メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No40
悲劇的だったセッセ探検隊シリーズの最後は、彼らが採取したサルビアで締めくくりたい。しかし、手がけてみると意外と混乱が待ち受けていた。
セッセ達を送り出したマドリッド王立植物園の初代教授オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)は、リンネ(Carl von Linné、1707-1778)の「自然の体系(Systema Naturae)」の考え方を翻訳者としてスペインに導入した先駆者でもあり、リンネの考え方の真髄でもある“種の分類”を、属名と種小名でその当時の世界共通語であるラテン語で記述する二命名法をセッセ達にも実践させた。
珍しい植物を採取したら、その特徴を記述し、類似するものとの相違点をも記述する。そして新種であれば、新しい名前をつけることができる。
1800年前後は、リンネの二命名法による生物の世界地図ともなる体系が作られ始めた時でもあり、先に名づけて発表したものに命名者としての栄誉がもたらされた。
セッセとモシニョーも、ヨーロッパではあまり知られていないメキシコの植物相の体系化という栄誉を担いたいと思っていたのだろう。
しかしこれが実現したのは約100年後の1893年のことであり、この間に多くの植物がほかの人間により命名されてしまった。だから、セッセ達が命名した名前と、学名として承認された名前との付けあわせが必要となりこれが意外と難しかった。
ドゥ・カンドールがしたように、モシニョーが残したオリジナルの植物画からこの付け合わせをする以外なさそうだ。
セッセ探検隊が採取したサルビア
ハント財団のコレクションにはセッセ達がサルビアと記述した21種類の植物画が残っていた。
今はこの植物画を見ることができなくなっているがテキストは検索できる。この表を見る限り、セッセ達がつけた学名の全てが承認されていない。(100年も遅れると当然といえば当然だが。)
さらに、セッセ達が採取したサルビアの中で承認された学名とマッチングされているのがわずかであり、多くは正体不明のままだ。この中には現存していない絶滅した品種もあるのだろう。
現在の植物とマッチングされている3種について、植物画と実際のサルビアの写真とを比較して見てみよう。
(1) Salvia sessei Benth. (1833). サルビア・セッセイ
(出典)ハント財団
セッセ探検隊での命名は「Salvia fastuosa Sp. N.」で、種小名の“fastuosa”は、スペイン語で“豪華な”を意味する。
確かに命名どおりにライム色の葉、朱色の大きな花が素晴らしい。しかも4-5mの大きな潅木であることも驚きだ。
セッセ達が命名した学名は、「Salvia fastuosa Sessé & Moc.(1887)」となるが、受理された学名は、英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)が1833年に命名した「Salvia sessei Benth. (1833)」が受理された。
ベンサムは、どこでこのメキシコの植物標本を手に入れたのだろうかなと疑問に思ったが、彼は、パリでドゥ・カンドール(de Candolle, Augustin Pyramus 1778-1841)のコピーを手に入れ、これに感動し植物学に邁進するようになったという。
ドゥ・カンドールはモシニョーから預かった植物画をコピーしたので、この植物画のコピーを手に入れたのかと思ったが、そうではなかった。
ベンサムが手に入れたのは、「フランスの植物相(Flore française)」(1803-1815)で、この本は、進化論で有名なフランスの博物学者ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck, 1744-1829)の著作となっているが、ドゥ・カンドールが書いていたのだ。
となると、ベンサムが手に入れたのは、現在キューガーデン、大英博物館にあるスペインの植物学者パボン(Pavón, Jiménez José Antonio Jiménez 1754-1840)のコレクションに紛れ込んだセッセ探検隊の植物標本なのかもしれない。
ベンサムは、このサルビアをセッセ達が採取したことを知っていたのだろう。だから種小名に“sessei”と名づけ彼らの栄誉を称えたのだろう。
(写真)サルビア・セッセイ(Salvia sessei)
(出典) Le Essenze di Lea
サルビア・セッセイの実写と植物画とを比較して見てみよう。
このサルビアは、メキシコ中央部の高度2100mまでの松林や森林の端に生息するというが、実写で見るサルビア・セッセイもすばらしいが、植物画も実によく描かれている。セッセ探検隊にはセルダ(Vicente de la Cerda(Juan Cerda)生年月日不明)エチェベリア(Echeverría ,Atanasio y Godoy、生年月日不明)という二人のアーティストと数人のアシスタントがいたが、残念なのは誰が描いたのかわからない。
(2)Salvia laevis Benth.(1833) サルビア・ラエビス
(出典)ハント財団
セッセ探検隊の命名は、「Salvia aegiptiaca L.」だったが、受理された学名は、「Salvia laevis Benth.(1833)」だった。
「Salvia laevis」は、メキシコに来た初期のプラントハンター、グラハム(G. J. Graham)が1830年にメキシコ、メヒコ州の州都トルーカの北西方向にある銀鉱山Tlalpujahuaで最初に採取したとなっているが、セッセ探検隊がそれよりも早く採取していた。
グラハムもなぞの人物だが、サルビア・ラエビスもよくわからない。絵から見る限りラベンダーのような感じを受けるサルビアだ。
(写真)サルビア・ラエビス(Salvia laevis)
(出典) flickr.com
このサルビア・ラビエスに関してもflickr.comでは“?”のようであり、唯一に近い植物画像だったことからみて現在は栽培されていないサルビアなのだろう。
また、セッセ達が命名した「Salvia aegiptiaca」という学名では見つからず、北アフリカ原産の「Salvia aegyptiaca (Egyptian Sage)」というサルビアがあるが、植物画から見てこれとは違うようだ。
(写真)Salvia aegyptiaca (Egyptian Sage) サルビア・エジプチアカ
(出典) rareplants.de
(3) Salvia hirsuta Jacq. (1798). サルビア・ヒルスタ
(出典)ハント財団
このサルビアは、セッセ探検隊が命名したのは「Salvia hirsuta Sp. N.」で、学名としては、「Salvia hirsuta Sessé & Moc.(1887)」となるが、オーストリアの植物学者ジャカン(Jacquin, Nicolaus(Nicolaas) Joseph von 1727-1817)が1798年に先に命名していたので「Salvia hirsuta Jacq. (1798)」が承認された。
ジャカンは、オーストリアの皇后でマリーアントワネットの母であるマリアテレージア(Maria Theresia 1717-1780)から王室の医者として誘われて、1745年に生まれ故郷のオランダ、ライデンからウイーンに移り住んだ。彼が18歳のときであり若くしてその才能が認められていた。
ジャカンは、シェーンブルン宮殿の庭園のための植物を集めるためにフランツ1世によって1755年から1759年までカリブ海の島々とベネズエラ・コロンビアなどの中央アメリカに派遣されて、動物・植物・鉱物の大きなコレクションを集めてきた。
この探検の成功を耳にしたリンネは、“私たちが知らない世界から宝物を持ってきてくれたことを歓迎する”とジャカンに手紙を書き送った。
この成果をまとめて出版したのが『シェーンブルン宮殿の庭Hortus Schoenbrunnensis (1797-1804).』で、セッセ探検隊よりも早い時期にカリブ海・中央アメリカの植物をヨーロッパに持ち込んだ最初の成果でもあった。
ジャカンは探検が終わって帰国した後、成果を発表でき、しかも早熟の天才モーツアルトのパトロンとして豊かな生活を楽しむことができた。
スペインの探検隊との違いが際立ち、この違いは植民地を持っているか、持っていないかの違いだけではないだろうと思わざるを得ない。
(写真) Salvia hirsute サルビア・ヒルスタ
(出典) conabio
このサルビアには、「Salvia amarissima Ort」という記述もあった。ちなみに実写を掲載するが、植物画とどちらが近いかよくわからない。
(写真) Salvia amarissima Ort
(出典) flickr
■ セッセ探検隊が採取したサルビア
注( )内はハント財団が推定した受理された学名
1.Salvia aegiptiaca L. (Salvia laevis Benth)
2.Salvia coarctata spicata Sp. N. (Salvia spicata)
3.Salvia grandiflora Sp. N. ambigua ( Labiatae)
4.Salvia grandiflora pauciflora N. (Labiatae)
5.Salvia hirsuta Sp. N. (Salvia amarissima Ort)
6.Salvia indivisa an stricta Sp. N. (Labiatae)
7.Salvia adglutinans (Labiatae)
8.Salvia affinis (Labiatae)
9.Salvia ajugoides (Labiatae)
10.Salvia bulbosa (Labiatae)
11.Salvia exserta (Labiatae)
12.Salvia fastuosa Sp. N. (Salvia sessei Benth)
13.Salvia leptophylla (Salvia, Labiatae)
14.Salvia leucantha Cav. (Labiatae)
15.Salvia macrantha (Labiatae)
16.Salvia melissaefolia Sp. N. (Labiatae)
17.Salvia mexicana (Labiatae)
18.Salvia nepetoides (Labiatae)
19.Salvia palafoxiana Sp. N. Salvia palafoxiana (Salvia, Labiatae)
20.Salvia secundiflora (Labiatae)
21.Salvia tiliaefolia Vahl. (Labiatae)
モシニョーが持っていた植物画だけでも21品種のサルビアを採取したことがわかるが、セッセ探検隊は、もっと多くのサルビアを採取していたのだろう。
それにしてもスペインはもったいないことをする。科学者を生かさない国だったので、下り坂を登るまでのエネルギーがなく自重で転げ落ちてしまったのだろう。
悲劇的だったセッセ探検隊シリーズの最後は、彼らが採取したサルビアで締めくくりたい。しかし、手がけてみると意外と混乱が待ち受けていた。
セッセ達を送り出したマドリッド王立植物園の初代教授オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)は、リンネ(Carl von Linné、1707-1778)の「自然の体系(Systema Naturae)」の考え方を翻訳者としてスペインに導入した先駆者でもあり、リンネの考え方の真髄でもある“種の分類”を、属名と種小名でその当時の世界共通語であるラテン語で記述する二命名法をセッセ達にも実践させた。
珍しい植物を採取したら、その特徴を記述し、類似するものとの相違点をも記述する。そして新種であれば、新しい名前をつけることができる。
1800年前後は、リンネの二命名法による生物の世界地図ともなる体系が作られ始めた時でもあり、先に名づけて発表したものに命名者としての栄誉がもたらされた。
セッセとモシニョーも、ヨーロッパではあまり知られていないメキシコの植物相の体系化という栄誉を担いたいと思っていたのだろう。
しかしこれが実現したのは約100年後の1893年のことであり、この間に多くの植物がほかの人間により命名されてしまった。だから、セッセ達が命名した名前と、学名として承認された名前との付けあわせが必要となりこれが意外と難しかった。
ドゥ・カンドールがしたように、モシニョーが残したオリジナルの植物画からこの付け合わせをする以外なさそうだ。
セッセ探検隊が採取したサルビア
ハント財団のコレクションにはセッセ達がサルビアと記述した21種類の植物画が残っていた。
今はこの植物画を見ることができなくなっているがテキストは検索できる。この表を見る限り、セッセ達がつけた学名の全てが承認されていない。(100年も遅れると当然といえば当然だが。)
さらに、セッセ達が採取したサルビアの中で承認された学名とマッチングされているのがわずかであり、多くは正体不明のままだ。この中には現存していない絶滅した品種もあるのだろう。
現在の植物とマッチングされている3種について、植物画と実際のサルビアの写真とを比較して見てみよう。
(1) Salvia sessei Benth. (1833). サルビア・セッセイ
(出典)ハント財団
セッセ探検隊での命名は「Salvia fastuosa Sp. N.」で、種小名の“fastuosa”は、スペイン語で“豪華な”を意味する。
確かに命名どおりにライム色の葉、朱色の大きな花が素晴らしい。しかも4-5mの大きな潅木であることも驚きだ。
セッセ達が命名した学名は、「Salvia fastuosa Sessé & Moc.(1887)」となるが、受理された学名は、英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)が1833年に命名した「Salvia sessei Benth. (1833)」が受理された。
ベンサムは、どこでこのメキシコの植物標本を手に入れたのだろうかなと疑問に思ったが、彼は、パリでドゥ・カンドール(de Candolle, Augustin Pyramus 1778-1841)のコピーを手に入れ、これに感動し植物学に邁進するようになったという。
ドゥ・カンドールはモシニョーから預かった植物画をコピーしたので、この植物画のコピーを手に入れたのかと思ったが、そうではなかった。
ベンサムが手に入れたのは、「フランスの植物相(Flore française)」(1803-1815)で、この本は、進化論で有名なフランスの博物学者ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck, 1744-1829)の著作となっているが、ドゥ・カンドールが書いていたのだ。
となると、ベンサムが手に入れたのは、現在キューガーデン、大英博物館にあるスペインの植物学者パボン(Pavón, Jiménez José Antonio Jiménez 1754-1840)のコレクションに紛れ込んだセッセ探検隊の植物標本なのかもしれない。
ベンサムは、このサルビアをセッセ達が採取したことを知っていたのだろう。だから種小名に“sessei”と名づけ彼らの栄誉を称えたのだろう。
(写真)サルビア・セッセイ(Salvia sessei)
(出典) Le Essenze di Lea
サルビア・セッセイの実写と植物画とを比較して見てみよう。
このサルビアは、メキシコ中央部の高度2100mまでの松林や森林の端に生息するというが、実写で見るサルビア・セッセイもすばらしいが、植物画も実によく描かれている。セッセ探検隊にはセルダ(Vicente de la Cerda(Juan Cerda)生年月日不明)エチェベリア(Echeverría ,Atanasio y Godoy、生年月日不明)という二人のアーティストと数人のアシスタントがいたが、残念なのは誰が描いたのかわからない。
(2)Salvia laevis Benth.(1833) サルビア・ラエビス
(出典)ハント財団
セッセ探検隊の命名は、「Salvia aegiptiaca L.」だったが、受理された学名は、「Salvia laevis Benth.(1833)」だった。
「Salvia laevis」は、メキシコに来た初期のプラントハンター、グラハム(G. J. Graham)が1830年にメキシコ、メヒコ州の州都トルーカの北西方向にある銀鉱山Tlalpujahuaで最初に採取したとなっているが、セッセ探検隊がそれよりも早く採取していた。
グラハムもなぞの人物だが、サルビア・ラエビスもよくわからない。絵から見る限りラベンダーのような感じを受けるサルビアだ。
(写真)サルビア・ラエビス(Salvia laevis)
(出典) flickr.com
このサルビア・ラビエスに関してもflickr.comでは“?”のようであり、唯一に近い植物画像だったことからみて現在は栽培されていないサルビアなのだろう。
また、セッセ達が命名した「Salvia aegiptiaca」という学名では見つからず、北アフリカ原産の「Salvia aegyptiaca (Egyptian Sage)」というサルビアがあるが、植物画から見てこれとは違うようだ。
(写真)Salvia aegyptiaca (Egyptian Sage) サルビア・エジプチアカ
(出典) rareplants.de
(3) Salvia hirsuta Jacq. (1798). サルビア・ヒルスタ
(出典)ハント財団
このサルビアは、セッセ探検隊が命名したのは「Salvia hirsuta Sp. N.」で、学名としては、「Salvia hirsuta Sessé & Moc.(1887)」となるが、オーストリアの植物学者ジャカン(Jacquin, Nicolaus(Nicolaas) Joseph von 1727-1817)が1798年に先に命名していたので「Salvia hirsuta Jacq. (1798)」が承認された。
ジャカンは、オーストリアの皇后でマリーアントワネットの母であるマリアテレージア(Maria Theresia 1717-1780)から王室の医者として誘われて、1745年に生まれ故郷のオランダ、ライデンからウイーンに移り住んだ。彼が18歳のときであり若くしてその才能が認められていた。
ジャカンは、シェーンブルン宮殿の庭園のための植物を集めるためにフランツ1世によって1755年から1759年までカリブ海の島々とベネズエラ・コロンビアなどの中央アメリカに派遣されて、動物・植物・鉱物の大きなコレクションを集めてきた。
この探検の成功を耳にしたリンネは、“私たちが知らない世界から宝物を持ってきてくれたことを歓迎する”とジャカンに手紙を書き送った。
この成果をまとめて出版したのが『シェーンブルン宮殿の庭Hortus Schoenbrunnensis (1797-1804).』で、セッセ探検隊よりも早い時期にカリブ海・中央アメリカの植物をヨーロッパに持ち込んだ最初の成果でもあった。
ジャカンは探検が終わって帰国した後、成果を発表でき、しかも早熟の天才モーツアルトのパトロンとして豊かな生活を楽しむことができた。
スペインの探検隊との違いが際立ち、この違いは植民地を持っているか、持っていないかの違いだけではないだろうと思わざるを得ない。
(写真) Salvia hirsute サルビア・ヒルスタ
(出典) conabio
このサルビアには、「Salvia amarissima Ort」という記述もあった。ちなみに実写を掲載するが、植物画とどちらが近いかよくわからない。
(写真) Salvia amarissima Ort
(出典) flickr
■ セッセ探検隊が採取したサルビア
注( )内はハント財団が推定した受理された学名
1.Salvia aegiptiaca L. (Salvia laevis Benth)
2.Salvia coarctata spicata Sp. N. (Salvia spicata)
3.Salvia grandiflora Sp. N. ambigua ( Labiatae)
4.Salvia grandiflora pauciflora N. (Labiatae)
5.Salvia hirsuta Sp. N. (Salvia amarissima Ort)
6.Salvia indivisa an stricta Sp. N. (Labiatae)
7.Salvia adglutinans (Labiatae)
8.Salvia affinis (Labiatae)
9.Salvia ajugoides (Labiatae)
10.Salvia bulbosa (Labiatae)
11.Salvia exserta (Labiatae)
12.Salvia fastuosa Sp. N. (Salvia sessei Benth)
13.Salvia leptophylla (Salvia, Labiatae)
14.Salvia leucantha Cav. (Labiatae)
15.Salvia macrantha (Labiatae)
16.Salvia melissaefolia Sp. N. (Labiatae)
17.Salvia mexicana (Labiatae)
18.Salvia nepetoides (Labiatae)
19.Salvia palafoxiana Sp. N. Salvia palafoxiana (Salvia, Labiatae)
20.Salvia secundiflora (Labiatae)
21.Salvia tiliaefolia Vahl. (Labiatae)
モシニョーが持っていた植物画だけでも21品種のサルビアを採取したことがわかるが、セッセ探検隊は、もっと多くのサルビアを採取していたのだろう。
それにしてもスペインはもったいないことをする。科学者を生かさない国だったので、下り坂を登るまでのエネルギーがなく自重で転げ落ちてしまったのだろう。