メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No17 (プリングル、その2)
プリングルの貧困とスポンサー
プリングルは膨大な植物標本を採取しているが、これは、経済的な危機と無縁ではないようだ。ハーバード大学植物学教授のグレーが亡くなってからのプリングルは、常に経済的な危機に陥っていた。
これをカバーするために新たなスポンサーとしてアメリカの製薬会社2社(イーライリリー及びパーク・デイヴィス)、メキシコの国立医学研究財団などと契約をした。
パーク・デイヴィス社は、現在はファイザーに買収されているが新薬開発で臨床実験を組織的にした世界初の企業として歴史に名を残している。19世紀末から製薬会社がプラントハンターのスポンサーとして登場したことは注目に値する。
プリングルにとってはこれだけで十分でなく、米国・英国などの植物園・博物館など40社に植物標本1シートを10セントという安い料金で提供するビジネスも行った。
どんなところに供給したかを見ると、スミソニアン協会、ニューヨーク植物園、ミズリー植物園、カリフォルニア科学アカデミー、英国博物館、キュー植物園、エジンバラ植物園などであり、これまでプラントハンターを派遣した主要なスポンサーでもある。
貧困から編み出された手法かもわからないが、これまでのプラントハンターを支えていたのは困難な時間に見合った報酬とその活動費という拘束時間とプロセスに基づいていたが、1シート10セントという成果報酬型にいきなり切り替えてしまい、プラントハンターのビジネス破壊を行った感がある。
プリングルが活動した時代は、鉄道のネットワークが拡大していく時代であり、米国では、1830年代に蒸気機関車の運行が始められ、路線が充実し馬車や川蒸気に取って代わったのが1900年前後の数十年間がその全盛期というから、まさにプリングルの時代に重なる。
一方メキシコの場合は、1873年にメキシコシティ - ベラクルス間 419 km が列強資本によって建設されたのを始まりとし、1908年にはいくつかの私鉄を買収する形でメキシコ国鉄が発足したという。
プリングルのメキシコ探検旅行は、シャーロットから汽車に乗ることから始まる。この新たな移動手段・メディアが出現したので、かつてのプラントハンターの報酬・価格が低下せざるをえなかったのだろう。
単独でのスポンサーで全ての経費をまかなうのが難しい場合は複数のスポンサーに広げるのは当然の理であるが、植物標本1枚が10シリングという手法は原価計算をきちっとしているとは思えず無理があったようだ。
この手法が50万枚の膨大な植物標本を残すことになったが、プリングルの経済的困窮・貧困からは抜け出せなかった。しかし、プリングルにとって40社の顧客を満足させる植物標本を提供することはそれほど難しくなかったようだ。
(写真)メキシコの鉄道網
(出典)ウイキペディア
幻の花だったティグリディア
プリングルは、美しい花を集めたことでも群を抜いていて、バーモント大学にはプリングルのコレクションがあり、バーモント及びメキシコの植物標本が展示されている。
その中には、当時の園芸市場で人気があった植物も採取されていて、プリングルは蘭・タイガーフラワー(tiger flower)と呼ばれるアヤメ科の花、ティグリディア(Tigridia)を園芸市場にも供給して収入を得ていたようだ。
アヤメ科ティグリディア属(Tigridia)の花は、花弁の中心に茶色の斑点、虎斑(とらふ)が入ることから虎を意味するラテン語のtigrisから名づけられ、和名では“トラユリ”と呼ばれる。
メキシコ原産のこの花は、征服者のスペイン人にも注目されていて、彼らが実物を見る前から“Tigridis flos”として知られていたほど憧れの花だった。この花を最初に見て記述したのはスペインのフィリップ二世から1570年にメキシコに薬用植物の調査で派遣されたエルナンデス(Hernández, Francisco (1517-1587)だった。
エルナンデスは、ティグリディアの美しい姿をアステカ人の庭で見た。この花は、一日花だが球根は食糧・薬ともなるので栽培品種として育てられていたのだ。
園芸市場への導入はスペインではなくイギリスから始まったようで、18世紀の後半にメキシコからもたらされ、リバプールの近くのエバートンの地主Ellis Hodgsonが育て球根を分けることで広めたようだ。
珍しい植物を紹介することで園芸市場の大衆化を促進した園芸雑誌、カーティス(Curtis, William 1746-1799)のボタニカルマガジンにもティグリディアが1801年に取り上げられているので、この直前頃にイギリスに入ったことが裏付けられる。
(イラスト) Tigridia pavonia
(出典)Curtis Botanical magazine Vol. 15 (1801) [532]
(写真)実際のTigridia pavonia
(出典) Mnogoletnik foto
プリングルは、ヨーロッパで、そしてアメリカで人気がある蘭とかティグリディアなどの生きている花卉植物をも園芸市場に供給した。もちろん好きな植物の採取活動をするための生きんがための行為だった。
彼は、メキシコは採取尽くしたのか次は南米に行く予定でいたが、1911年5月25日に肺炎を患い73歳で他界した。プリングルは、メキシコの美しい花を発見・採取したことで我々にときめきを与えてくれた。
次回は、
プリングルのサルビアのコレクションも素晴らしいといわれている。
No18:プリングルが採取したメキシコのサルビア
プリングルの貧困とスポンサー
プリングルは膨大な植物標本を採取しているが、これは、経済的な危機と無縁ではないようだ。ハーバード大学植物学教授のグレーが亡くなってからのプリングルは、常に経済的な危機に陥っていた。
これをカバーするために新たなスポンサーとしてアメリカの製薬会社2社(イーライリリー及びパーク・デイヴィス)、メキシコの国立医学研究財団などと契約をした。
パーク・デイヴィス社は、現在はファイザーに買収されているが新薬開発で臨床実験を組織的にした世界初の企業として歴史に名を残している。19世紀末から製薬会社がプラントハンターのスポンサーとして登場したことは注目に値する。
プリングルにとってはこれだけで十分でなく、米国・英国などの植物園・博物館など40社に植物標本1シートを10セントという安い料金で提供するビジネスも行った。
どんなところに供給したかを見ると、スミソニアン協会、ニューヨーク植物園、ミズリー植物園、カリフォルニア科学アカデミー、英国博物館、キュー植物園、エジンバラ植物園などであり、これまでプラントハンターを派遣した主要なスポンサーでもある。
貧困から編み出された手法かもわからないが、これまでのプラントハンターを支えていたのは困難な時間に見合った報酬とその活動費という拘束時間とプロセスに基づいていたが、1シート10セントという成果報酬型にいきなり切り替えてしまい、プラントハンターのビジネス破壊を行った感がある。
プリングルが活動した時代は、鉄道のネットワークが拡大していく時代であり、米国では、1830年代に蒸気機関車の運行が始められ、路線が充実し馬車や川蒸気に取って代わったのが1900年前後の数十年間がその全盛期というから、まさにプリングルの時代に重なる。
一方メキシコの場合は、1873年にメキシコシティ - ベラクルス間 419 km が列強資本によって建設されたのを始まりとし、1908年にはいくつかの私鉄を買収する形でメキシコ国鉄が発足したという。
プリングルのメキシコ探検旅行は、シャーロットから汽車に乗ることから始まる。この新たな移動手段・メディアが出現したので、かつてのプラントハンターの報酬・価格が低下せざるをえなかったのだろう。
単独でのスポンサーで全ての経費をまかなうのが難しい場合は複数のスポンサーに広げるのは当然の理であるが、植物標本1枚が10シリングという手法は原価計算をきちっとしているとは思えず無理があったようだ。
この手法が50万枚の膨大な植物標本を残すことになったが、プリングルの経済的困窮・貧困からは抜け出せなかった。しかし、プリングルにとって40社の顧客を満足させる植物標本を提供することはそれほど難しくなかったようだ。
(写真)メキシコの鉄道網
(出典)ウイキペディア
幻の花だったティグリディア
プリングルは、美しい花を集めたことでも群を抜いていて、バーモント大学にはプリングルのコレクションがあり、バーモント及びメキシコの植物標本が展示されている。
その中には、当時の園芸市場で人気があった植物も採取されていて、プリングルは蘭・タイガーフラワー(tiger flower)と呼ばれるアヤメ科の花、ティグリディア(Tigridia)を園芸市場にも供給して収入を得ていたようだ。
アヤメ科ティグリディア属(Tigridia)の花は、花弁の中心に茶色の斑点、虎斑(とらふ)が入ることから虎を意味するラテン語のtigrisから名づけられ、和名では“トラユリ”と呼ばれる。
メキシコ原産のこの花は、征服者のスペイン人にも注目されていて、彼らが実物を見る前から“Tigridis flos”として知られていたほど憧れの花だった。この花を最初に見て記述したのはスペインのフィリップ二世から1570年にメキシコに薬用植物の調査で派遣されたエルナンデス(Hernández, Francisco (1517-1587)だった。
エルナンデスは、ティグリディアの美しい姿をアステカ人の庭で見た。この花は、一日花だが球根は食糧・薬ともなるので栽培品種として育てられていたのだ。
園芸市場への導入はスペインではなくイギリスから始まったようで、18世紀の後半にメキシコからもたらされ、リバプールの近くのエバートンの地主Ellis Hodgsonが育て球根を分けることで広めたようだ。
珍しい植物を紹介することで園芸市場の大衆化を促進した園芸雑誌、カーティス(Curtis, William 1746-1799)のボタニカルマガジンにもティグリディアが1801年に取り上げられているので、この直前頃にイギリスに入ったことが裏付けられる。
(イラスト) Tigridia pavonia
(出典)Curtis Botanical magazine Vol. 15 (1801) [532]
(写真)実際のTigridia pavonia
(出典) Mnogoletnik foto
プリングルは、ヨーロッパで、そしてアメリカで人気がある蘭とかティグリディアなどの生きている花卉植物をも園芸市場に供給した。もちろん好きな植物の採取活動をするための生きんがための行為だった。
彼は、メキシコは採取尽くしたのか次は南米に行く予定でいたが、1911年5月25日に肺炎を患い73歳で他界した。プリングルは、メキシコの美しい花を発見・採取したことで我々にときめきを与えてくれた。
次回は、
プリングルのサルビアのコレクションも素晴らしいといわれている。
No18:プリングルが採取したメキシコのサルビア