(写真)ジャノメエリカの花
エリカ属の大原産地は南アフリカのケープ地方だが、「ジャノメエリカ(Erica canaliculata Andrews)」を採取したコレクターを調べると、イギリスの初期のプラントハンター4名登場する。
その簡単な物語を年代順にまとめてみる。
コレクター1:マッソン(Masson, Francis 1741-1805)
(写真)フランシス・マッソン
南アフリカ・ケープ地方のゼラニューム、エリカ(ヒース)などの植物をイギリスに持ち込み、そして、ヨーロッパに広めたのはフランシス・マッソンに拠るところが大きい。
キュー植物園が年俸100ポンドを支出して南アフリカ・ケープ植民地に派遣したのは1772年のことであり、世界の珍しい植物を集めるプラントハンター第一号がマッソンだった。
マッソンに関しては、これまでに記載したモノがあるので最下部にリンクを記載!
コレクター2:ニーヴン(Niven, (David) James 1774-1826)
ニーヴンは、英国王立エジンバラ庭園の庭師・プラントハンターで、スコットランドのPenicuick 植物園で働いていた1798年に南アフリカ・ケープ地方に植物探索に出かけ、ニーヴンは5年間そこに滞在し多数のエリカなどを採取し本国のスポンサーに送った。
彼を支援したスポンサーは、英国東インド会社で財を形成したヒバート(Hibbert , George 1757-1837)であり、趣味の庭造りと植物学のために多くのプラントハンターを支援した。彼は特に南アフリカ・ケープ地方、オーストラリア、ジャマイカの植物に興味があった。
ニーヴン第二回のケープ地方への植物探索旅行は、1803-1812年に実施されスポンサーはジョセフィーヌであった。新種のプロテアはこの旅で発見された。
ジョセフィーヌは、バラだけでなくヒース(エリカ属)をも集めたが、その入手方法は、
英国の育種商“リー&ケネディ商会”とジョセフィーヌなどが出資してファンドを組み、ニーヴンの活動費を支援した。投資に応じてニーヴンが採取した植物の種・球根・苗木などを受け取るが、ジョセフィーヌのマルメゾン庭園はこうしてヒースが増えていった。
コレクター3:ロッジーズ(Loddiges, George 1784-1846)
(写真)"Erica muscosoides" by 「The Botanical Cabinet」
"Erica muscosoides" engraved by George Cooke, published in The Botanical Cabinet by Conrad Loddiges & Sons, 1823
ロッジーズは、ロンドン郊外のハックニーにドイツから移住した父親が作った小さな保育園を経営する庭師で、18~19世紀に世界の珍しい植物を集めて育てて販売しヨーロッパでもラン・ヤシ・シダなどでは有数なナーサリーに育てる。
彼のユニークな点は、科学的なアプローチに関心を持ち、ラン・ヤシなどの熱帯植物を育てるための巨大な温室をつくるとか、オーストラリアからの植物を生きたままで運搬するための“ウォードの箱(Wardian Case)”を使うなど最先端の科学技術を駆使した。この“ウォードの箱”はなかなかの優れもので、長時間の航海での植物へのダメージを軽減し、枯れ死させることなく運搬できるようになったという。珍しい植物を採取するプラントハンターが果せない生きたままで本国に届けるという役割外のことを見事に果したという。
また、ナーサリーのコレクションを精緻な版画で描いたカタログ雑誌“The Botanical Cabinet”を1817-1833年の間で発刊し、園芸の大衆化に寄与した。
この雑誌には、南アフリカ原産のエリカ属のヒースが多数描かれており、ヒースの普及にも一役買っている。
コレクター4:カニンガム(Cunningham, Allan 1792-1839)
エリカの採取はオーストラリアでの1種類だけだが、カニンガムは、マッソンに始ったバンクス卿が海外に送り出したプラントハンターの最後となる。
カニンガムは、1814年にキュー植物園の同僚ジェームズ・ボウイ(1789‐1869)とともに南アメリカの植物探索を命じられてリオ・デ・ジャネイロに到着した。
このブラジルでの植物探索は成果がなかったようであり、1816年にはカニンガムはオーストラリアに、ボウイは南アフリカでの植物探索を命じられた。
シドニーに1816年12月20日に到着したカニンガムは、オーストラリアの探険家で知られるイギリス人のオクスリー(Oxley ,John Joseph William Molesworth 1785-1828)の1817年の探検に加わり、450種もの標本を集めることが出来きプラントハンターとして成長していく。
カニンガムは、オーストラリア・ニュージランド探検を終え1831年に英国に帰国したが、彼を送り出したバンクス卿は1820年に亡くなっていた。
バンクス卿の死とともにキュー植物園の活動は低下し、海外に派遣したプラントハンターは呼び戻されるとか、給与のカットがなされたようであり、カニンガムも厳しい10年であったようだ。
カニンガムは1837年にオーストラリア政府の植物学担当として戻ってきたが、仕事が役人達が食べる野菜作りであったので翌年辞任したという。やっていられないという気持ちは良くわかる。
(写真)ジャノメエリカの花
プラントハンターが登場した背景
草花が少ないイギリスが園芸大国になったのは、18世紀の産業革命により経済的な基盤が強化され富裕層が出現したという時代背景があるが、これだけでは園芸の大衆化が進まない。世界の珍しい植物を集めたいというイギリスの知識階級をリードするバンクス卿、それを支える研究機関としてのキュー植物園、園芸の産業化を進めるナーサリーと呼ばれる育種商、世界の植物を集める冒険家としてのプラントハンター、これを船で輸送する技術とネットワークとしての東インド会社、そして大衆化を推進する園芸情報としてのボタニカルマガジン。これを支える植物学の知識を有するライターと植物画を描くアーティスト。さらには植物マニアが集うサロンとしての園芸協会。これらが18世紀以降のイギリスで開花した。
未開拓地で危険と飢餓に苦しみながら生命をかけて植物を採取するプラントハンターの背後には、これを支える裾野が広い仕組みが形成されつつあり、珍しい・美しい花を愛でたいという人間或いは社会の欲望を満たしはじめている。
しかし、冒険家、探検家だけではプラントハンターになれない。さらに植物の知識と栽培の技術がなければ冒険家・探険家で終わってしまう。
江戸時代に日本に来た大植物学者ツンベルクとキュー植物園のプラントハンター第一号のマッソンは、南アフリカのケープ植民地で遭遇し1772年から3年間ここに滞在した。一緒に植物探索の旅もしたが、学者を目指すツンベルクは採取した植物を乾燥させ数多くの標本を作るが、マッソンにとっては標本は死んだ植物であり価値も意味もない。
採取した植物の苗木・球根・種が、長時間の輸送に耐え、本国の土壌で再生する確率をいかに高めるかまでをプラントハンターが考え行動するようであり、似ているようで冒険家・探検家・学者とは異なるようだ。
フロンティアが消滅した現在、プラントハンターは消えてしまった職業となったが、心ときめかせるロマンが我々現代人に消えずに残っている。
安全が保証されないフィールドは命がけだからこそ真剣に生きるが、キュー植物園が送り出したプラントハンター達は、何のために旅したのだろうか?
名誉・お金・地位、或いは、好奇心なのだろうか?
或いは彼らプラントハンターを未開拓地に送り出したバンクス卿の“お褒め”なのだろうか?
マッソンにしろ初期のプラントハンターは非業の死を遂げていることを踏まえると、現世のご利益を求めているようではない。ひょっとしたら、バンクス卿の志のために彼らプラントハンター達が生きたような気がする。
ということは、“フロンティアは消滅していない”ということになりそうだ。ヒトはヒトのために生きその志に報いる。ということになりそうだ。
ヒトがいて志がある限りフロンティアは健在だ。
う~ん。気づくのが遅すぎたきらいもあるが、気をつけよう私も!
(参考)フランシス・マッソン掲載原稿(シリーズ:ときめきの植物雑学ノート)
その50:喜望峰④マッソンとバンクス卿
その51:喜望峰⑤ケープの植物相とマッソン
その54:喜望峰⑧ツンベルクとの出会い
その70:喜望峰⑭ マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ
その52:喜望峰⑥極楽鳥花
その53:喜望峰⑦ソテツ
その55:喜望峰⑨エリカ
その56:喜望峰⑩イキシア
エリカ属の大原産地は南アフリカのケープ地方だが、「ジャノメエリカ(Erica canaliculata Andrews)」を採取したコレクターを調べると、イギリスの初期のプラントハンター4名登場する。
その簡単な物語を年代順にまとめてみる。
コレクター1:マッソン(Masson, Francis 1741-1805)
(写真)フランシス・マッソン
南アフリカ・ケープ地方のゼラニューム、エリカ(ヒース)などの植物をイギリスに持ち込み、そして、ヨーロッパに広めたのはフランシス・マッソンに拠るところが大きい。
キュー植物園が年俸100ポンドを支出して南アフリカ・ケープ植民地に派遣したのは1772年のことであり、世界の珍しい植物を集めるプラントハンター第一号がマッソンだった。
マッソンに関しては、これまでに記載したモノがあるので最下部にリンクを記載!
コレクター2:ニーヴン(Niven, (David) James 1774-1826)
ニーヴンは、英国王立エジンバラ庭園の庭師・プラントハンターで、スコットランドのPenicuick 植物園で働いていた1798年に南アフリカ・ケープ地方に植物探索に出かけ、ニーヴンは5年間そこに滞在し多数のエリカなどを採取し本国のスポンサーに送った。
彼を支援したスポンサーは、英国東インド会社で財を形成したヒバート(Hibbert , George 1757-1837)であり、趣味の庭造りと植物学のために多くのプラントハンターを支援した。彼は特に南アフリカ・ケープ地方、オーストラリア、ジャマイカの植物に興味があった。
ニーヴン第二回のケープ地方への植物探索旅行は、1803-1812年に実施されスポンサーはジョセフィーヌであった。新種のプロテアはこの旅で発見された。
ジョセフィーヌは、バラだけでなくヒース(エリカ属)をも集めたが、その入手方法は、
英国の育種商“リー&ケネディ商会”とジョセフィーヌなどが出資してファンドを組み、ニーヴンの活動費を支援した。投資に応じてニーヴンが採取した植物の種・球根・苗木などを受け取るが、ジョセフィーヌのマルメゾン庭園はこうしてヒースが増えていった。
コレクター3:ロッジーズ(Loddiges, George 1784-1846)
(写真)"Erica muscosoides" by 「The Botanical Cabinet」
"Erica muscosoides" engraved by George Cooke, published in The Botanical Cabinet by Conrad Loddiges & Sons, 1823
ロッジーズは、ロンドン郊外のハックニーにドイツから移住した父親が作った小さな保育園を経営する庭師で、18~19世紀に世界の珍しい植物を集めて育てて販売しヨーロッパでもラン・ヤシ・シダなどでは有数なナーサリーに育てる。
彼のユニークな点は、科学的なアプローチに関心を持ち、ラン・ヤシなどの熱帯植物を育てるための巨大な温室をつくるとか、オーストラリアからの植物を生きたままで運搬するための“ウォードの箱(Wardian Case)”を使うなど最先端の科学技術を駆使した。この“ウォードの箱”はなかなかの優れもので、長時間の航海での植物へのダメージを軽減し、枯れ死させることなく運搬できるようになったという。珍しい植物を採取するプラントハンターが果せない生きたままで本国に届けるという役割外のことを見事に果したという。
また、ナーサリーのコレクションを精緻な版画で描いたカタログ雑誌“The Botanical Cabinet”を1817-1833年の間で発刊し、園芸の大衆化に寄与した。
この雑誌には、南アフリカ原産のエリカ属のヒースが多数描かれており、ヒースの普及にも一役買っている。
コレクター4:カニンガム(Cunningham, Allan 1792-1839)
エリカの採取はオーストラリアでの1種類だけだが、カニンガムは、マッソンに始ったバンクス卿が海外に送り出したプラントハンターの最後となる。
カニンガムは、1814年にキュー植物園の同僚ジェームズ・ボウイ(1789‐1869)とともに南アメリカの植物探索を命じられてリオ・デ・ジャネイロに到着した。
このブラジルでの植物探索は成果がなかったようであり、1816年にはカニンガムはオーストラリアに、ボウイは南アフリカでの植物探索を命じられた。
シドニーに1816年12月20日に到着したカニンガムは、オーストラリアの探険家で知られるイギリス人のオクスリー(Oxley ,John Joseph William Molesworth 1785-1828)の1817年の探検に加わり、450種もの標本を集めることが出来きプラントハンターとして成長していく。
カニンガムは、オーストラリア・ニュージランド探検を終え1831年に英国に帰国したが、彼を送り出したバンクス卿は1820年に亡くなっていた。
バンクス卿の死とともにキュー植物園の活動は低下し、海外に派遣したプラントハンターは呼び戻されるとか、給与のカットがなされたようであり、カニンガムも厳しい10年であったようだ。
カニンガムは1837年にオーストラリア政府の植物学担当として戻ってきたが、仕事が役人達が食べる野菜作りであったので翌年辞任したという。やっていられないという気持ちは良くわかる。
(写真)ジャノメエリカの花
プラントハンターが登場した背景
草花が少ないイギリスが園芸大国になったのは、18世紀の産業革命により経済的な基盤が強化され富裕層が出現したという時代背景があるが、これだけでは園芸の大衆化が進まない。世界の珍しい植物を集めたいというイギリスの知識階級をリードするバンクス卿、それを支える研究機関としてのキュー植物園、園芸の産業化を進めるナーサリーと呼ばれる育種商、世界の植物を集める冒険家としてのプラントハンター、これを船で輸送する技術とネットワークとしての東インド会社、そして大衆化を推進する園芸情報としてのボタニカルマガジン。これを支える植物学の知識を有するライターと植物画を描くアーティスト。さらには植物マニアが集うサロンとしての園芸協会。これらが18世紀以降のイギリスで開花した。
未開拓地で危険と飢餓に苦しみながら生命をかけて植物を採取するプラントハンターの背後には、これを支える裾野が広い仕組みが形成されつつあり、珍しい・美しい花を愛でたいという人間或いは社会の欲望を満たしはじめている。
しかし、冒険家、探検家だけではプラントハンターになれない。さらに植物の知識と栽培の技術がなければ冒険家・探険家で終わってしまう。
江戸時代に日本に来た大植物学者ツンベルクとキュー植物園のプラントハンター第一号のマッソンは、南アフリカのケープ植民地で遭遇し1772年から3年間ここに滞在した。一緒に植物探索の旅もしたが、学者を目指すツンベルクは採取した植物を乾燥させ数多くの標本を作るが、マッソンにとっては標本は死んだ植物であり価値も意味もない。
採取した植物の苗木・球根・種が、長時間の輸送に耐え、本国の土壌で再生する確率をいかに高めるかまでをプラントハンターが考え行動するようであり、似ているようで冒険家・探検家・学者とは異なるようだ。
フロンティアが消滅した現在、プラントハンターは消えてしまった職業となったが、心ときめかせるロマンが我々現代人に消えずに残っている。
安全が保証されないフィールドは命がけだからこそ真剣に生きるが、キュー植物園が送り出したプラントハンター達は、何のために旅したのだろうか?
名誉・お金・地位、或いは、好奇心なのだろうか?
或いは彼らプラントハンターを未開拓地に送り出したバンクス卿の“お褒め”なのだろうか?
マッソンにしろ初期のプラントハンターは非業の死を遂げていることを踏まえると、現世のご利益を求めているようではない。ひょっとしたら、バンクス卿の志のために彼らプラントハンター達が生きたような気がする。
ということは、“フロンティアは消滅していない”ということになりそうだ。ヒトはヒトのために生きその志に報いる。ということになりそうだ。
ヒトがいて志がある限りフロンティアは健在だ。
う~ん。気づくのが遅すぎたきらいもあるが、気をつけよう私も!
(参考)フランシス・マッソン掲載原稿(シリーズ:ときめきの植物雑学ノート)
その50:喜望峰④マッソンとバンクス卿
その51:喜望峰⑤ケープの植物相とマッソン
その54:喜望峰⑧ツンベルクとの出会い
その70:喜望峰⑭ マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ
その52:喜望峰⑥極楽鳥花
その53:喜望峰⑦ソテツ
その55:喜望峰⑨エリカ
その56:喜望峰⑩イキシア