの中で、その言葉が急に心に湧き上がる。

そうだ、僕は生きてきたのではなく、生かされてきたのだ。多くの方にお世話になりながら。特に、親をはじめ、年上の先輩方には何度助けていただいてきたことか。

色々な方にお世話になって生きてきた。だから、次の世代を僕たちが世話するのは当然だ。至極当然だ。

今まで生かせていただいたご恩に報いるためにも、次の世代により良い世界を残そうとする。考えてみたら、至極当然じゃないか。受けたお世話を返していく。もしかしたら、教育とはそういうものなのかもしれない。自分が生かされてきたお礼を、知識を、知恵を、次の世代にも繋げていく。そうやって、世界は続いていく。

まだわずかな期間しか経っていないこの旅だけど、それでも本当に多くの方々にお世話になってきた。だから僕は、このご恩を返すためにも旅を続け、そして生きていかなければいけない。僕が生かされてきたように、次の世代が生きていけるように。

何だか、心が晴れ晴れ。あ~明日も晴れますように!

2013年6月11日。ブエノスアイレスの中心街にある安宿にて。

【第1章 南米編 リアル「いただきます」】

2013-06-10 00:06:01 | 日記
2013年6月8日。

彼は最後まで抵抗を続けた。

彼以外の牛たちは牧場に放たれ、彼だけが柵の中に残された。その中に、一箇所だけ出口がある。それは運搬用の滑車付きの小さな荷車への入口だ。

その荷車に乗るということは、間もなくその命が奪われるということを意味する。

彼は、そのことを知っていたのだろうか。彼は抵抗を続け、最後まで荷車には乗らなかった。飼育員が何度も棒で顔を叩き、出口へ誘導しようとする。しかし、彼はなかなかそこへは向かわない。

数十分格闘したであろうか。彼は徐に、荷車へと足を運んだ。その時の彼の気持ちを知る術などないが、彼は何を思い、そこへ向かったのだろうか。


荷車に乗った彼は体重を計られ、別の場所に向かった。そこは、彼の最後の場である。荷車の中でも、彼は暴れていた。それは生への執着なのか、単なる恐怖心なのか。

そしてその場に着いた。荷車から、さらに別の柵の中へ移される。しかし、彼は抵抗を続ける。身をよじり、柵の下に顔を突っ込み、何とかして逃れようとする。しかし、それは叶わない。彼が柵の外へ出ることは、不可能である。


セバスチャンが柵に近づく。


ナイフを取り出す。

狙いを定めながら、暴れる彼の隙を伺う。

そして、首の後ろを一突き。

脊髄をやられた彼は、その場に倒れ込む。


間髪入れずにセバスチャンは、首の動脈にナイフを刺す。

血が吹き出す。

まるでホースから水が出ているかのように、赤い液体が吹き出し続ける。


彼の目は、徐々に生気を失っていく。


その目は悲しみに満ちているように見えた。彼は最後に、何を見ていたのだろう。何を思っていたのだろう。

僕は腹の上に乗り、体の中に残っている血をさらに絞り出す。


血を抜かれた彼は足に杭を刺され、逆さまに吊るされる。


そして先ず最初に、彼はその皮を剥がれた。僕も一緒にやらせてもらったのだが、その皮と肉は温かく、小刻みに痙攣をしていた。僕はその皮を掴み、ナイフで少しずつ皮を剥いでいった。


まさに職人の技だった。彼は、瞬く間に解体されていった。

首を切られ足を切られ、裂かれた腹からは次々と内蔵が取り出されていく。


まるで麻袋のような胃袋。それを裂くと、大量の消化中の草が出てきた。そしてそれは温かく、湯気が立っていた。


あっという間に彼は「命」から「肉塊」になった。「肉塊」になった彼には、いつもの「牛肉」そのものだった。


僕たちは、その肉の一部をもらい受けた。そして、お昼ご飯に、夕飯に、彼のその「命」をいただいた。


僕は今でも、この手に皮を剥いだときの感覚が残っている。温かく、痙攣するその体。僕はそれを次々と剥ぎ取り、彼をバラバラにしていった。

誰もが何万回と言ってきたであろう言葉「いただきます」。昔、誰かに言われたことがある。「いただきますというのはね、命をいただいているということなのよ」と。

言葉は簡単である。言葉では、すぐに理解できる。しかし、感覚として落とし込まなければ、その言葉には意味はない。

僕は今日、本当の意味での「いただきます」の意味を感じた。確かに今日、僕は命をいただいた。そして明日も明後日も、命をいただいて僕は生きていく。命をいただかなければ、僕は生きてはいけない。

だから僕は、これからも「いただきます」を続けていく。

「命」へ。僕はその「命」のおかげで、今日まで生きてこれました。僕は罪人なのかもしれません。しかし俗人の僕は、「命」をいただき続けます。今までの、そしてこれからの「命」へ。本当に、心からの感謝を申し上げます。

2013年6月8日。雨の降るパラグアイの田舎町で。

【第1章 南米編 海外ボランティアにゴーマンかましてよかですか?】

2013-06-07 23:41:18 | 日記
2013年6月6日。

すいません、生意気こきます。


旅をしていく中で様々な施設に見学に行ったり活動に参加したりしていると、色々な人に出会う。その中で、「海外ボランティア」などの活動をしている方々とも数多く出会う。

そのような方々とお話ししていると、たまに恐ろしくなる時がある。何故か?

それは、「信じきっている」人がいると僕には感じられるからだ。

どういうことか?

それは、「海外でボランティアなどをして途上国などの援助をすることは、絶対的に素晴らしいことである」と、信じて疑わない人がいることだ。

すいません、もちろん統計をとったわけじゃないです。僕が感じた「感覚」で書いてます。でも、そう感じたので書きます。

ゴーマンかましてごめんなさい。

「私が今やっていることは、困っている人達を助ける素晴らしいことなの。私は絶対に正しいことをしているのよ。」的な、妙な満足感に満ちているかのような人にちょいちょい出会う。

ぶっちゃけます、僕そういう人見ると、ダメです。ムカつきます。

まずそもそも、世の中に100%正しいことなんてない。困っている人を助ける、という言葉だけは正しいのかもしれないが、「絶対に正しい援助」なんてないはずだ。援助することによる弊害だって多く存在する。援助することでマイナスに働くことだって少なくない。

あんたがやっている援助って、もしかしたら自己満足かもよ?とか思ってしまう。

それにそもそも、この「援助」って響きも複雑だ。途上国と呼ばれている国の人達は、確かに物質的には先進国と呼ばれている国よりは貧しいのかもしれない。しかし、全ての人が「援助」を求めているのかというと、そうではない地域も存在する。現状のままで十分生きていけるし、満足だ、という人たちだっているのだ。

「先進国のような生活ではない=不幸」だと、誰が決めつけたのだろう。先進国みたいな生活をすることで、今の地球はどうなっているのか?僕は先進国と言われる国に住んでいる。一瞬豊かで便利に見えるかもしれないが、その実際はどうなんだ?地球を痛めつけ、大きな方向転換を迫られているじゃないか。先進国と言われている国の方が、はるかに自殺率が高かったりするじゃないか。

僕は「自分がやっていることに一寸の疑いがない人」を、逆に疑ってしまう。全くの疑問の余地を持たないということは、僕は恐ろしいと思う。世の中に100%の真理なんてないことを自覚し、しかしその中で自分が大切だと信じることを見出し、それに向かって動く。しかし、それはあくまで自分が信じた道であって、完璧でも何でもない。そのことを理解して、人は行動すべきだと僕は思う。

僕は今旅をしているので、たまたま「海外ボランティア」を例にしたが、別にそれに限った話ではない。ただ、「海外ボランティア」をしている人に、ちょいちょい「私のやっていることは絶対に正義でサイコー」信者がいる気がしてならない。

僕は「旅は素晴らしい」と信じて旅をしているけど、そんなのいくらで否定の仕様がある。そして、否定されたって僕は構わない。世の中のことなんて、みんなグレーなのだから。ものの見方と価値観で、いくらでも捉え方は変わる。そのことを理解した上で、自分自身の「大切」を見出すしかないのではないだろうか。

ゴーマンかましてごめんなさい。

2013年6月6日。いつもと同じ、パラグアイのファームステイ先にて。