辻堂から東京へ戻る東海道線のグリーン車は、缶ビール片手にピーナッツをかじっている葬式帰りの親父二人が、自分達専用の宴会場に切り替えてしまい盛り上がっていた。
この歳になると人生のゆるぎない真実は、「死を目標としている」この一点である。
悲しい葬式に数多く出席し、自分には無縁と思いたいが避けることが出来ないことを、頭だけでなく五臓六腑でわかってくる歳になってしまった。
「生」vs「死」、「繁栄」vs「衰退」、「ケガレ」vs「清め」などコインの裏表であり、一時でも早く「死」から「生」に切り替えなければならない。
葬式からの帰り道が、いわゆる「聖」(=神)から「俗」(=けだもの)に戻る重要な儀式の場であり、神社仏閣の周りには、お清めをする「ケガレ」の場が多いのは、このような理由からであろう。
辻堂駅前には、チェーン化された居酒屋など標準化された個性がない店ばかりが目立っていた。
そんな中で地元らしさが期待できそうな寿司屋を発見し入った。
入った瞬間に、サザエのつぼ焼きの匂いが満ちており、これで一杯ということになった。
このときは、理性的に、お銚子各々1本、手酌で飲むというルールが成立し、
故人をしのぶ「お清め」であった。
サザエが1個しか残っていないため、これを焼いてもらい3人で食べれるように6個にきってもらった。
採りたての新鮮さゆえかうまいこと。
たった二切れのサザエのつぼ焼きが、後で考えると暴走のスイッチを入れてしまった。
お銚子1本のはずが、それぞれもう1本、追加でもう1本・・・・
地元であがったアジは如何? いただきましょう!
てなことで、3時間は飲んでしまった。
帰りは、2人になってしまい(もう1人がどうして消えたか不明)、
缶ビール4本、乾き物を調達しグリーン車に。
「お清め」もすんだので、ここからは一転して「ケガレ」の世界の話題に突入です。
我々も生きるのだ。生きるということは、しぶといのだ~など
訳のわからないことを言っていたのでしょう。
又飲もうということで友人は品川で下車していきましたが、
きっと次に飲んでいるのは、又葬式の帰りかもわかりません。
間違いなくゴールに向かっているという既視感、
これを払い落とすために次のキヨメの場に向かって千鳥足を進めた。
この歳になると人生のゆるぎない真実は、「死を目標としている」この一点である。
悲しい葬式に数多く出席し、自分には無縁と思いたいが避けることが出来ないことを、頭だけでなく五臓六腑でわかってくる歳になってしまった。
「生」vs「死」、「繁栄」vs「衰退」、「ケガレ」vs「清め」などコインの裏表であり、一時でも早く「死」から「生」に切り替えなければならない。
葬式からの帰り道が、いわゆる「聖」(=神)から「俗」(=けだもの)に戻る重要な儀式の場であり、神社仏閣の周りには、お清めをする「ケガレ」の場が多いのは、このような理由からであろう。
辻堂駅前には、チェーン化された居酒屋など標準化された個性がない店ばかりが目立っていた。
そんな中で地元らしさが期待できそうな寿司屋を発見し入った。
入った瞬間に、サザエのつぼ焼きの匂いが満ちており、これで一杯ということになった。
このときは、理性的に、お銚子各々1本、手酌で飲むというルールが成立し、
故人をしのぶ「お清め」であった。
サザエが1個しか残っていないため、これを焼いてもらい3人で食べれるように6個にきってもらった。
採りたての新鮮さゆえかうまいこと。
たった二切れのサザエのつぼ焼きが、後で考えると暴走のスイッチを入れてしまった。
お銚子1本のはずが、それぞれもう1本、追加でもう1本・・・・
地元であがったアジは如何? いただきましょう!
てなことで、3時間は飲んでしまった。
帰りは、2人になってしまい(もう1人がどうして消えたか不明)、
缶ビール4本、乾き物を調達しグリーン車に。
「お清め」もすんだので、ここからは一転して「ケガレ」の世界の話題に突入です。
我々も生きるのだ。生きるということは、しぶといのだ~など
訳のわからないことを言っていたのでしょう。
又飲もうということで友人は品川で下車していきましたが、
きっと次に飲んでいるのは、又葬式の帰りかもわかりません。
間違いなくゴールに向かっているという既視感、
これを払い落とすために次のキヨメの場に向かって千鳥足を進めた。