フランスのプラントハンター ミッショーのその後
植物探索の旅のために全ての資産を使い果たしたミッショーは、フランスに戻らなければならなくなった。
マッソンがニューヨークにつく1年前の1796年にフランスに向けて航海し、オランダ沖で強風のために難破してしまい命だけは助かったが、彼が収集した植物の標本のコレクション、種子及び日誌の一部を失ってしまった。
フランスの科学者達は、熱烈にミッショーを歓迎したようだが、革命政府は、ミッショーに約束したお金を払う意思がなく経済的に破綻するという現実が待っていた。ミッショーには、これらを乗り切る恫喝・詭弁・詐欺、後世では政治力とも言うそうだが、この能力がなく原稿執筆と称して内にこもっていたようだ。
ミッショはこれらから逃げ出すように、
1800年にオーストリア探検隊のNicolas Baudinに同行したが、ニコラス隊長と喧嘩をしてモーリシャスで船を降り、マダガスカルの植物調査に向かったが、
そこで熱帯病にかかり1802年に亡くなった。
(写真)ミッショー
ミッショーには、『the OAKS OF NORTH AMERICA 』『theFLORA OF NORTH AMERICA.』という2冊の著作物があるが、これらは、彼の息子が父の名前で書いたもののようだ。旅人ミッショーで終わらせるのではなく、学問的な業績と名誉を息子がプレゼントしたようなものだ。
ギリシャの時代には、薬草を求めて野山を駆け巡っている人々をリゾトモス(rhizotomos)といった。彼らは“草根採取人”とも呼ばれ、薬草に詳しい専門職ではあるが身分が低い職業でもあり、いわばその後のプラントハンターにつながる系譜でもあった。
マッソン、ミッショーとも貧しく、野山を駆け巡り、野宿をし、植物採取を行うプラントハンターを生涯の職として選びその現場で一生を終えた。
マッソンと喜望峰で一緒に植物探索をしたツンベルクは、リンネの系譜にあり
世界の植物の分類・体系化を生涯の職として選んでおり二人とは大きく異なる。
ミッショーの息子は、その後植物学者として大成する。自分の業績とするのではなく、父の業績としてまとめて出版したのは、現世の富を求めなかった父の未完成部分を十分に承知していたのだろう。
マッソンとミッショーの関係は?
ミッショーはマッソンを知っていただろうか?
マッソンはミッショーを知っていたのだろうか?
これに対する正解は事実として持ち合わせていないが、手持ちの事実から推測をするとこうなる。
1775年に喜望峰の珍しい意植物を持ち帰ったマッソンは時代の寵児となった。
英仏が如何に仲が悪くともフランスに伝わり、ミッショーは十分に承知していたと思われる。
ミッショーは、マッソンが行っていない北米での探索活動にマッソンをライバルとして認識する時間と機会が十分にあった。と言い切りたい。
一方イギリスでは、ミッショーがフランスに戻ってきた1796年頃までには、少なくともバンクス卿はミッショーを承知していたと考えるのが妥当で、マッソンの方はといえば、遅くともカナダを探検する頃までにはミッショーを認識していたと推測できる。
カナダの地を探検し、現地人から「フランスの乞食」と呼ばれたミッショーの清貧で情熱的に活動した実力を知ったはずだ。
二人は直接会うことはなかったようだが、ライバルとしてよく承知していたのだろう。
真のライバルのことは、恋人よりも全人格的にその人間を知るというが
二人の関係は恋人以上の関係だったのではないだろうかと思う。
マッソンはキュー植物園のグローバル化に貢献し、
ミッショーは、北アメリカの植物研究のメッカをパリのミッショーのコレクションが収まっている博物館に創った。
学術的な業績には二人とも欠けるが、植物のある世界をリアルに拡張するムーブメントを創ったともいえる。
日本の植物研究にはシーボルトのコレクションが欠かせない、南アフリカの、そして北アメリカではマッソン及びミッショーのコレクションが貴重な資料となっている。
ありがとうマッソン、そしてミッショー。
失われていくタフで、美しい自然。それをいま小さな4号ポットから組み立てることが出来るのは先人の情熱の恩恵であることが良くわかった。
来年のテーマはマッソンに近づき南アフリカの植物を増やしてみよう。