その10:
探検家、地理学者、プラントハンター、植物学者、紀行作家、軍人そして諜報員の顔を持つキングドン=ウォード
フォーレスト(Forrest, George 1873-1932)は、彼の探検のスポンサーであるリバプールの綿仲買商 ビュアリーのプラントハンターの権利をまったく認めない封建的な雇用関係とケチさ加減に辟易して彼と袂を分かった。
一方のビュアリーは、フォーレストの後任者としてキングドン=ウォード(Kingdon-Ward, Frank1885-1958)をエジンバラ植物園のバルフォアから推薦され、キングドン=ウォードは、躊躇することなくビュアリーのオファーに同意し1911年早々に英国を旅立った。
この勝負は、ビュアリーの負けで、育てたプラントハンターの経験を買えなかった投資家・実業家としての度量の小ささが際立つ。或いは、中世のアーティストを囲ったパトロンの域を出なかったのだろう。
(写真)若いころのキングドン=ウォード
(出典)flickr.com
チャンスが転げ込んできたのはキングドン=ウォードの方で、彼の経歴を簡単に見ていくと、
彼がケンブリッジ大学生で18歳の時、ケンブリッジ大学の植物学教授である彼の父が亡くなり博士課程に進み学者となる道をあきらめざるを得なくなる。翌年の1907年にケンブリッジ大学を卒業後上海パブリックスクールの教師となった。
上海に興味がわいたのは、若い頃に父から聞いた「ブラマプトラ川の上流にはこれまで白人では誰一人としていったことがないところがある。」ということだった。
プラマプトラ川は、チベットに源を発し、ヒマラヤ山脈の北を東流、そして東を迂回して西に回りこみ南下し、インド、バングラデシュを経てベンガル湾に注ぐ大河であり、上海ならここに近いぞ!というのが動機になっている。
彼は、熱帯雨林に魅了され、ブラマプトラ川が流れる中国北西部、チベット、ビルマ、アッサム、インド北東部で45年で25回もの探検を行うことになるので、若かりし時の興味関心が持続した人間でもある。
長い休日
キングドン=ウォードはフォーレストより12歳若い。
フォーレストは、著作物を残さなかったため、彼の意思なり考え方・行動は、手紙か友人・関係者が残した記録を調べる以外にない。
キングドン=ウォードは、逆に探検の記録を残しそれをまとめて探検記を何と25作も残している。これを読むと良くわかるが日本語翻訳されているものは3作しかない。
彼の最後の作品に『Pilgrimage for Plants (1960)』(日本語翻訳「植物巡礼」(岩波文庫))があるが、これがプラントハンターとしての彼の生きかたが総括されているようで面白い。
特に冒頭の一部を紹介すると、
講演会の終了後に老婦人がやってきて「あなた(キングドン=ウォード)の人生は、長い休日みたいなものだったのね!」という質問があり、その時はそうは思わなかったが、休日を本質的に使っているのではないかと思うようになったそうだ。
彼はプラントハンターの訓練をつんだわけではないが、ビュアリーからのオファーというチャンスと運がありプラントハンターになった。ある時からは自らの意思でプラントハンターを職業或いは人生の目標とするようになり生涯プラントハンターであった。
定職そして収入があることを職業とするならば、彼には職業がなく毎日が休日という指摘は当たっている。しかし彼はフォーレストと異なり、スポンサーに依存しないで探検が出来ることを考えていたところがあり、探検後に書いた著作物の印税を次の探検の費用に使おうと思い、22回の探検と25冊の著作物を残した新しい考え方をもっているところがある。
この構造は、現代のアーティスト、作家と同じであり、自由業としてのプラントハンター&ライターの誕生でもあるのだろう。
バックヤードの重要性
地道な仕事が成果に結びつくのはどんな仕事にも同じようにある。単純で面白みがなく辛い仕事の部分を切り出して、安い人件費で他のヒトにやってもらおうとする昨今の風潮は、ゴールである成果への信頼度を損なう可能性がある。
プラントハンターの最も辛い地味な仕事は、採取してきた夜から始まるという。
植物・種子・球根などをきれいに洗浄し、混同しないように分類区別をし、乾燥させる作業である。また、その植物などが採取された場所の特徴・状態を記述し、花、茎、葉、根などの特徴を記述し乾燥標本などのデータ作りをする必要がある。
日中に熱帯雨林のジャングルや深い谷底に落ちかねない崖など危険なところで採取する緊張感が夜ともなれば疲れとなってやってくる。この時に寝てしまうと細菌がついたままの球根や種子となりこれらを腐らせ、翌年に芽が出ないことになってしまう。
植物学の専門性が要求され、緻密で地味な裏方の仕事が実はスポンサーにとって重要な意味を占めている。翌年咲かない種子・球根などを集めるプラントハンターには投資の価値がないことに結びつく。
キングドン=ウォードは二回結婚しているが、インドで探検家に興味を持っている若い女性に出会った。この女性が彼の二番目の夫人となるJean Macklinで、ボンベイの最高裁判事Sir Albert Sortain Romer Macklin.の娘で、彼が62歳の1947年11月12日にロンドンのチェルシーで結婚式を挙げた。
40歳も年が離れているが、キングドン=ウォードの完璧なパートナーとして、プラントハンティングの旅に同行し、バックヤードの地道な仕事を中心になって手伝い、紀行記の原稿までもタイプしたという。
キングドン=ウォードは73歳で死亡する直前まで探検を続けたが、この最高のパートナーに出会ったから出来たのだろうなと思う。
ゴールを共有できるパートナーは素晴らしいし、何歳になってもこんな完璧なパートナーに出会いたいものだと思ってしまう。
(写真) ジーン・マクリーン(トラックの上)とキングドン=ウォード(トラックの前)
(出典)lapponicum.com
ヒマラヤの青いケシ
キングドン=ウォードも多数のツツジ属の花を採取しイギリスの庭で再生させているが、彼を有名にした花を紹介しよう。
1990年に大阪で開催された“花の万博”では、「メコノプシス・ホリドゥラ(Meconopsis horridula)」がブータン館に展示され、あまりの美しいブルーが“天上の妖精、幻の青いケシ”として話題になった記憶がかすかにある。
標高4000m以上の高地でしか生息しないというが、ヒマラヤで見る色合いは確かにきれいだろうと思える。
(写真メコノプシス・ホリドゥラ(Meconopsis horridula)
(出典)e-yakusou.com
1886年、フランスの宣教師デラヴェ(Delavay ,Père Jean Marie 1834-1895)は、雲南の大理と麗江との間の地で美しい青い花を発見した。
この植物標本はパリに送られ自然史博物館のフランシェ(Franchet, Adrien René1834-1900)によって新種として認定され、1898年に「メコノプシス・ベトニキフォリア(Meconopsis betonicifolia Franch)」として命名された。
しかし、デラヴェは種子を送ってこなかったので、ヨーロッパでは栽培されることがなく月日が経過した。
この「メコノプシス・ベトニキフォリア」は、『ヒマラヤの青いケシ(Himalayan blue poppy)』と呼ばれ、この花を再発見しイギリスの庭に導入したのがキングドン=ウォードで、1924年に発見し大袋一杯の種子をイギリスに持ち込んだ。
『ヒマラヤの青いケシ(Himalayan blue poppy)』は、キングドン=ウォード以前にも再発見されていて、ベイレイ大尉(Bailey, Frederick Manson 1827-1915)が1913年に南チベットを旅行中に発見し、キュー植物園の園長プレイン(Prain, David)が新種として発見者を記念して「メコノプシス・バイレイイ(M.baileyi)」と名付けられた。
しかし、この花は、フランスの宣教師デラヴェが発見したモノと同じものであり、先に命名した名前が有効とする原則により現在は使われていず、イギリスの庭にデビューさせた栄誉は、キングドン=ウォードが頂くことになった。
フランスの宣教師達は、植物標本を大量にパリ自然史博物館に送り込んだが、ヨーロッパの庭で栽培する種子・実物を持ち帰ったモノが少ない。
この後に登場する英国のプラントハンター達は、このフランスの宣教師達が発見した珍しく園芸的に価値があるものを育てて販売することをも目的にしているので、彼らの足跡を再検証する旅を行っている。
植物が豊かな国フランス、ビジネス感覚がない宣教師、研究志向のパトロンという構図と、植物が貧弱なイギリス、園芸商品化を意図したパトロンとその尖兵としての職業的なプラントハンターという構図では、栄誉と実利が分離することになる。
プラントハンターのパトロン
また、キングドン=ウォードのパトロンも、個人資産家のビュアリーからパーシースレーデン記念財団(the Percy Sladen Memorial fund)、王立協会、英国政府の研究助成金などの団体・機関に変わってきている。
王侯・貴族の時代、植物園の時代、ナーサリー(育種園)・園芸商の時代、裕福な個人資産家などがスポンサーとして登場するが、趣味・利益が共通する会員組織の協会・団体、活動目的を定めて寄附された資金を運用する財団などが登場するにいたって、何のためにという探検の目的或いは企画が求められるようになって来た。
キングドン=ウォードは、これらの機関・団体に企画書を書いて提案したようだが、ロマンだけを求める単純な冒険家の時代は終わったようだ。
一方で彼には違ったスポンサーの一面もある。
キングドン=ウォードは、中国北西部、チベット、ビルマ、アッサム、インド北東部など地図上での空白地帯を探検し、空白地に名前と輪郭を描くなどの地理・地図の作成に興味があった。この活動が評価され1930年には王立地理学会から創立記念ゴールドメダルが授与された。
彼はこれを誇りにしているが、この特殊な才能に目をつけたのが軍であり、紛争地帯でもあったこの地域の情報を収集し、コンサルテーションをする諜報員として活動させられた時期があるようだ。
彼の探検でスポンサーが良くわからない時期が1930年代に多い。どうもこの時期が該当するようだ。また、第二次世界大戦の時には日本軍がこの一帯に侵略したが、彼の出版物・地図などは重要な情報源であり米軍のテキストとして大量に買い占められ活用されたという。
フォーレストには残された記録が少ないため、推理とか想像とかフィクションが入りやすいので物語が書きやすそうだが、キングドン=ウォードには様々な著作があるので簡単にダイジェストすることが難しい。
でもこんなことが言えそうだ。
彼は、日常とか非日常、ONとかOFF、自由と束縛、仕事と余暇、安全と危険、国と国などの対峙する境界線を意識しないで越境した達人だったのかなと思うようになった。そして、時代としても彼個人としてもプラントハンターの頂上を極めたのだろう。
■ 参考資料:キングドン=ウォードの簡単な年譜と【スポンサー】
1. 1909-10:甘粛、四川 【Duke of Bedford】米国の動物学者マルコム・P・アンダーソンと同行し揚子江の上流を探検するベッドフォード探検隊に加わる。キュー植物園にこの時採取した植物を送る。
2. 1911-12:雲南、四川、【A.K.Bulley of Bees】新種22種を含む200の植物を採取してビュアリーに送る。同時にキュー植物園にも標本を送る。生涯彼を苦しめるマラリアにかかる。1913年に最初の著作『The Land of the Blue Poppy』を出版
3. 1913-14:雲南、北ビルマ、【A.K.Bulley of Bees】1912年1月1日に南京に中華民国が樹立し清朝が崩壊した。こんな革命の時期でもあり困難な旅であり最悪の採取であった。唯一ツツジ属の新種5種を含む新しい種を採取して送ることが出来た。
4. 1914- :第一次世界大戦勃発。インド歩兵連隊の大尉として軍務につく。1916年にメソポタミア(イラク)に配属。
5. 1919:北ビルマ【?】ラングーン経由で英国に帰国。Florinda Norman-Thompsonと婚約。
6. 1921-22:雲南、四川、北ビルマ【the Percy Sladen Memorial fund及び王立協会】24個のツツジ属の種と40個のプリムラ、そして少しのメコノプシス(ケシ)を採取して送るが満足する結果ではなかった。
7. 新しいスポンサーのパーシースレーデン記念財団は海洋学者パーシースレーデンの寄附により設立されロンドンのリンネ協会が運営し、科学研究の支援を行っている。
8. 1923年にFlorinda Norman-Thompsonと結婚。彼女は女というよりも有能なビジネスマンタイプ。北アイルランド・ベルファストの南11マイルにあり1860年代にジョンムーア師によって作られたローワラン庭園の所有者Hugh Armytage Mooreと会う。
9. 1924-25:東ヒマラヤ、同行者Lord Cawdor卿【the Percy Sladen Memorial fund及び王立協会】チベットの民間伝承としてあるツアンポーの滝を発見する旅を行う。この流れが彼が思いを抱いたブラマプトラ川に流れる。しかし滝は発見されなかった。(この時から74年後に幻の滝が発見される。)この旅では『Riddle of the Tsangpo Gorges (1926)』(邦訳、ツアンポー峡谷の謎)(岩波文庫)を出版し、高い定価で売れたという。この旅行では、Meconopsis betonicifolia(ヒマラヤの青いケシ)を再発見するだけでなく、100種類のツツジ属のタネを採取し大成功の旅だった。
10. 1926:北ビルマ、アッサム【the Percy Sladen Memorial fund及び王立協会、ロスチャイルド】ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(Lionel Walter Rothschild 1868-1937)も出資メンバーであり彼自身の庭造りをしている時期で珍しい植物への関心があった。この旅では、80を超えるツツジ属の種と“ルビーポピー”と名付けたメコノプシス属の種を採取した。
11. 1927年は米国で探検に出資するスポンサーを募る講演を行った。
12. 1929:ビルマ、インドネシア【】
13. 1930年に王立地理学会から創立記念ゴールドメダルを授与される。これまでの空白地に地名と輪郭を記述した功績が評価される。
14. 1930-1931:北ビルマ、チベット【Theodore Roosevelt大統領とその息子 Kermit Roosevelt,大富豪のSuydam Cutting】ルーズベルト及びニューヨクの金融業カットはともに探検家でもありチベットの動物ハンティングを行う。カットはチベットを訪れた初めての米国人として記録される。
15. 1933:アッサム、チベット【】
16. 1935:アッサム、チベット【】
17. 1937:北ビルマ、チベット【】1000種を採取。Florinda Norman-Thompsonと離婚。
18. 1938-39:北ビルマ【米国の大富豪Suydam Cutting、米国に住む英国人の企業家Arthur Vernay】資金的に初めて余裕のある探検を行う。主目的は珍しい動物だが、40種類の200種の植物標本を採取し、ツツジ、ユリ、プリムラの新種を採取する。
19. 1939:米国の招待で長期滞在。第二次世界大戦勃発。軍に特殊な専門性の提供を始める。
20. 1943:英国空軍訓練所でジャングルでのサバイバル術を教える。
21. 1946:アッサム、カシ丘陵【】ジーン・マクリーンと結婚。
22. 1947-48:アッサム、東マニプール【米国空軍】墜落した飛行機と搭乗者の墓を探索する探検。ジーン・マクリーンと共同で探検し、1400の植物標本と250の種子を含む1000種の植物を採取して送る。
23. 1949-50:アッサム、チベット【ニューヨク植物園、英国王立園芸協会】
24. 1953:北ビルマ
25. 1956:西・中部ビルマ
26. 1956-57:セイロン
※ 誤謬・不明な点をご教授いただければ幸いです。
探検家、地理学者、プラントハンター、植物学者、紀行作家、軍人そして諜報員の顔を持つキングドン=ウォード
フォーレスト(Forrest, George 1873-1932)は、彼の探検のスポンサーであるリバプールの綿仲買商 ビュアリーのプラントハンターの権利をまったく認めない封建的な雇用関係とケチさ加減に辟易して彼と袂を分かった。
一方のビュアリーは、フォーレストの後任者としてキングドン=ウォード(Kingdon-Ward, Frank1885-1958)をエジンバラ植物園のバルフォアから推薦され、キングドン=ウォードは、躊躇することなくビュアリーのオファーに同意し1911年早々に英国を旅立った。
この勝負は、ビュアリーの負けで、育てたプラントハンターの経験を買えなかった投資家・実業家としての度量の小ささが際立つ。或いは、中世のアーティストを囲ったパトロンの域を出なかったのだろう。
(写真)若いころのキングドン=ウォード
(出典)flickr.com
チャンスが転げ込んできたのはキングドン=ウォードの方で、彼の経歴を簡単に見ていくと、
彼がケンブリッジ大学生で18歳の時、ケンブリッジ大学の植物学教授である彼の父が亡くなり博士課程に進み学者となる道をあきらめざるを得なくなる。翌年の1907年にケンブリッジ大学を卒業後上海パブリックスクールの教師となった。
上海に興味がわいたのは、若い頃に父から聞いた「ブラマプトラ川の上流にはこれまで白人では誰一人としていったことがないところがある。」ということだった。
プラマプトラ川は、チベットに源を発し、ヒマラヤ山脈の北を東流、そして東を迂回して西に回りこみ南下し、インド、バングラデシュを経てベンガル湾に注ぐ大河であり、上海ならここに近いぞ!というのが動機になっている。
彼は、熱帯雨林に魅了され、ブラマプトラ川が流れる中国北西部、チベット、ビルマ、アッサム、インド北東部で45年で25回もの探検を行うことになるので、若かりし時の興味関心が持続した人間でもある。
長い休日
キングドン=ウォードはフォーレストより12歳若い。
フォーレストは、著作物を残さなかったため、彼の意思なり考え方・行動は、手紙か友人・関係者が残した記録を調べる以外にない。
キングドン=ウォードは、逆に探検の記録を残しそれをまとめて探検記を何と25作も残している。これを読むと良くわかるが日本語翻訳されているものは3作しかない。
彼の最後の作品に『Pilgrimage for Plants (1960)』(日本語翻訳「植物巡礼」(岩波文庫))があるが、これがプラントハンターとしての彼の生きかたが総括されているようで面白い。
特に冒頭の一部を紹介すると、
講演会の終了後に老婦人がやってきて「あなた(キングドン=ウォード)の人生は、長い休日みたいなものだったのね!」という質問があり、その時はそうは思わなかったが、休日を本質的に使っているのではないかと思うようになったそうだ。
彼はプラントハンターの訓練をつんだわけではないが、ビュアリーからのオファーというチャンスと運がありプラントハンターになった。ある時からは自らの意思でプラントハンターを職業或いは人生の目標とするようになり生涯プラントハンターであった。
定職そして収入があることを職業とするならば、彼には職業がなく毎日が休日という指摘は当たっている。しかし彼はフォーレストと異なり、スポンサーに依存しないで探検が出来ることを考えていたところがあり、探検後に書いた著作物の印税を次の探検の費用に使おうと思い、22回の探検と25冊の著作物を残した新しい考え方をもっているところがある。
この構造は、現代のアーティスト、作家と同じであり、自由業としてのプラントハンター&ライターの誕生でもあるのだろう。
バックヤードの重要性
地道な仕事が成果に結びつくのはどんな仕事にも同じようにある。単純で面白みがなく辛い仕事の部分を切り出して、安い人件費で他のヒトにやってもらおうとする昨今の風潮は、ゴールである成果への信頼度を損なう可能性がある。
プラントハンターの最も辛い地味な仕事は、採取してきた夜から始まるという。
植物・種子・球根などをきれいに洗浄し、混同しないように分類区別をし、乾燥させる作業である。また、その植物などが採取された場所の特徴・状態を記述し、花、茎、葉、根などの特徴を記述し乾燥標本などのデータ作りをする必要がある。
日中に熱帯雨林のジャングルや深い谷底に落ちかねない崖など危険なところで採取する緊張感が夜ともなれば疲れとなってやってくる。この時に寝てしまうと細菌がついたままの球根や種子となりこれらを腐らせ、翌年に芽が出ないことになってしまう。
植物学の専門性が要求され、緻密で地味な裏方の仕事が実はスポンサーにとって重要な意味を占めている。翌年咲かない種子・球根などを集めるプラントハンターには投資の価値がないことに結びつく。
キングドン=ウォードは二回結婚しているが、インドで探検家に興味を持っている若い女性に出会った。この女性が彼の二番目の夫人となるJean Macklinで、ボンベイの最高裁判事Sir Albert Sortain Romer Macklin.の娘で、彼が62歳の1947年11月12日にロンドンのチェルシーで結婚式を挙げた。
40歳も年が離れているが、キングドン=ウォードの完璧なパートナーとして、プラントハンティングの旅に同行し、バックヤードの地道な仕事を中心になって手伝い、紀行記の原稿までもタイプしたという。
キングドン=ウォードは73歳で死亡する直前まで探検を続けたが、この最高のパートナーに出会ったから出来たのだろうなと思う。
ゴールを共有できるパートナーは素晴らしいし、何歳になってもこんな完璧なパートナーに出会いたいものだと思ってしまう。
(写真) ジーン・マクリーン(トラックの上)とキングドン=ウォード(トラックの前)
(出典)lapponicum.com
ヒマラヤの青いケシ
キングドン=ウォードも多数のツツジ属の花を採取しイギリスの庭で再生させているが、彼を有名にした花を紹介しよう。
1990年に大阪で開催された“花の万博”では、「メコノプシス・ホリドゥラ(Meconopsis horridula)」がブータン館に展示され、あまりの美しいブルーが“天上の妖精、幻の青いケシ”として話題になった記憶がかすかにある。
標高4000m以上の高地でしか生息しないというが、ヒマラヤで見る色合いは確かにきれいだろうと思える。
(写真メコノプシス・ホリドゥラ(Meconopsis horridula)
(出典)e-yakusou.com
1886年、フランスの宣教師デラヴェ(Delavay ,Père Jean Marie 1834-1895)は、雲南の大理と麗江との間の地で美しい青い花を発見した。
この植物標本はパリに送られ自然史博物館のフランシェ(Franchet, Adrien René1834-1900)によって新種として認定され、1898年に「メコノプシス・ベトニキフォリア(Meconopsis betonicifolia Franch)」として命名された。
しかし、デラヴェは種子を送ってこなかったので、ヨーロッパでは栽培されることがなく月日が経過した。
この「メコノプシス・ベトニキフォリア」は、『ヒマラヤの青いケシ(Himalayan blue poppy)』と呼ばれ、この花を再発見しイギリスの庭に導入したのがキングドン=ウォードで、1924年に発見し大袋一杯の種子をイギリスに持ち込んだ。
『ヒマラヤの青いケシ(Himalayan blue poppy)』は、キングドン=ウォード以前にも再発見されていて、ベイレイ大尉(Bailey, Frederick Manson 1827-1915)が1913年に南チベットを旅行中に発見し、キュー植物園の園長プレイン(Prain, David)が新種として発見者を記念して「メコノプシス・バイレイイ(M.baileyi)」と名付けられた。
しかし、この花は、フランスの宣教師デラヴェが発見したモノと同じものであり、先に命名した名前が有効とする原則により現在は使われていず、イギリスの庭にデビューさせた栄誉は、キングドン=ウォードが頂くことになった。
フランスの宣教師達は、植物標本を大量にパリ自然史博物館に送り込んだが、ヨーロッパの庭で栽培する種子・実物を持ち帰ったモノが少ない。
この後に登場する英国のプラントハンター達は、このフランスの宣教師達が発見した珍しく園芸的に価値があるものを育てて販売することをも目的にしているので、彼らの足跡を再検証する旅を行っている。
植物が豊かな国フランス、ビジネス感覚がない宣教師、研究志向のパトロンという構図と、植物が貧弱なイギリス、園芸商品化を意図したパトロンとその尖兵としての職業的なプラントハンターという構図では、栄誉と実利が分離することになる。
プラントハンターのパトロン
また、キングドン=ウォードのパトロンも、個人資産家のビュアリーからパーシースレーデン記念財団(the Percy Sladen Memorial fund)、王立協会、英国政府の研究助成金などの団体・機関に変わってきている。
王侯・貴族の時代、植物園の時代、ナーサリー(育種園)・園芸商の時代、裕福な個人資産家などがスポンサーとして登場するが、趣味・利益が共通する会員組織の協会・団体、活動目的を定めて寄附された資金を運用する財団などが登場するにいたって、何のためにという探検の目的或いは企画が求められるようになって来た。
キングドン=ウォードは、これらの機関・団体に企画書を書いて提案したようだが、ロマンだけを求める単純な冒険家の時代は終わったようだ。
一方で彼には違ったスポンサーの一面もある。
キングドン=ウォードは、中国北西部、チベット、ビルマ、アッサム、インド北東部など地図上での空白地帯を探検し、空白地に名前と輪郭を描くなどの地理・地図の作成に興味があった。この活動が評価され1930年には王立地理学会から創立記念ゴールドメダルが授与された。
彼はこれを誇りにしているが、この特殊な才能に目をつけたのが軍であり、紛争地帯でもあったこの地域の情報を収集し、コンサルテーションをする諜報員として活動させられた時期があるようだ。
彼の探検でスポンサーが良くわからない時期が1930年代に多い。どうもこの時期が該当するようだ。また、第二次世界大戦の時には日本軍がこの一帯に侵略したが、彼の出版物・地図などは重要な情報源であり米軍のテキストとして大量に買い占められ活用されたという。
フォーレストには残された記録が少ないため、推理とか想像とかフィクションが入りやすいので物語が書きやすそうだが、キングドン=ウォードには様々な著作があるので簡単にダイジェストすることが難しい。
でもこんなことが言えそうだ。
彼は、日常とか非日常、ONとかOFF、自由と束縛、仕事と余暇、安全と危険、国と国などの対峙する境界線を意識しないで越境した達人だったのかなと思うようになった。そして、時代としても彼個人としてもプラントハンターの頂上を極めたのだろう。
■ 参考資料:キングドン=ウォードの簡単な年譜と【スポンサー】
1. 1909-10:甘粛、四川 【Duke of Bedford】米国の動物学者マルコム・P・アンダーソンと同行し揚子江の上流を探検するベッドフォード探検隊に加わる。キュー植物園にこの時採取した植物を送る。
2. 1911-12:雲南、四川、【A.K.Bulley of Bees】新種22種を含む200の植物を採取してビュアリーに送る。同時にキュー植物園にも標本を送る。生涯彼を苦しめるマラリアにかかる。1913年に最初の著作『The Land of the Blue Poppy』を出版
3. 1913-14:雲南、北ビルマ、【A.K.Bulley of Bees】1912年1月1日に南京に中華民国が樹立し清朝が崩壊した。こんな革命の時期でもあり困難な旅であり最悪の採取であった。唯一ツツジ属の新種5種を含む新しい種を採取して送ることが出来た。
4. 1914- :第一次世界大戦勃発。インド歩兵連隊の大尉として軍務につく。1916年にメソポタミア(イラク)に配属。
5. 1919:北ビルマ【?】ラングーン経由で英国に帰国。Florinda Norman-Thompsonと婚約。
6. 1921-22:雲南、四川、北ビルマ【the Percy Sladen Memorial fund及び王立協会】24個のツツジ属の種と40個のプリムラ、そして少しのメコノプシス(ケシ)を採取して送るが満足する結果ではなかった。
7. 新しいスポンサーのパーシースレーデン記念財団は海洋学者パーシースレーデンの寄附により設立されロンドンのリンネ協会が運営し、科学研究の支援を行っている。
8. 1923年にFlorinda Norman-Thompsonと結婚。彼女は女というよりも有能なビジネスマンタイプ。北アイルランド・ベルファストの南11マイルにあり1860年代にジョンムーア師によって作られたローワラン庭園の所有者Hugh Armytage Mooreと会う。
9. 1924-25:東ヒマラヤ、同行者Lord Cawdor卿【the Percy Sladen Memorial fund及び王立協会】チベットの民間伝承としてあるツアンポーの滝を発見する旅を行う。この流れが彼が思いを抱いたブラマプトラ川に流れる。しかし滝は発見されなかった。(この時から74年後に幻の滝が発見される。)この旅では『Riddle of the Tsangpo Gorges (1926)』(邦訳、ツアンポー峡谷の謎)(岩波文庫)を出版し、高い定価で売れたという。この旅行では、Meconopsis betonicifolia(ヒマラヤの青いケシ)を再発見するだけでなく、100種類のツツジ属のタネを採取し大成功の旅だった。
10. 1926:北ビルマ、アッサム【the Percy Sladen Memorial fund及び王立協会、ロスチャイルド】ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(Lionel Walter Rothschild 1868-1937)も出資メンバーであり彼自身の庭造りをしている時期で珍しい植物への関心があった。この旅では、80を超えるツツジ属の種と“ルビーポピー”と名付けたメコノプシス属の種を採取した。
11. 1927年は米国で探検に出資するスポンサーを募る講演を行った。
12. 1929:ビルマ、インドネシア【】
13. 1930年に王立地理学会から創立記念ゴールドメダルを授与される。これまでの空白地に地名と輪郭を記述した功績が評価される。
14. 1930-1931:北ビルマ、チベット【Theodore Roosevelt大統領とその息子 Kermit Roosevelt,大富豪のSuydam Cutting】ルーズベルト及びニューヨクの金融業カットはともに探検家でもありチベットの動物ハンティングを行う。カットはチベットを訪れた初めての米国人として記録される。
15. 1933:アッサム、チベット【】
16. 1935:アッサム、チベット【】
17. 1937:北ビルマ、チベット【】1000種を採取。Florinda Norman-Thompsonと離婚。
18. 1938-39:北ビルマ【米国の大富豪Suydam Cutting、米国に住む英国人の企業家Arthur Vernay】資金的に初めて余裕のある探検を行う。主目的は珍しい動物だが、40種類の200種の植物標本を採取し、ツツジ、ユリ、プリムラの新種を採取する。
19. 1939:米国の招待で長期滞在。第二次世界大戦勃発。軍に特殊な専門性の提供を始める。
20. 1943:英国空軍訓練所でジャングルでのサバイバル術を教える。
21. 1946:アッサム、カシ丘陵【】ジーン・マクリーンと結婚。
22. 1947-48:アッサム、東マニプール【米国空軍】墜落した飛行機と搭乗者の墓を探索する探検。ジーン・マクリーンと共同で探検し、1400の植物標本と250の種子を含む1000種の植物を採取して送る。
23. 1949-50:アッサム、チベット【ニューヨク植物園、英国王立園芸協会】
24. 1953:北ビルマ
25. 1956:西・中部ビルマ
26. 1956-57:セイロン
※ 誤謬・不明な点をご教授いただければ幸いです。