以前、
自己中の対義語は自己犠牲では無いで、”何故 自分が犠牲にならなければいけない”
”犠牲”と言う言葉は自己中の対義語ではなく、自分は自己中であるとカミングアウトする言葉と申しました。 人は自己を確立する過程で社会性を獲得していきます。
他者に対する思いやりであり、自分が間違っているのでは無いかという内省です。動物としての生きる”たくましさ”だけでなく群生する動物としての”やさしさ”です。自己中心から社会の中の自分へとステージアップです。人は生きる動物として利己的です。次に、群生する動物として社会性をすぐに想起させ、自己をコントロールさせます。それが人間です。
”成績が悪いのは学校や先生のせいである。””成績が悪いのをほったらかし”という言葉はどうでしょうか? 成績が悪いのは教え方がわるいのであって、自分は悪くない。自分はちゃんと学校に行っていた。
義務教育、親が行け、まわりの友達も行っていた。子供に学習の興味を持たせられないことは
家庭や、学校、先生の問題もあるでしょう。しかし、総てを他に押しつけ、自分を正当化した結果は何でしょうか?努力が足りない、できが悪い、そして、劣等感、被害者意識、憎悪に囚われてしまいます。
そうです、子供が自己を確立する為には自分に対する自信を持たせることです。人間、社会にたいする信頼を芽生えさせることが重要です。競争よりも重要であるとの認識が現在の教育ではないでしょうか?違いを知るためには競争も必要です。
先生の当たり外れを話題とするよりも、学校の選択を重視するのが現実です。それは子供が他に責任を押しつける事と、同じレベルの話です。子供は親の発想の代弁者でもあり、親が子供に優越感、劣等感や被害者意識を植え付けている事にもなります。それをモラルハラスメントと云うらしいです。あなたは親として子供が学習する意欲を摘み取りませんでした?
私自身は学校の先生には好感をもっていません。恩師と言える先生はいません。それが幸、不幸だとは思いません。それが私の育った現実で有り、無い物ねだりと思います。我が子の時はある意味、生活に夢中で考える余裕が有りませんでした。 続く・・
赤子は超わがまま、自己中の最たる人間
「21世紀に生きる子供たちへ」別web 司馬遼太郎
自己中の対義語は自己犠牲では無いで、”何故 自分が犠牲にならなければいけない”
”犠牲”と言う言葉は自己中の対義語ではなく、自分は自己中であるとカミングアウトする言葉と申しました。 人は自己を確立する過程で社会性を獲得していきます。
他者に対する思いやりであり、自分が間違っているのでは無いかという内省です。動物としての生きる”たくましさ”だけでなく群生する動物としての”やさしさ”です。自己中心から社会の中の自分へとステージアップです。人は生きる動物として利己的です。次に、群生する動物として社会性をすぐに想起させ、自己をコントロールさせます。それが人間です。
”成績が悪いのは学校や先生のせいである。””成績が悪いのをほったらかし”という言葉はどうでしょうか? 成績が悪いのは教え方がわるいのであって、自分は悪くない。自分はちゃんと学校に行っていた。
義務教育、親が行け、まわりの友達も行っていた。子供に学習の興味を持たせられないことは
家庭や、学校、先生の問題もあるでしょう。しかし、総てを他に押しつけ、自分を正当化した結果は何でしょうか?努力が足りない、できが悪い、そして、劣等感、被害者意識、憎悪に囚われてしまいます。
そうです、子供が自己を確立する為には自分に対する自信を持たせることです。人間、社会にたいする信頼を芽生えさせることが重要です。競争よりも重要であるとの認識が現在の教育ではないでしょうか?違いを知るためには競争も必要です。
先生の当たり外れを話題とするよりも、学校の選択を重視するのが現実です。それは子供が他に責任を押しつける事と、同じレベルの話です。子供は親の発想の代弁者でもあり、親が子供に優越感、劣等感や被害者意識を植え付けている事にもなります。それをモラルハラスメントと云うらしいです。あなたは親として子供が学習する意欲を摘み取りませんでした?
私自身は学校の先生には好感をもっていません。恩師と言える先生はいません。それが幸、不幸だとは思いません。それが私の育った現実で有り、無い物ねだりと思います。我が子の時はある意味、生活に夢中で考える余裕が有りませんでした。 続く・・
赤子は超わがまま、自己中の最たる人間
「21世紀に生きる子供たちへ」別web 司馬遼太郎