その5:
法衣を着たプラントハンター ① ダビッド、アルマン。
フランスと中国はその地政的ポジションが大陸にありともに中華思想があるので似ているといわれる。しかし現実は、敵(英国)の敵は味方ということもあり、フランスは清朝中国に入り込んでいった。
(写真)ダビッド(David, Jean Pierre Armand (1826 - 1900) 神父
(出典)Plant Explorers.com
記録に残る最初の宣教師でプラントハンター的な活動をしたのがラザリスト会の宣教師、ダビッド(David, Jean Pierre Armand (1826 - 1900) 神父で、ジャイアントパンダをヨーロッパに紹介したことで知られている。
中国に赴任する前は、イタリア、リビエラにあるサボナ学校で10年間科学を教えていて、地質・鉱物・鳥類・動物・植物学など広範な知識を持っており、学生に人気のある先生だったという。
彼は1862年7月5日に北京に到着し、宗派が運営する学校で自然科学を教える教授として赴任した。生徒は70人もいたというからしっかりしたカソリック系の学校のようだ。
この年に北京から北にある村に布教に行き、自由時間に動物・植物の観察と収集を行った。翌1863年には北京から北東にあるJeholに行き、5ヶ月間大学の仕事から離れ布教と自由時間に探索を行いその観察記録と採取した標本などをパリの自然史博物館の昆虫学・動物学の教授ミルヌーエドワール(Milne-Edwards,Henri1800 – 1885)に送った。
これがパリの政府・科学者の関心を呼び、布教活動を減らしフルタイムで動物・植物などの探索に使えるようにという北京のラザリスト会事務総長に依頼が来たほど優れていたようだ。
この異例の依頼は合意され、ダビットはフランスの科学的な活動を任務とすることになった。もちろん活動費はフランス政府(パリ国立自然史博物館)持ちとなった。
(地図)ダビッド、アルマン探検地図
(出典)wikipedia
新しい契約による最初の探検旅行は、1866年3月12日から1866年10月26日まで、モンゴルとゴビ砂漠に旅行をした。ダビッドと中国人のガイド、5匹のラバがこの探検隊の全てで、彼は、植物・昆虫。動物などを観察するためにほとんど徒歩だった。
このモンゴルへの探検旅行で収集した標本はダビッドをして“素晴らしくない”と書き残されているようにモンゴルの大地はあらゆる面でやせて貧しかったという。
1867年は、モンゴルの探検旅行で患った病気の健康回復と第二回の探検旅行の計画で費やした。
第二回の探検旅行は、チベット東部に位置する中国の中央部、西部を検討し、上海から揚子江をさかのぼる計画だった。出発は1868年5月28日で、メンバーは、長年のアシスタントのOuang Thomasと中国人の従者だった。
天津から上海へは内乱で危険な内陸部を避け船で行くことになり、天津の海上にはフランスの軍艦2隻も来ていた。その一艘に乗り上海まで行った。
上海では、中国西部のメコン川探検から戻った宣教師ジャメット(M. Jamet、詳細不明)から、ヒマラヤの雪解け水が流れる夏場は非常に危険なので冬まで待った方がよいというアドバイスを受け、江西省, チヤンシーにベース基地を構え数ヶ月待つことにした。
中国南西部の長江に臨む都市、重慶についたのは12月17日で、目立たないように現地に溶け込めというアドバイスを受けてきたが、中国西部でのキリスト教徒への攻撃と迫害はいまなお厳しいことを実感していたようだ。
重慶から成都に向かい、そしてMupingに向かった。ここはヒマラヤ山脈の遠い端にある山麓の丘にある町だが、現在の中国の都市名は宝興(パオシン)のようだ。ここで滞在し短い探検旅行をおこなったが素晴らしい採取と発見をした。
(1)哺乳類の9つまたは10の種、(2)鳥の30の種、(3)27の魚と爬虫類のコンテナ、その中には60の新しい種(4)634種の昆虫、(5)194種の植物
この採取した量と質は、中国に始めてきた探検旅行での3-4ヶ月かかったものに等しかったという。
ここで採取された植物についてふれると、15種類のシャクナゲ、彼の名前がつけられた「ハンカチノキ(Davidia)」が知られており、この「ハンカチノキ」は、後に英国のヴィーチ商会が派遣するプラントハンター“アーネスト・ウイルソン”のメインの採取目的となる。
Mupingには3ヶ月滞在したが、1869年3月11日に地主のLiさんの家にお茶に招かれ、とある部屋の壁に珍しいクマの皮が張られていた。これが『ジャイアントパンダ』の皮だった。
うそみたいな話だが、4月1日にダビッドのために生きた『ジャイアントパンダ』が捕まえてもってこられた。この生きたパンダはその後どうされたのかということで、後世にダビッドを批判する議論を巻き起こしているようだが、『ジャイアントパンダ』を西欧に初めて紹介したのはダビッドであることは間違いなさそうだ。
その後病に倒れた彼は、治安も悪くなってきたので1869年11月22日にMupingを発ち北京に向かった。途中天津で彼の友人達と会うことを楽しみにしていたが、天津の教会が破壊され、友人及び100人を超えるキリスト教徒が虐殺されたことを知り、ダビッドは体の不健康だけでなく精神的なダメージを受け、1870年7月にフランスに向けて帰国した。
(注)天津でのこの事件は、1870年6月21日に起こった、フランス教会・望海楼教堂が経営する孤児院での幼児誘拐・虐待疑惑で、フランス領事や教会関係者、中国人信者らが、天津住民によって多数虐殺された天津教案事件であろう。
ダビッドは1872年から1874年まで再度中国を訪問し第三回目の探検をした。
彼は、動物・昆虫・鳥類などで素晴らしい成果を出したが、ツツジ、シャクナゲなどの新しい種を発見し、植物学への貢献も大きい。
Newsを集める危険な職業、プラントハンター
ダビッドの日記を英訳した解説本を拾い読みすると、現代のまったく無関係な一コマが浮かび上がってきた。
2000年の初め頃“戦場カメラマン”という肩書きが書かれたヒトに会った。紛争が起きているところに行き、そこで撮った写真を通信社・新聞社などに売って生計を立てる職業という。
湾岸戦争の頃のイラクに行った時は、シリアから密入国をしてイラクで起きていることを写真に撮ったそうだ。この写真が大いに売れ大きな収入になったかといえばそうでもなかったと言う。CNNが政治的にイラクに入り込んだのでCNNを上回る映像でないと個人では組織力に対抗できない。
そうすると個人の戦場カメラマンは、もっと危険なところに入り込みニュースの芽をハンティングすることになる。
プラントハンターも新しい植物の情報、タネの場合は遺伝情報を集めていることになるが、現代では形を変えニュースという情報を集めるのが危険な職業として引き継いでいるような気がする。
英国は、安全を考えてか外交使節団の一員として植物学者などを同行させたが、奥地まで自由に行動することが出来なかった。一方、フランスは、ダビッドの成果があったため、奥地まで入り込む宣教師という組織を国家として活用することになる。
(続く)
法衣を着たプラントハンター ① ダビッド、アルマン。
フランスと中国はその地政的ポジションが大陸にありともに中華思想があるので似ているといわれる。しかし現実は、敵(英国)の敵は味方ということもあり、フランスは清朝中国に入り込んでいった。
(写真)ダビッド(David, Jean Pierre Armand (1826 - 1900) 神父
(出典)Plant Explorers.com
記録に残る最初の宣教師でプラントハンター的な活動をしたのがラザリスト会の宣教師、ダビッド(David, Jean Pierre Armand (1826 - 1900) 神父で、ジャイアントパンダをヨーロッパに紹介したことで知られている。
中国に赴任する前は、イタリア、リビエラにあるサボナ学校で10年間科学を教えていて、地質・鉱物・鳥類・動物・植物学など広範な知識を持っており、学生に人気のある先生だったという。
彼は1862年7月5日に北京に到着し、宗派が運営する学校で自然科学を教える教授として赴任した。生徒は70人もいたというからしっかりしたカソリック系の学校のようだ。
この年に北京から北にある村に布教に行き、自由時間に動物・植物の観察と収集を行った。翌1863年には北京から北東にあるJeholに行き、5ヶ月間大学の仕事から離れ布教と自由時間に探索を行いその観察記録と採取した標本などをパリの自然史博物館の昆虫学・動物学の教授ミルヌーエドワール(Milne-Edwards,Henri1800 – 1885)に送った。
これがパリの政府・科学者の関心を呼び、布教活動を減らしフルタイムで動物・植物などの探索に使えるようにという北京のラザリスト会事務総長に依頼が来たほど優れていたようだ。
この異例の依頼は合意され、ダビットはフランスの科学的な活動を任務とすることになった。もちろん活動費はフランス政府(パリ国立自然史博物館)持ちとなった。
(地図)ダビッド、アルマン探検地図
(出典)wikipedia
新しい契約による最初の探検旅行は、1866年3月12日から1866年10月26日まで、モンゴルとゴビ砂漠に旅行をした。ダビッドと中国人のガイド、5匹のラバがこの探検隊の全てで、彼は、植物・昆虫。動物などを観察するためにほとんど徒歩だった。
このモンゴルへの探検旅行で収集した標本はダビッドをして“素晴らしくない”と書き残されているようにモンゴルの大地はあらゆる面でやせて貧しかったという。
1867年は、モンゴルの探検旅行で患った病気の健康回復と第二回の探検旅行の計画で費やした。
第二回の探検旅行は、チベット東部に位置する中国の中央部、西部を検討し、上海から揚子江をさかのぼる計画だった。出発は1868年5月28日で、メンバーは、長年のアシスタントのOuang Thomasと中国人の従者だった。
天津から上海へは内乱で危険な内陸部を避け船で行くことになり、天津の海上にはフランスの軍艦2隻も来ていた。その一艘に乗り上海まで行った。
上海では、中国西部のメコン川探検から戻った宣教師ジャメット(M. Jamet、詳細不明)から、ヒマラヤの雪解け水が流れる夏場は非常に危険なので冬まで待った方がよいというアドバイスを受け、江西省, チヤンシーにベース基地を構え数ヶ月待つことにした。
中国南西部の長江に臨む都市、重慶についたのは12月17日で、目立たないように現地に溶け込めというアドバイスを受けてきたが、中国西部でのキリスト教徒への攻撃と迫害はいまなお厳しいことを実感していたようだ。
重慶から成都に向かい、そしてMupingに向かった。ここはヒマラヤ山脈の遠い端にある山麓の丘にある町だが、現在の中国の都市名は宝興(パオシン)のようだ。ここで滞在し短い探検旅行をおこなったが素晴らしい採取と発見をした。
(1)哺乳類の9つまたは10の種、(2)鳥の30の種、(3)27の魚と爬虫類のコンテナ、その中には60の新しい種(4)634種の昆虫、(5)194種の植物
この採取した量と質は、中国に始めてきた探検旅行での3-4ヶ月かかったものに等しかったという。
ここで採取された植物についてふれると、15種類のシャクナゲ、彼の名前がつけられた「ハンカチノキ(Davidia)」が知られており、この「ハンカチノキ」は、後に英国のヴィーチ商会が派遣するプラントハンター“アーネスト・ウイルソン”のメインの採取目的となる。
Mupingには3ヶ月滞在したが、1869年3月11日に地主のLiさんの家にお茶に招かれ、とある部屋の壁に珍しいクマの皮が張られていた。これが『ジャイアントパンダ』の皮だった。
うそみたいな話だが、4月1日にダビッドのために生きた『ジャイアントパンダ』が捕まえてもってこられた。この生きたパンダはその後どうされたのかということで、後世にダビッドを批判する議論を巻き起こしているようだが、『ジャイアントパンダ』を西欧に初めて紹介したのはダビッドであることは間違いなさそうだ。
その後病に倒れた彼は、治安も悪くなってきたので1869年11月22日にMupingを発ち北京に向かった。途中天津で彼の友人達と会うことを楽しみにしていたが、天津の教会が破壊され、友人及び100人を超えるキリスト教徒が虐殺されたことを知り、ダビッドは体の不健康だけでなく精神的なダメージを受け、1870年7月にフランスに向けて帰国した。
(注)天津でのこの事件は、1870年6月21日に起こった、フランス教会・望海楼教堂が経営する孤児院での幼児誘拐・虐待疑惑で、フランス領事や教会関係者、中国人信者らが、天津住民によって多数虐殺された天津教案事件であろう。
ダビッドは1872年から1874年まで再度中国を訪問し第三回目の探検をした。
彼は、動物・昆虫・鳥類などで素晴らしい成果を出したが、ツツジ、シャクナゲなどの新しい種を発見し、植物学への貢献も大きい。
Newsを集める危険な職業、プラントハンター
ダビッドの日記を英訳した解説本を拾い読みすると、現代のまったく無関係な一コマが浮かび上がってきた。
2000年の初め頃“戦場カメラマン”という肩書きが書かれたヒトに会った。紛争が起きているところに行き、そこで撮った写真を通信社・新聞社などに売って生計を立てる職業という。
湾岸戦争の頃のイラクに行った時は、シリアから密入国をしてイラクで起きていることを写真に撮ったそうだ。この写真が大いに売れ大きな収入になったかといえばそうでもなかったと言う。CNNが政治的にイラクに入り込んだのでCNNを上回る映像でないと個人では組織力に対抗できない。
そうすると個人の戦場カメラマンは、もっと危険なところに入り込みニュースの芽をハンティングすることになる。
プラントハンターも新しい植物の情報、タネの場合は遺伝情報を集めていることになるが、現代では形を変えニュースという情報を集めるのが危険な職業として引き継いでいるような気がする。
英国は、安全を考えてか外交使節団の一員として植物学者などを同行させたが、奥地まで自由に行動することが出来なかった。一方、フランスは、ダビッドの成果があったため、奥地まで入り込む宣教師という組織を国家として活用することになる。
(続く)