モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その68:マッソンとミッショー 二人の関係 ②ミッショーと二人の関係

2008-10-31 07:45:40 | マリーアントワネットのプラントハンター、ミッショー

フランスのプラントハンター ミッショーのその後
植物探索の旅のために全ての資産を使い果たしたミッショーは、フランスに戻らなければならなくなった。

マッソンがニューヨークにつく1年前の1796年にフランスに向けて航海し、オランダ沖で強風のために難破してしまい命だけは助かったが、彼が収集した植物の標本のコレクション、種子及び日誌の一部を失ってしまった。

フランスの科学者達は、熱烈にミッショーを歓迎したようだが、革命政府は、ミッショーに約束したお金を払う意思がなく経済的に破綻するという現実が待っていた。ミッショーには、これらを乗り切る恫喝・詭弁・詐欺、後世では政治力とも言うそうだが、この能力がなく原稿執筆と称して内にこもっていたようだ。

ミッショはこれらから逃げ出すように、
1800年にオーストリア探検隊のNicolas Baudinに同行したが、ニコラス隊長と喧嘩をしてモーリシャスで船を降り、マダガスカルの植物調査に向かったが、
そこで熱帯病にかかり1802年に亡くなった。

(写真)ミッショー

ミッショーには、『the OAKS OF NORTH AMERICA 』『theFLORA OF NORTH AMERICA.』という2冊の著作物があるが、これらは、彼の息子が父の名前で書いたもののようだ。旅人ミッショーで終わらせるのではなく、学問的な業績と名誉を息子がプレゼントしたようなものだ。

ギリシャの時代には、薬草を求めて野山を駆け巡っている人々をリゾトモス(rhizotomos)といった。彼らは“草根採取人”とも呼ばれ、薬草に詳しい専門職ではあるが身分が低い職業でもあり、いわばその後のプラントハンターにつながる系譜でもあった。

マッソン、ミッショーとも貧しく、野山を駆け巡り、野宿をし、植物採取を行うプラントハンターを生涯の職として選びその現場で一生を終えた。
マッソンと喜望峰で一緒に植物探索をしたツンベルクは、リンネの系譜にあり
世界の植物の分類・体系化を生涯の職として選んでおり二人とは大きく異なる。

ミッショーの息子は、その後植物学者として大成する。自分の業績とするのではなく、父の業績としてまとめて出版したのは、現世の富を求めなかった父の未完成部分を十分に承知していたのだろう。

マッソンとミッショーの関係は?
ミッショーはマッソンを知っていただろうか?
マッソンはミッショーを知っていたのだろうか?
これに対する正解は事実として持ち合わせていないが、手持ちの事実から推測をするとこうなる。

1775年に喜望峰の珍しい意植物を持ち帰ったマッソンは時代の寵児となった。
英仏が如何に仲が悪くともフランスに伝わり、ミッショーは十分に承知していたと思われる。
ミッショーは、マッソンが行っていない北米での探索活動にマッソンをライバルとして認識する時間と機会が十分にあった。と言い切りたい。

一方イギリスでは、ミッショーがフランスに戻ってきた1796年頃までには、少なくともバンクス卿はミッショーを承知していたと考えるのが妥当で、マッソンの方はといえば、遅くともカナダを探検する頃までにはミッショーを認識していたと推測できる。
カナダの地を探検し、現地人から「フランスの乞食」と呼ばれたミッショーの清貧で情熱的に活動した実力を知ったはずだ。

二人は直接会うことはなかったようだが、ライバルとしてよく承知していたのだろう。
真のライバルのことは、恋人よりも全人格的にその人間を知るというが
二人の関係は恋人以上の関係だったのではないだろうかと思う。

マッソンはキュー植物園のグローバル化に貢献し、
ミッショーは、北アメリカの植物研究のメッカをパリのミッショーのコレクションが収まっている博物館に創った。
学術的な業績には二人とも欠けるが、植物のある世界をリアルに拡張するムーブメントを創ったともいえる。
日本の植物研究にはシーボルトのコレクションが欠かせない、南アフリカの、そして北アメリカではマッソン及びミッショーのコレクションが貴重な資料となっている。

ありがとうマッソン、そしてミッショー。
失われていくタフで、美しい自然。それをいま小さな4号ポットから組み立てることが出来るのは先人の情熱の恩恵であることが良くわかった。
来年のテーマはマッソンに近づき南アフリカの植物を増やしてみよう。

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その67:マッソンとミッショー 二人の関係 ①マッソン編

2008-10-30 08:07:23 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

喜望峰でゼラニュウムなど多くの新種を発見採取したイギリスキュー王立植物園のプラントハンター、マッソン。 北米で活躍したフランスのプラントハンター、ミッショー。この二人には接点がなさそうで接点があったようだ。

まずは二人の年齢を確認してもらいたい。ほぼ同時代だが、マッソンのほうがお兄さんで多少長生きしている。ミッショーは人生が短かったが、よくできた息子が父の志をリレー方式で完成させるという父を思う息子の感動ものがあった。
マッソン(Francis Masson 1741-1805)
ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)

(写真)マッソン


マッソン、ミッショー。虚像との出会い
1785年11月、アンドレ・ミッショーは15歳になった息子とともににニューヨークに到着した。
丁度その頃、フランシス・マッソンは、再起をこめてイギリスを発ち二度目の喜望峰に向けて出発した。
同じ時期にミッショーは大西洋を西へ、マッソンは南へ旅立った。

マッソンの再起をこめてということは、喜望峰から帰ってからのマッソンは、ポルトガル、アフリカ沖の大西洋上にあるアゾレス諸島・カナリア諸島などの島々及びポルトガル、スペインなどにプラントハンティングに出かけたが目ぼしい成果がなかったようだ。氷河期にはアフリカまでが氷で覆われたようだが、この大西洋上の島々は、氷に覆われることがなかったので古い植物が生き残っている独自の植物相で貴重なところのようだ。
喜望峰も植物の宝庫でありプラントハンティングの地域の選択は間違っていなかったが幸運は続かなかったということだろうか?

そこでマッソンは、華々しい成果があったいい思い出の喜望峰・南アフリカに10年間留まり、1795年にイギリスに帰ってきた。イギリスに戻ってからしばらくした1797年の早い時期に、元の上司だった王立協会会長バンクス卿がマッソンを口説き始めた。
「カナダ北部の探検をして欲しい。君しかいない。」と、こんな感じだったのではないかと思う。

王立協会会長としてイギリスの科学・技術領域で絶大な権力も持っていたバンクス卿に逆らえるわけがなく、マッソンはいやいやながらもこれを受け入れ、1797年9月カナダに向かって航海した。嵐とフランスの海賊船のためニューヨークに到着したのはその年の12月だった。

ミッショーから12年遅れてマッソンもニューヨークの地に着いた。
ミッショーは、マッソンの栄光を知り自らの栄光を求めて北米に出発したが、マッソンは、ミッショーの影と出会いこれを追いかけることになったのではないだろうか?


カナダ探検企画の不可解さとマッソンのカナダ探検
バンクス卿がカナダ北部の探検を企画したのは何故だろうか?
カナダはフランス領でありイギリスにとっては入り込めないところであるが、これだけではなくミッショーの成果が気になったのだろうか? 或いは、フランス同様に、自国の気候に合う新たな木材資源の開発が急務になったのだろうか?
謎は尽きないが、ミッショーの探索の成果が影響している可能性が高い。
と思われる。
この不可解さを、探検地と採取した植物などから検証してみよう。

(写真)ミッショーとマッソンのプラントハンティング地

ミッショー:黄色とオレンジの押しピン マッソン:オレンジの風船

マッソンとミッショーの探検地域を地図にプロットしたが、
マッソンは、モントリオールをベースキャンプにナイアガラ滝から五大湖周辺の探検を行っている。いわばアメリカ、フランス、イギリスの領土の境界線上を探検しており、ミッショーのようにカナダの北方へは行っていない。

マッソンがバンクス卿におくった採取した種子・植物は、
オンタリオ湖周辺で採取した種子1箱とワイルドライス(wild rice)の標本
(注)wild rice:Canada rice, Indian rice and water oats
ミネソタのグランドポテージへの旅では、生きた水生植物と123種の植物の種
ケベックのハーブと潅木及び90種の植物の種
モントリオール周辺で果物・ナッツ・ヤナギの木の見本

イギリスのバンクス卿に送った採取した植物類、採取場所から見ると、ミッショーが行かなかった空白地での新奇植物を幅広く集めているようであり、バンクス卿の世界の植物情報を集積する一環でなおかつフランスのミッショー対抗という性格が強そうだ。
頑固で一徹で負けず嫌いなバンクス卿の性癖が、フランス何ものぞという意識で、ミッショー対マッソンという構図を作ったとしか思えない。

マッソンは、イギリスに帰ろうと思っていたようだが、1805年12月23日のイブの日にモントリオールで死亡した。プラントハンティング中に野営し凍え死んだのかとばかり思っていたが、John Gray(モントリオール銀行の初代頭取?1755-1829)の家で亡くなったようだ。
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イエローマジェスティ(Salvia Yellow Majesty)の花

2008-10-29 08:35:34 | セージ&サルビア
2mを超える身の丈、
薄緑色の1㎝角の太い枝、
手のひらサイズの大きなハート型の葉
耐寒性が弱いのに開花期が木枯らしが吹く直前と遅い、
など常識を覆すセージがあった。

サルビア・マドレンシスの園芸品種で、S.マドレンシス‘イエローマジェスティ’という。

花序が伸びてから2週間もたって開花した。
カナリア色とでもいうのだろうか? 
或いはちょっと明るいクリームイエローなのだろうか?

原産地のメキシコでは、松とかナラ樹林の下で木漏れ日に向かって伸びているというから
ひときわ鮮やかなカナリア色となっているのだろう。
光と影とのコントラストの中でのこのカナリア色は美しいだろうな~と想像できる。

(写真)イエローマジェスティの花


イエローマジェスティの歴史
メキシコを南北に貫く背骨が “シエラ マドレ山脈”で、アメリカ南部からメキシコ南部に至り、
山脈の東側を“シエラ マドレ オリエンタル(東方)”
太平洋側の西側を“シエラ マドレ オクシデンタル(西方)”と呼んでいる。

このシエラ マドレ山脈は、南アフリカケープ地方同様に植物の宝庫で、
標高で植物相が異なるから不思議な植物が多くワクワクさせてくれる。

イエローマジェスティの原種は、
東側の“シェラ マドレ オリエンタル”の標高1200-1500mのところに自生
この地帯は、パイン(松)とオーク(ナラ)が豊かなところでその下地の小潅木として生息していたという。
2mにならんとする草丈は、この生活環境から来ている。


1856年にドイツの植物学者でプラントハンターのゼーマンが発見・採取し、
学名は、サルビア・マドレンシス(Salvia madrensis Seem.)と命名した。

ゼーマン(Seemann, Berthold Carl 1825-1871)は、
ドイツのハノーバーで生まれ、19歳の時にイギリスに渡りキュー植物園で植物学を学び、
アメリカ西海岸、ハワイ・フィジーなどの太平洋、南アフリカ喜望峰、
メキシコ、ベネズエラ・ニカラグア・パナマなどの中南米を幅広く採取旅行をし、
新種347種を登録しているプラントハンターでもあった。

(写真)イエローマジェスティの茎と葉


イエローマジェスティ(Salvia Yellow Majesty)
・シソ科アキギリ属の多年草で耐寒性は-5℃と強くない。冬場は根元をマルチングする。
・学名は Salvia madrensis cv. Yellow Majesty。英名は Salvia Yellow Majesty。
・原産地・原種はメキシコのS.マドレンシス(S. madrensis)でこの園芸品種。
・S.マドレンシスは、学名がSalvia madrensis Seem.、英名がフォーサイシアセージ(Forsythia Sage)で、メキシコの Sierra Madre山脈で発見された。
・草丈2mまで成長するので、初夏までに摘心する。
・開花期は、10~11月頃黄色の唇型の花が咲く。
・5月頃株分け・さし芽で繁殖させる。


英名フォーサイシア・セージ(Forsythia Sage) の“Forsythia”は、
英国の園芸家ウイリアム・フォーサイス(William. Forsyth 1737-1804)に由来する。
フォーサイシア(Forsythia)は、モクレン科のレンギョウ(連翹)属のことをさし、
フォーサイシアセージは、レンギョウのように黄色いセージを意味している。

確かに、レンギョウの黄色は刺激的だが、

北アメリカ原産で、道路わきなどに群生しているセイタカアワダチソウの黄色も強烈で、
列を成したときに美しさがある。

【参考サイト】
・シェラ マドレ オリエンタルの風景(WWF、World Wild Life org)
http://www.worldwildlife.org/wildworld/profiles/terrestrial/na/na0303_full.html
・レンギョウ(ボタニカルガーデン)
http://www.botanic.jp/plants-ra/rengyo.htm
・セイタカアワダチソウ(ボタニカルガーデン)
http://www.botanic.jp/plants-sa/seawad.htm

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10月末は「さし芽」づくり

2008-10-28 11:14:27 | 今月のガーデニングワーク
耐寒性がある多年草セージは、枝が枯れてきたらこれを根元から5cm上で切り落とし
枯葉、腐葉土などでマルチングして根を凍死させないようにする。

春になると芽が出てくるとこの越冬対策がうまくいったことを喜び
花が咲くとそれを愛でまた冬が来る。

この繰り返しだが、確実に老化していっていることは間違いない。
セージの場合は、3~4年で株を一新したほうが良さそうだ。

そこで、株を新しくするために『さし芽』を行ったほうが良いが、
時期としては、梅雨の頃の5末~6月、暑い夏が終わった9~10月頃がベストだが、
越冬との関係で、20度程度の気温がある10月末が一番良さそうだ。
さし芽のまま来春の活動期まで越冬させられるからだ。

昨年はじめてさし芽を作ったが、大きなプランターのまま春まで持ち込んだので管理が容易だった。

また、大事な株は、予備を毎年でも作っておいたほうが良い。
今年は、耐寒性がないため1年草扱いされているコクシネアにもチャレンジしてみた。

(写真) 10月末につくったさし芽


さし芽の作り方の手順
1.さし床の準備
水はけが良い清潔な土を準備する。
肥料分はないほうが良い。腐葉土などは根から腐る可能性があるのでいれない。乾燥しすぎると水遣りの管理が大変なので、赤玉土小粒にパーミキュライトを混ぜて使うとよい。
私の場合は、土を捨てないという方針で再生土を使っているので、使用済みの土を貯めておくプランターをいくつか用意し、①単に貯めておくもの ②土にふるいをかけ根、軽石などを取り除いたものを寝かせておくもの(石灰で中和消毒をしておく) ③土の再生活性化剤をいれ1ヶ月ぐらい寝かせたものをさし床などに再利用している。

2.容器の準備
大き目のプランターと個別のビニールポットを使用。
寒冷地では、魚などを入れている保温が出来るウレタン系のボックスが便利。(ビニールをかけミニ温室がつくれる。)

3.さし芽をとる
今年成長した元気な枝をカットする。(切りたくない太くて元気なモノが一番良い)

4.さし穂をつくる
切り取った元気な枝から5~10cmのさし穂をいくつかカットする。
セージ類は5cm以上あれば十分で、もともと枝が太い植物は10cm以上に長くカットする。
カットの仕方は、水を吸いやすいように節の上で葉を残してカットする。
葉から水分が蒸発するので2枚程度を残し、大きな葉はさらに葉をカットする。

5.さし床にさす
さし床に割りばしなどで穴を開け、さし穂をそこにさし土をかける。
この時に、切り口が傷つかないように優しくさす。(傷口から病原菌が入るのを防ぐ)

6.水をあげる
たっぷりと水をあげ、半日陰に置く。
3日間は何もしない。
その後は、乾いたら水をあげる。がだんだんと水をあげる量を減らす。
肥料は絶対やらない。

7.発根したら植え替える
発根は、生育旺盛な6月頃に実施した場合は、2週間ぐらいで発根する。秋は多少時間がかかるが1ヶ月以内に発根する。
発根したら植え替えるが、今回は2号程度のビニールポットにしたので、来春根が張ったところで3~4号鉢に植え替える。

さし芽したセージ
耐寒性が弱いコクシネア、アフリカンブルーバジル(これらは難しいかな?)
メキシカンブッシュセージ2種、ロシアンセージ、ローズリーフセージ、パイナップルセージ、ブラジリアンセージ・パープル、ジャーマンダーセージの9品種。

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サルビア・セミアトラータ(Salvia semiatrata)の花

2008-10-27 07:45:05 | セージ&サルビア
(写真)セミアトラータの花


やっとセミアトラータの花が咲いた。
いま一番お気に入りの花で、開花期は夏から秋という一般論から大きく外れ
10月末の開花となった。

かすんだ赤紫の萼に包まれ、その中から淡いブルーと黒に近いブルーの
ツートンの口唇系の花が顔を出す。
細かい毛があるので光を乱反射させ、絵の具では出難い色彩の味がある。
この色の組み合わせのオックスフォード地のシャツが欲しい。


セミアトラータの葉は、形も色も実に美しくこれだけでも価値がある。

葉の形は、角のとれた三角形のような台形状でよく出来たおむすびのようでもある。
この形に、緑色の或いは黄緑にもなる鮮やかな色が載り、
葉の表面に絞りが入ったような凸凹があり、光を柔らかく反射させてくるだけでなく、ザラザラした手触り感も良い。
花のない時期は、葉が宝石のように輝くのでこれだけでも結構楽しめる。

枝は花が咲く頃には木質化し、枯れ枝に若々しい葉が生えている感じになり、
このギャップも良い。

セミアトラータは、意外と情報が少なく人気のセージでもなさそうだが、
そのうちに人気がでてくるだろう。

この花は、メキシコの2000mのあたりのブッシュに生息し、メキシコのセージの奥の深さに驚く。

(写真)セミアトラータの葉


セミアトラータは、ドイツの植物学者でミューヘン大学教授 ツッカリーニ(Zuccarini, Joseph Gerhard 1797-1848) によって、1829-1830年に命名されている。採取者は誰かわからなかったが、1800年代初期に採取されたのだろう。
ツッカリーニは、日本、メキシコの植物の分類などを行ったが、なんといってもシーボルトとの日本植物の分類などで『日本植物誌(Flora Japonica)』を共著したことで知られている。

(写真)セミアトラータの花2


サルビア・セミアトラータ(Salvia semiatrata)
・シソ科アキギリ属の耐寒性がある多年草だが、霜には当てない方がよい。
・対暑性は強いというが、水切れでよくダウンしていた。
・学名はSalvia semiatrata Zucc.。
・原産地はメキシコの標高2000m地帯に生息。
・草丈は1mから1.5mと高いので、摘心をして丈をつめ、枝を増やすように育てる。
・木立になるので、年数がたつと鮮やかな緑の葉と枯れた感じの枝の風合いが良い。
・花期は、夏から秋と長いが、今年は10月中旬に開花。
・ガクは薄い赤紫、花がツートンカラーで黒味が入った青紫と、白味が入った青紫で珍しい配色の組み合わせだ。
・10月までにさし芽で殖やす。

『日本植物誌』
P. F. von Siebold and J. G. von Zuccarini Flora Japonica, Leiden, 1835-1870

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長い夏休みから復帰した ウリカ(Salvia urica)の花

2008-10-26 10:11:19 | セージ&サルビア
(写真)ウリカの花


夏休みが終わったことを忘れてしまったのだろうか?
5月末に開花し、7月から2ヶ月ぐらいの夏休みに入ったはずだが・・・・
4ヶ月の夏休みをとってしまった。
だいぶ長期の夏休みだったが、ブルーの色がいっそう濃さをまし対で咲いていた。

ブルー系は、カメラ写りが悪く見た感じに取りにくいので、
淡いブルーの花アズレアと比較してもらおう。

9月頃がウリカ、アズレア、コバルトブルーセージ、ラベンダーセージ、パープルマジェスティセージ
などのブルーの競演のはずだが、1ヶ月以上も遅れている。

(写真)アズレアの淡いブルー


サルビア・ウリカ(Salvia urica)
・シソ科アキギリ属の耐寒性がない多年草。
・学名は、Salvia urica Epling。英名はブルーブッシュセージ(Blue Bush Sage)。
・原産地は、メキシコ、グアテマラ、ホンジュラスの暖かく湿った山腹で自生。
・草丈は50cmぐらいで株張りが50cmと旺盛。
・耐寒性が弱いので強い霜に当てないようにする。
・日あたり、水はけの良い肥沃な土で、あまり乾燥させないように育てる。
・夏場は風通しの良い半日陰でそだてる。
・開花期は初夏と秋で、5月末~6月、9月~10月で夏場は休む。今年は10月末に復帰。
・10~20cmぐらい育ったところで、摘心(1~2回)を行い枝を増やす。
・株が古くなると弱くなるので、3年目ごとにさし芽で増やす。


サルビアウリカの歴史(掲載080530)
メキシコ、グアテマラ、ホンジュラスの暖かく湿った山腹で自生し、
美しいディープ・ブルー・バイオレットの花を咲かせていたが、
この美しさに気づき歴史(欧米の)に登場してきたのはつい最近で、
新種として命名・登録したのが Epling, Carl Clawson (1894-1968) だった。

Eplingは、この時代のアメリカでの著名な植物学者で、
サルビア属があるシソ科の権威でもある。
彼は、100以上の科学的な業績を残しているが、その中で著名なのは、
覚醒効果があるサルビア・ディビィノラム(Salvia Divinorum)の研究である。
メキシコの原住民が神との交信でタバコを使っていたが、
サルビア・ディビィノラムの葉もシャーマンによって使われていたという。

彼は、この時代のアメリカ大陸でのサルビア属の権威でもあったが、
美しい青紫の花を咲かせるサルビア・ムエレリの命名者でもあった。

彼にこのようなチャンスが残されていたのは、
薬草などの有用植物は、秘匿されていたにしてもコロンブス以降積極的に調査・採集されたが
中南米での有用でない美しいだけの花に関心が向いたのが20世紀だった。
ということを意味しているのだろう。

日本にいつ入ってきたか定かではないが、現時点でもポピュラーではないようだ。
審美眼は人によって異なるが、育てるのがさほど難しくはなく
深いブルーの美しい花は、
休むことの大切さを気づかせ、こころのケアーに有用なのだが・・・


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ツワブキの花

2008-10-23 09:23:25 | その他のハーブ

(写真)キク科のツワブキの花


ツワブキは、和風ガーデンの代表的な一品でもあるが、
その前は、純然としたハーブだった。

抗菌作用があるヘキセナールという成分があり、
フグとかカツオなどの魚の毒を消す効果があるので煎じて飲んでいたそうだ

いまでは、観賞用となり
つややかな大ぶりの濃緑色の葉は海外でも人気があるという。
確かにツワブキは、 “主張をしない主張”という素晴らしい存在感を持っている。


原産地は、福島県以西の本州,韓国,中国、台湾などの海岸線の岩場や林の下に自生し、
陽のあたる幾分湿ったところが好まれる。

半日陰でも育つので、内庭・石庭などでも強い緑が欲しいところで利用され、
ガーデンの主役とはなれないが、洋風庭園、ロックガーデンでもマッチし、
応用性が広く名脇役として活躍している。

身の丈50cm程度なので、小潅木の下,隙間などを埋めたり
無限の組み合わせにも順応できる優れた素養を持っている。

(写真)ツワブキの葉と花


ツワブキ
・キク科ツワブキ属の耐寒性がある常緑の多年草。
・学名は、Farfugium japonicum ( L. ) Kitam.。和名は石蕗(ツワブキ)。
・原産地は、日本福島以西、朝鮮半島、中国、台湾などの海岸、岩場、林の下などに自生。
・葉につやがあるのでフキに似たつやのある葉、艶葉蕗(つやはふき)からツワブキとなった。
・開花期は、10月~11月末。黄色い花を咲かせる。
・草丈は、50cm程度で横に広がる。
・半日陰でも育ち、やや保水性のある土壌を好む。
・小京都として知られる津和野は、「ツワブキの生い茂る野」から来ているようだ。

学名の命名者は
北村四郎(Kitamura, Siro 1906-2002)。京都大学教授で植物分類地理学の確立と学会の設立にかかわる。
キクのオリジナルを、中国地方のチョウセンノジギクとハイシマカンギクが交雑して現代の菊の原形ができたと言ったヒトだった。
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シコンノボタン(紫紺野牡丹、Brazilian glory bush )の花

2008-10-22 07:54:24 | その他のハーブ

“ノボタン”“シコンノボタン”との違いをあまり気にせずにいたが、
似ているようで大分ちがうようだ。

ノボタン科の植物は、熱帯・亜熱帯の植物で、世界に4万種以上もあるというから驚きだ。
これは区別がつかないし、覚え切れない。
日本には、南西諸島、小笠原諸島に7種だけあるそうだが、ということは、
園芸店で販売しているノボタン系の植物は、原産地が日本以外のモノが多いということだ。

実際に黒塀で囲われた武家屋敷風の外庭にも、紫色のノボタンは似合うので
和の植物と思えないでもないがそうでもなかった。

原産地の違いで言うと、 “シコンノボタン” はブラジルであり、
Brazilian glory bushと呼ばれているので、ブラジルの栄誉ある花として尊敬されているようだ。
一方、 “ノボタン”には日本原産のものもある。

違いの見分け方だが、おしべを見るとわかるという。
“シコンノボタン”のおしべは紫色だが、 “ノボタン”の場合は短いおしべが黄色をしている。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/nobotan.html 
(リンク:植物園)

(写真)おしべが紫色のシコンノボタンの花


シコンノボタンは、野に咲く紫紺色の牡丹と書くが
ノーブルで大きめの紫の花。
短い毛のある柔らかそうな楕円形の葉。
が魅力的だ。

花は一日で咲き終わり、
朝起きてみる、紫の花弁が散らばっている様は
情緒に満ちている。

おしべとおしべの先がくもの足に似ているので、
スパイダーフラワーとの別名があるが
違和感なく気品を保っている。

(写真)シコンノボタンの葉と花


シコンノボタン(紫紺野牡丹、Brazilian glory bush )
・ノボタン科ティボウキナ属の常緑低木だが、冬場は葉が紅葉する。
・学名は、Tibouchina urvilleana 。英名は、Brazilian glory bush。別名スパイダーフラワー。
・原産地は、ブラジルなどの中南米。
・丈は1~3メートル。風に弱いので支柱で補強。鉢植えの場合は、剪定しつめる。
・剪定時期は4~5月頃で、現在でも50cm程度のサイズに保っている。
・開花期は8月~10月だが昨年も11月頃に咲きはじめている。一日花だが毎日次から次へと花を咲かせる。
・乾燥を嫌うので、乾いたらたっぷりと水をあげる。但し、冬場は乾燥気味に育てる。
・終わった花は摘み取る。花が終わった11月頃に、思いっきり刈り込み室内に取り込む。

(参考サイト)
ノボタン(短いおしべが黄色をしている)
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/nobotan.html
(リンク:群馬大学、青木さんの植物園)

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その66:喜望峰⑫ 南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No2 -Final

2008-10-21 08:57:21 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

ゼラニュウムはややっこしい。という話をまとめてみた。まずはゼラニュウムの大昔の歴史からはじめよう。

ディオスコリデスが名づけた “ゼラニュウム”

ゼラニウムという名は、ギリシャ語で“鶴(つる)”を意味するゲラノス(geranos)からきている。
実がなったゼラニュウムの立ち姿は、まるで、鶴が長いくちばしをつきたてているようであり、これから鶴のくちばしに見立ててゲラノスと呼んだ。

英語ではこの草花を “クレーンズ・ビル”(cranes bill) といい、これもまたギリシャ語同様に“鶴のくちばし”を意味する。
現代的には、高層ビルの建築では、一番上にクレーン(起重機)があり、この姿も鶴のくちばしに似ている。

さて次の植物画は何に似ているだろう!  そう、鶴に似てますね!!

(写真)鶴のくちばし

(資料)Charles Louis L'Héritier de Brutelle「ゼラニュウム論」(1787-1788)

この名前をつけたのが、ディオスコリデス(紀元40-90年頃)で、彼の薬物誌には次のように書かれている。

『ゲラニウムの葉は、アネモネに似ているが、鋸歯がありアネモネの葉よりは長い。根は丸みがあり食べると甘く1ドラム(約4.37グラム)をぶどう酒とともに服用すれば、子宮の炎症がおさまる。 これは、またアルテルム・ゲラニウム(Alterum geranium)「もう一つの(第二の)ゲラニウム」とも呼ばれる。細かくて短い茎には細かい毛がたくさんあり、長さは2スパン(約46㎝)である。葉はゼニアオイに似ている。枝の先には上を向いた一種の副次発生のものがつく。これは嘴のある鶴の頭あるいは犬の歯のような形をしているが薬用にならない。』
『ディオスコリデスの薬物誌第3巻131 GERANION Geranium tuberosum』


「ゼラニュウム」を『ペラゴニウム』に改名した男

1772年から南アフリカからイギリスのキューガーデンに大量のゼラニウムを送ったのは フランシス・マッソン(Francis Masson1741-1805)で、これが遠因で名前を変えることになった。

それまでは、ディオスコリデスが名付け、リンネが学名として採用した“鶴を意味するゲラノス(geranos)”を語源とする “ゼラニュウム”であったが、南アフリカから入ってくるゼラニュウムが膨大なので、新しい属名を作り ペラルゴニウム(Pelargonium)と名づけた。

この属名を変えたのが レリティエール・ド・ブリュテル(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800 )で、フランスの裕福なアマチュア植物学者で判事だった。アマチュアとプロの線引きは、職業としなかっただけだと思うが業績は十分にある。

レリティエールは、1787-1788年に『ゼラニュウム論』を書き

それまでのゼラニュウムを3つに分けて
1.南アフリカから入ってきたゼラニュウムをペラルゴニュウムに変更
2.それ以外のクレーンズビル(cranes bill)をゼラニュウム(ギリシャ語のgeranos鶴を語源)とする
3.高山植物をエロディウム(ギリシャ語のerodiosサギを語源)
とした。

ペラルゴニウムという名は、ギリシャ語のペラルゴス(pelargos)からきたものでコウノトリを意味する

ツル・コウノトリ・サギと名前のつけ方はいい加減のようではあるが、区別することが重要で、この区別が浸透していないというのも現実だ。特に、園芸品種が多いためさらにわかりにくくなっている。

ペラルゴニウムの花の特色は、 7本のおしべと上が2枚下が3枚の花びら で、上2枚には網脈のようなしみがついていて春だけの一季咲きとなる。
ゼラニュウムの場合は、10本のおしべを持った整斉花で大部分が北半球の耐寒性がある植物からなる。

レリティエールは、フランス革命後も治安判事を務めていたが1800年に暗殺された。
原因はわかっていないが、彼のそれまでの業績とかかわっていたのだろう。

トピックスとしては、レリティエールは、自分の著書の植物画を描く挿絵画家を探していて、王立植物園博物館で絵画技師をしていた若き画家を発見し、この人間を育てた。

1789年に、友人から預かった植物標本をフランス革命の破壊から守るために
イギリスにこれをもっていった。この時、若き画家も連れて行き銅版画技術を学ぶ機会を与えた。彼は、絵から輪郭線を取り除く技術を学び、これにより上品なグラデーションが可能となった。
この若き画家は、あの官能的な美しい 『バラ図譜』 などを描いたピエール・ジョセフ・ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redoute 1759-1840)であった。
※ バラ図譜は米国議会図書館の“レアブックルーム”にある原本。左下コーナーでページを選び真ん中上及び右上で拡大で見る。

ボタニカルアートの頂点でもある彼の絵は、レリティエールと出会ったことにより科学的な植物解剖学の知識を教えられ、これを表現する技術をイギリスで学び、リアルを切り取る写真では表現できない官能的な美を生み出した。

しかし、レリティエールは、イギリスから帰国後投獄され釈放後に暗殺された。
友人の植物標本は、この採集に協力したスペインから権利を主張され返還請求があったが、これからも逃れるためにイギリスに持っていったことがかかわっていたのだろうか?

南アフリカからペラルゴニウムを大量に採取したプラントハンターのマッソンにしろ
暗殺されたレリティエールにしろ、 “Catch the roots”は、命がけだった時代があったのだ。

(写真) レモンローズゼラニュウムの花

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その65:喜望峰⑪ 南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No1

2008-10-20 08:07:10 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

フランシス・マッソンの最大の功績は、ゼラニウムの発見といっても良さそうだ。このゼラニウムについては、かつて記載したものがあるのでこれを再編集した。

南アフリカとゼラニウム

センテッド・ゼラニューム或いはニオイゼラニュームといわれているグループは、
葉・花に独特の香りがあり、四季咲き性がない。
花は春だけのものだが、葉からの香りは年中楽しめる。

(写真)早春の花ジンジャーゼラニウム


ゼラニュームは南アフリカが宝庫であり、陽射が強く乾燥した冷涼なところが適地となる。この南アフリカ喜望峰が発見されたのは、大航海時代の1488年のことであり、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias, 1450頃 - 1500年)が発見した。
これにより、1497年にはポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1469頃-1524)がインドに海路到着することが出来た。

ポルトガルは香辛料を求めインドに向かい、スペインは黄金を求め逆周りでジパングを目指しアメリカ大陸に着いた。しかし、南アフリカ、アジアの植物をヨーロッパに持ってきたのはイギリスであり、このゼラニュームがヨーロッパに伝播したのは18世紀のことだった。

イギリスのプラントハンター、フランシス・マッソン(1741-1805?)によるところが大きく、18-19世紀はイギリスの時代であり、南アフリカ・東アジアからの植物を
イギリス・キュー王立植物園に移植するプラントハンターが活躍した。

日本へは、江戸時代末期にオランダから伝播され、外国(唐天竺)から来たアオイに似た葉を持つ植物ということで、テンジクアオイと命名された。


ゼラニュウムを見つけたのは、キュー王立植物園のプラントハンター第1号マッソン
ヨーロッパを彩る鮮やかなゼラニュウムの赤は、ジメジメしていない澄んだ空気を突き抜けて目に飛び込んでくる。この花がなかったらヨーロッパの街並みは殺風景になり、魅力もチョッとは下がったことだろう。

南アフリカ原産のゼラニュウムがヨーロッパに、そして世界に広まったのはカナダで植物採集の途上に凍死した一人のプラントハンターの活躍があった。
フランシス・マッソン(Francis Masson1741-1805) だ。

1759年に宮殿付属の植物園としてスタートした後のキュー王立植物園。マッソンは、そこのプラントハンター第一号でもあった。キュー王立植物園は、世界の新しい植物を組織力で集め世界の植物情報センターとして今では存在しているが、マッソンなどの冒険者の活躍がその基盤を作った。

1772年南アフリカ喜望峰の地にたったマッソンは、それから約3年強の期間に50種類のゼラニュウムをキュー植物園に送った。
その園芸種が今では世界の庭と窓を飾っている。キューの責任者ジョセフ・バンクス卿は「ゼラニウムに関しては、マッソンの尽力が大きい」と評価している。

マッソンは、年100ポンドの給料で、世界の植物をハントするプラントハンターであった。彼は、アフリカの奥地では鎖でつながれた脱走囚人に追いかけられたり、西インド諸島のグレナダではフランスと戦う地元の軍の捕虜になったり、北アメリカへの航海中にフランスの海賊に捕まったり、
最後にはカナダに向かいそこで1805年のクリスマスの日に凍死した。

彼は引っ込み思案の人間のようで、現世での名誉を求めなかったようで
彼の名前が残っているのは、マッソニアという珍しい品種のユリ科の植物だけとなる。
http://www.botanic.jp/plants-ma/maspus.htm (参考:ボタニカル・ガーデン)
だが、ゼラニュウムの歴史には、マッソンの種名が刻まれていないが、彼が発見した事実は永久に記憶に残される。

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