フェルメールは手紙を題材とした絵を6点描いている。今回の5番目「恋文」と6番目「手紙を書く婦人と召使」の絵画は、きしくも1970年代に盗難にあった絵だった。
5.恋文 The Loveletter
(出典) mystudios.com
・制作年代:1669〜1670年頃
・技法:カンヴァス、油彩
・サイズ:44×38cm
・所蔵:アムステルダム国立美術館(レイクスミュージアムRijksmuseum)
フェルメール作の「恋文(The Loveletter)」は、1971年にブリュッセルで行われていた展覧会で盗難にあった。こともあろうことか額縁からナイフで切り取って盗み、これを丸めてズボンに隠して逃走し、ホテルのベットの枕の下に隠し持っていたという。
さぞかしよい夢を見ただろうと思わないこともないが、絵画泥棒としてはど素人としか思えない犯行手口であり、数少ないフェルメールの貴重な絵に相当なダメージを与えた。
どんな人間がこのような荒っぽいことをやれるのかといえば、犯人は、バングラディッシュとして独立した東パキスタンの内戦を支援する若いベルギー人で、ベルギーとオランダ政府が2億ベルギーフランを拠出しバングラディッシュ難民のための反飢餓キャンペーンを行えば絵を返すというイデオロギーが動機にあった。
宗教・イデオロギーでの抗争は本当に怖い。
歴史的な価値を否定し破壊することにためらいがないだけに何も残らないようになる。
しかし、「恋文」は大きなダメージを受けたが無事に戻ってきた。
修復に相当な時間がかかったようだが、四隅を切り取られ小さなサイズになっても成立する構図だったのが不幸中の幸いだったかもしれない。
1970年代ともなればフェルメールの作品の値段は高騰し、高いがゆえに盗難の対象となったが、この「恋文」は盗んでみたい欲望をそそるものがある。
フェルメールはカメラオブキュラス(写真機の原点)を使って絵を描いたが、この「恋文」は、望遠鏡を使ったのではないだろうかと言われている。
手前のカーテンの入り口から見える奥の光景を覗き見している感覚があり、禁断の欲望を刺激するものがある。
花魁の飾り窓、オランダの飾り窓、風俗の除き部屋、現代のショウウインドウなど手前が暗く奥に輝く光が欲望を刺激する。
(写真)メイド(左) 愛人(右)
さて、フェルメールが“覗かせたかった”モノは何だったのだろうか?
リュートではなくシターン(Cittern)で演奏をしていた女性に背後からメイドが手紙を持ってきた。主人を振り向かせるような行為をするメイドには、この手紙をもたらすことで立場優位を作ろうとする意思があったのだろう。
怪訝な顔で振り返る女性に対し、メイドはしたり顔で笑っている。
我が国では、このような役割をする人を“やり手婆”と言い、その場限りの男女の一夜愛を仲介する。このメイドもそんな役割を果たしていたのだろう。
一方、主人である女性の立場は背後にある絵画と、暗くてよく見えないカーテンの下あたりにあるスリッパ、モップなどに暗示されているようで、留守を守る愛人が海外で活動している恋人からのよい兆候の手紙を受け取ったと言われている。
ただ、無造作なスリッパとモップは、音楽は楽しむが家事は苦手なようで主婦に適していない。そんな女性像を示しているようだ。
いまや日本の何処にでも垣間見る風景で違和感はないが、趣味的な知的水準の違いがありそうだ。
それにしても、この「恋文」はフェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675)らしくない。同時代のピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch、1629-1684)の影響があるといわれる。
デ・ホーホには、“戸口越しの眺め”といわれる開いた戸口から眺められる光景を描いた新しい絵画技法がある。今で言えばデ・ホーホが開発した専売特許というものに当たるのだろうが、その技法をまねているのが「恋文」になる。
6.手紙を書く婦人と召使 Lady writing a letter with her maid
(出典) mystudios.com
・制作年代:1670年頃
・技法:カンヴァス、油彩
・サイズ:71.1×60.5cm
・所蔵:ダブリン、アイルランド国立絵画館
「手紙を書く婦人と召使」は、アイルランドのラズボローハウス(Russborough House)で二度盗難にあっている。警備の甘い個人の豪邸だったために4回も泥棒に襲われており、1987年に所有者のバイト(Sir Alfred Beit, 2nd Baronet)からアイルランド国立絵画館に寄贈された。経緯は後述する。
この絵は、妙に緊張感がある。
一心不乱に手紙をしたためている女性と、その後ろで書き上がる手紙を待つメイドが両腕を組み、窓の外に視線をむけている。
「恋文」とは異なる主人とメイドの信頼関係が感じられるが、一体この二人は何を考えているのだろうかという“間”に緊張感があるのだろう。
謎解きの鍵は、二人の背後にある絵にありそうだ。
この絵は、ヘブライ人が増えることを危惧したエジプトの王が、新生児の男子を殺すことを命じたので、誕生したモーゼを助けるために、かごに入れナイル川に流した。このモーゼを発見したという話を描いたもので、Pieter de Grebberの「Finding of Moses」(1834年)を描いたようだ。
(写真)「Finding of Moses」
Finding of Moses
Pieter de Grebber
1634
170 x 229 cm
Gemäldegalerie, Dresden
(出典)Web Gallery of Art
※クリック後の画面で画家「Pieter de Grebber」を選択・クリック、→ 表示された作品から作品「Finding of Moses」(戻るときは左上のバックボタンで戻る。)
モーゼは後にヘブライ人を引き連れ安住の地を求めてエジプトを出国するので、一心不乱の女主人に対して、メイドの視線は外の世界に向き、多難な恋の行方を透視しているのだろうかなと思ってしまう。
(写真)メイドと婦人の拡大
二人を拡大してみると、それぞれ自分の幸せしか考えていないという気がしないでもないが、“なごみ”を感じる。
最初に感じた“妙な緊張感”は、二人の立つ位置と視線が交わっていない構図にあることに気づく。
叱責や怒られる時に、真正面に立つのではなく、右利きの人から叱責される場合は、その人の左斜め45度に立てと先輩に教えられたが、立つ位置と視線はコミュニケーションにとって重要となる。
そして手紙は、書き手の“気持ち”を切り取り、シンボライズして読み手に伝えるメディアであり、意のままに読み手を操ることが出来れば最高の効果を発揮するのだろう。
その時、妨害の情報が入らないようにすることが重要で、第三者に中身を読まれないようにする必要がある。蝋で封印し花押を押すなどは、郵便の初期の目的が為政者が下々の動向をキャッチするために開封して読んだという歴史があるためで、通信の傍受、暗号の解析など現代でも変わらない。
今より命がけだった時代の“恋”“不倫”は、手紙の守秘性を保つためのメイドの存在が重要であり、手紙(=コンテンツ)、メイド(=流通媒体)という関係であり仲間或いは一体でなければ邪魔をされるということになる。
内緒の話を広めたい時は信頼できない人に、“内緒の話だけど”“君だけにしか話さないけど”という枕詞をつければ、瞬く間に広まるので、今も昔も変わらない人間の性(サガ)なのだろう。
フェルメールはメイドをいれた絵を3点描いているが、メイドにどのような思いをもち描いたのだろうか改めて見ると面白い。
【来 歴】
デルフトのパン屋 Hendrick van Buyten (1632 -1701)は、フェルメールに600ギルダーを融資し、その担保としてフェルメールの絵を幾つか所有していたという。この証言は、フランスの外交官・冒険家Balthasar de Monconys (1611–1665) が1663年8月にフェルメールと会っただけでなくパン屋のブイテンから聞き取ったというメモによる。フェルメールはモンコニィに見せるべき絵を持っていない状態であり、竹の子の皮を取り去り身を切るような生活をしていたことが伺える。この時のモンコニィの印象では、600ギルダーは多すぎてその10分の1の60ギルダーが妥当ではないかと思ったようで、写実的な絵画の良さとフェルメールの価値がわからなかったようだ。
1675年にフェルメールが死亡して未亡人となったCatharina Bolnesは、パン代を含めた借金を返済する代わりに二つの絵をパン屋のブイテンに譲渡したことを公証人役場で認めた。
パン屋に渡った二つの絵が、1670-1672年に制作した「The guitar player」そして「Lady writing a letter with her maid」だった。
借金を返済すれば二つの絵は返すという約束で年に50ギルダーずつ返済したが、フェルメールの未亡人に絵は戻らなかったので完済は出来なかったようだ。
この「Lady writing a letter with her maid」は、1700年代の初め頃にパン屋のブイテンからロッテルダムの市長などを務めたJos(h)ua van Belle (1637-1710)に渡り、1734年にはハーグの市長などを務め絵画コレクターでもあったHendrick van Slingelandt(1702-1759)一族にわたるなど資産家コレクターを転々とする。
1895年からはロンドンの資産家であるAlfred Beit (1853 –1906)及びその一族に「Lady writing a letter with her maid」が渡る。バイトは、南アフリカでの金・ダイヤモンドなどの鉱山事業で財を作り、セシル・ローズに資金を提供もし、デ・ビアスの生涯理事として経営にも関わった。
世界のダイヤモンドの生産・販売を牛耳るデ・ビアス(De Beers)は、イギリスの帝国主義を推進した政治家セシル・ローズ(Cecil John Rhodes、1853-1902)などが1888年に南アフリカに設立した会社で、ローデシアは彼の名前を冠するほどこの地で帝国を構築した。
セシル・ローズ、バイトとも50歳前後で死亡するが、アフリカのナポレオンと称されたセシル・ローズは不遇な死を迎えたのに対し、バイト・ファミリーは美術史に名を残すほど富を継承した。
南アフリカでの鉱山事業で巨万の富を作ったバイト家の三代目であるSir Alfred Lane Beit, 2nd Baronet (1903–1994)は、二代目の父親の死で1930年にフェルメール、ゴヤ、ルーベンスなどの多数の絵画と巨額の財産を引き継ぎ、1945年の総選挙で自身も下院議員を落選し労働党政権が誕生したのをきっかけに南アフリカに移住したが、アパルトヘイト政策の残酷さに幻滅し、1952年にアイルランド、ダブリンの近くにあるラズボローハウス(Russborough House)を購入し移住した。
(出典) Russborough House
1974年4月26日、このラズボローハウスに1人の女と3人の男性が侵入し、主人のアルフレッド・バイトはピストルで殴られ婦人とともに縛られ、その目の前でドライバーで額縁から絵画を切り取り、この邸宅にあるフェルメール(「Lady writing a letter with her maid」)、ルーベンス、ゴヤの絵画を含む19の絵画が持ち去られた。被害総額800万ポンドと見積もられた。
犯人はアイルランドの独立を主張するIRA(アイルランド共和軍)のメンバーで、前年の1973年3月8日にロンドンの裁判所の車を爆破する事件で逮捕されたプライス姉妹(Dolours Price and Marian Price)のアイルランド送還と釈放及び50万ポンドの身代金と交換に盗んだ絵を返すと言って来た。
犯罪者の要求に屈しないというのが英国魂であり当然要求を拒否し、全国的な捜査を行い、5月4日というから犯行から8日後に、犯人の一人である女性が借りた借家を急襲し車のトランクからバスローブに包まれた絵画を発見回収した。
この女性Bridget Rose Dugdale (1941- )は、英国の大富豪の娘でロンドン大学で経済学博士を取得している才媛だが、借家から足がついたので実務に弱かったのだろう。
9年の罪で投獄された。
ラズボローハウスは、これまでに4回も美術品強盗に襲われている。ガードが甘いという評価が泥棒に浸透したのか、本当にガードが甘かったのかどちらかだろう。
フェルメールの「Lady writing a letter with her maid」は、1986年に2回目の盗難にあっている。
1970年代の盗難はイデオロギー的だったが、1980年代ともなると美術コレクターのための単なる泥棒となり金儲けが目的となる。
そして盗難の結果、フェルメールの絵の値段は上がったが、面積は小さくなり、維持管理の難しさもわかり、1987年にダブリンのアイルランド国立絵画館に寄贈され、1993年に修復が終了した。
5.恋文 The Loveletter
(出典) mystudios.com
・制作年代:1669〜1670年頃
・技法:カンヴァス、油彩
・サイズ:44×38cm
・所蔵:アムステルダム国立美術館(レイクスミュージアムRijksmuseum)
フェルメール作の「恋文(The Loveletter)」は、1971年にブリュッセルで行われていた展覧会で盗難にあった。こともあろうことか額縁からナイフで切り取って盗み、これを丸めてズボンに隠して逃走し、ホテルのベットの枕の下に隠し持っていたという。
さぞかしよい夢を見ただろうと思わないこともないが、絵画泥棒としてはど素人としか思えない犯行手口であり、数少ないフェルメールの貴重な絵に相当なダメージを与えた。
どんな人間がこのような荒っぽいことをやれるのかといえば、犯人は、バングラディッシュとして独立した東パキスタンの内戦を支援する若いベルギー人で、ベルギーとオランダ政府が2億ベルギーフランを拠出しバングラディッシュ難民のための反飢餓キャンペーンを行えば絵を返すというイデオロギーが動機にあった。
宗教・イデオロギーでの抗争は本当に怖い。
歴史的な価値を否定し破壊することにためらいがないだけに何も残らないようになる。
しかし、「恋文」は大きなダメージを受けたが無事に戻ってきた。
修復に相当な時間がかかったようだが、四隅を切り取られ小さなサイズになっても成立する構図だったのが不幸中の幸いだったかもしれない。
1970年代ともなればフェルメールの作品の値段は高騰し、高いがゆえに盗難の対象となったが、この「恋文」は盗んでみたい欲望をそそるものがある。
フェルメールはカメラオブキュラス(写真機の原点)を使って絵を描いたが、この「恋文」は、望遠鏡を使ったのではないだろうかと言われている。
手前のカーテンの入り口から見える奥の光景を覗き見している感覚があり、禁断の欲望を刺激するものがある。
花魁の飾り窓、オランダの飾り窓、風俗の除き部屋、現代のショウウインドウなど手前が暗く奥に輝く光が欲望を刺激する。
(写真)メイド(左) 愛人(右)
さて、フェルメールが“覗かせたかった”モノは何だったのだろうか?
リュートではなくシターン(Cittern)で演奏をしていた女性に背後からメイドが手紙を持ってきた。主人を振り向かせるような行為をするメイドには、この手紙をもたらすことで立場優位を作ろうとする意思があったのだろう。
怪訝な顔で振り返る女性に対し、メイドはしたり顔で笑っている。
我が国では、このような役割をする人を“やり手婆”と言い、その場限りの男女の一夜愛を仲介する。このメイドもそんな役割を果たしていたのだろう。
一方、主人である女性の立場は背後にある絵画と、暗くてよく見えないカーテンの下あたりにあるスリッパ、モップなどに暗示されているようで、留守を守る愛人が海外で活動している恋人からのよい兆候の手紙を受け取ったと言われている。
ただ、無造作なスリッパとモップは、音楽は楽しむが家事は苦手なようで主婦に適していない。そんな女性像を示しているようだ。
いまや日本の何処にでも垣間見る風景で違和感はないが、趣味的な知的水準の違いがありそうだ。
それにしても、この「恋文」はフェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675)らしくない。同時代のピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch、1629-1684)の影響があるといわれる。
デ・ホーホには、“戸口越しの眺め”といわれる開いた戸口から眺められる光景を描いた新しい絵画技法がある。今で言えばデ・ホーホが開発した専売特許というものに当たるのだろうが、その技法をまねているのが「恋文」になる。
6.手紙を書く婦人と召使 Lady writing a letter with her maid
(出典) mystudios.com
・制作年代:1670年頃
・技法:カンヴァス、油彩
・サイズ:71.1×60.5cm
・所蔵:ダブリン、アイルランド国立絵画館
「手紙を書く婦人と召使」は、アイルランドのラズボローハウス(Russborough House)で二度盗難にあっている。警備の甘い個人の豪邸だったために4回も泥棒に襲われており、1987年に所有者のバイト(Sir Alfred Beit, 2nd Baronet)からアイルランド国立絵画館に寄贈された。経緯は後述する。
この絵は、妙に緊張感がある。
一心不乱に手紙をしたためている女性と、その後ろで書き上がる手紙を待つメイドが両腕を組み、窓の外に視線をむけている。
「恋文」とは異なる主人とメイドの信頼関係が感じられるが、一体この二人は何を考えているのだろうかという“間”に緊張感があるのだろう。
謎解きの鍵は、二人の背後にある絵にありそうだ。
この絵は、ヘブライ人が増えることを危惧したエジプトの王が、新生児の男子を殺すことを命じたので、誕生したモーゼを助けるために、かごに入れナイル川に流した。このモーゼを発見したという話を描いたもので、Pieter de Grebberの「Finding of Moses」(1834年)を描いたようだ。
(写真)「Finding of Moses」
Finding of Moses
Pieter de Grebber
1634
170 x 229 cm
Gemäldegalerie, Dresden
(出典)Web Gallery of Art
※クリック後の画面で画家「Pieter de Grebber」を選択・クリック、→ 表示された作品から作品「Finding of Moses」(戻るときは左上のバックボタンで戻る。)
モーゼは後にヘブライ人を引き連れ安住の地を求めてエジプトを出国するので、一心不乱の女主人に対して、メイドの視線は外の世界に向き、多難な恋の行方を透視しているのだろうかなと思ってしまう。
(写真)メイドと婦人の拡大
二人を拡大してみると、それぞれ自分の幸せしか考えていないという気がしないでもないが、“なごみ”を感じる。
最初に感じた“妙な緊張感”は、二人の立つ位置と視線が交わっていない構図にあることに気づく。
叱責や怒られる時に、真正面に立つのではなく、右利きの人から叱責される場合は、その人の左斜め45度に立てと先輩に教えられたが、立つ位置と視線はコミュニケーションにとって重要となる。
そして手紙は、書き手の“気持ち”を切り取り、シンボライズして読み手に伝えるメディアであり、意のままに読み手を操ることが出来れば最高の効果を発揮するのだろう。
その時、妨害の情報が入らないようにすることが重要で、第三者に中身を読まれないようにする必要がある。蝋で封印し花押を押すなどは、郵便の初期の目的が為政者が下々の動向をキャッチするために開封して読んだという歴史があるためで、通信の傍受、暗号の解析など現代でも変わらない。
今より命がけだった時代の“恋”“不倫”は、手紙の守秘性を保つためのメイドの存在が重要であり、手紙(=コンテンツ)、メイド(=流通媒体)という関係であり仲間或いは一体でなければ邪魔をされるということになる。
内緒の話を広めたい時は信頼できない人に、“内緒の話だけど”“君だけにしか話さないけど”という枕詞をつければ、瞬く間に広まるので、今も昔も変わらない人間の性(サガ)なのだろう。
フェルメールはメイドをいれた絵を3点描いているが、メイドにどのような思いをもち描いたのだろうか改めて見ると面白い。
【来 歴】
デルフトのパン屋 Hendrick van Buyten (1632 -1701)は、フェルメールに600ギルダーを融資し、その担保としてフェルメールの絵を幾つか所有していたという。この証言は、フランスの外交官・冒険家Balthasar de Monconys (1611–1665) が1663年8月にフェルメールと会っただけでなくパン屋のブイテンから聞き取ったというメモによる。フェルメールはモンコニィに見せるべき絵を持っていない状態であり、竹の子の皮を取り去り身を切るような生活をしていたことが伺える。この時のモンコニィの印象では、600ギルダーは多すぎてその10分の1の60ギルダーが妥当ではないかと思ったようで、写実的な絵画の良さとフェルメールの価値がわからなかったようだ。
1675年にフェルメールが死亡して未亡人となったCatharina Bolnesは、パン代を含めた借金を返済する代わりに二つの絵をパン屋のブイテンに譲渡したことを公証人役場で認めた。
パン屋に渡った二つの絵が、1670-1672年に制作した「The guitar player」そして「Lady writing a letter with her maid」だった。
借金を返済すれば二つの絵は返すという約束で年に50ギルダーずつ返済したが、フェルメールの未亡人に絵は戻らなかったので完済は出来なかったようだ。
この「Lady writing a letter with her maid」は、1700年代の初め頃にパン屋のブイテンからロッテルダムの市長などを務めたJos(h)ua van Belle (1637-1710)に渡り、1734年にはハーグの市長などを務め絵画コレクターでもあったHendrick van Slingelandt(1702-1759)一族にわたるなど資産家コレクターを転々とする。
1895年からはロンドンの資産家であるAlfred Beit (1853 –1906)及びその一族に「Lady writing a letter with her maid」が渡る。バイトは、南アフリカでの金・ダイヤモンドなどの鉱山事業で財を作り、セシル・ローズに資金を提供もし、デ・ビアスの生涯理事として経営にも関わった。
世界のダイヤモンドの生産・販売を牛耳るデ・ビアス(De Beers)は、イギリスの帝国主義を推進した政治家セシル・ローズ(Cecil John Rhodes、1853-1902)などが1888年に南アフリカに設立した会社で、ローデシアは彼の名前を冠するほどこの地で帝国を構築した。
セシル・ローズ、バイトとも50歳前後で死亡するが、アフリカのナポレオンと称されたセシル・ローズは不遇な死を迎えたのに対し、バイト・ファミリーは美術史に名を残すほど富を継承した。
南アフリカでの鉱山事業で巨万の富を作ったバイト家の三代目であるSir Alfred Lane Beit, 2nd Baronet (1903–1994)は、二代目の父親の死で1930年にフェルメール、ゴヤ、ルーベンスなどの多数の絵画と巨額の財産を引き継ぎ、1945年の総選挙で自身も下院議員を落選し労働党政権が誕生したのをきっかけに南アフリカに移住したが、アパルトヘイト政策の残酷さに幻滅し、1952年にアイルランド、ダブリンの近くにあるラズボローハウス(Russborough House)を購入し移住した。
(出典) Russborough House
1974年4月26日、このラズボローハウスに1人の女と3人の男性が侵入し、主人のアルフレッド・バイトはピストルで殴られ婦人とともに縛られ、その目の前でドライバーで額縁から絵画を切り取り、この邸宅にあるフェルメール(「Lady writing a letter with her maid」)、ルーベンス、ゴヤの絵画を含む19の絵画が持ち去られた。被害総額800万ポンドと見積もられた。
犯人はアイルランドの独立を主張するIRA(アイルランド共和軍)のメンバーで、前年の1973年3月8日にロンドンの裁判所の車を爆破する事件で逮捕されたプライス姉妹(Dolours Price and Marian Price)のアイルランド送還と釈放及び50万ポンドの身代金と交換に盗んだ絵を返すと言って来た。
犯罪者の要求に屈しないというのが英国魂であり当然要求を拒否し、全国的な捜査を行い、5月4日というから犯行から8日後に、犯人の一人である女性が借りた借家を急襲し車のトランクからバスローブに包まれた絵画を発見回収した。
この女性Bridget Rose Dugdale (1941- )は、英国の大富豪の娘でロンドン大学で経済学博士を取得している才媛だが、借家から足がついたので実務に弱かったのだろう。
9年の罪で投獄された。
ラズボローハウスは、これまでに4回も美術品強盗に襲われている。ガードが甘いという評価が泥棒に浸透したのか、本当にガードが甘かったのかどちらかだろう。
フェルメールの「Lady writing a letter with her maid」は、1986年に2回目の盗難にあっている。
1970年代の盗難はイデオロギー的だったが、1980年代ともなると美術コレクターのための単なる泥棒となり金儲けが目的となる。
そして盗難の結果、フェルメールの絵の値段は上がったが、面積は小さくなり、維持管理の難しさもわかり、1987年にダブリンのアイルランド国立絵画館に寄贈され、1993年に修復が終了した。