『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)』
カリブ海の海賊を“パイレーツ・カリビアン”というが、
2007年5月に公開された『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)』及び
12月に発売されたDVDは、ともに従来の記録を塗り替える人気で、
興行収入・DVD販売額とも新記録だったようだ。
マイナスが多きいものほど刺激が強く、これがプラスに転換するのだろうか?
或いは、略奪という行為は、スカッとする爽快感があるからだろうか?
私もこの映画を楽しんで見てしまった。
この、カリブ海の海賊(Pirates)を生み出したのは、スペインである。
かつてポルトガルから学習したことを、フランス・イギリスなどから挑戦をうけているのだが、
海賊が快適に暮らせる、安全で収益性が高い環境を提供したのがスペインだった。
(地図)カリブ海の島々とエスパニョーラ島
スペインが支配した島々の悲劇
海賊が快適に暮らせるその1は“安全性”だが、
エスパニョーラ島は、コロンブスが到着した島で、新世界最初の植民地がここにつくられた。
最初の町は、イサベラ女王を讃えヌエバ・イサベラと命名されたが、
ハリケーンで破壊され、島の対岸にサント・ドミンゴをつくった。
きっとこのあたりから呪われていたのかもわからないが、
コロンブスと同行し、唯一残っている航海日誌の著者であるラスカサス神父(Las Casas, 1484-1566年)は、
島には人が「巣に群がる蜂のようにひしめき合って暮らしていた」と書き記し、
1492年のエスパニョーラ島の人口を、少なくとも300万人と推定している。
(ヨーロッパの学者は、1桁少ない20~30万人という人口説を唱えているようだが、
この当時の食糧生産から見て300万人は生存可能のようだ。)
1500年初めにこの島で砂金が見つかりゴールドラッシュで湧いた。
当然労動力として島のインディオが酷使され、
また、ヨーロッパから持ってきた病原菌で次々と倒れていき、
金が枯渇した1518年には島のインディオの人口は1万人になり、
わずか20年で壊滅状態までに至った。
1501年に総督となったオバンドは、植民地政策の基本となるエンコミエンダ(encomienda)を実施したが、
先住民を奴隷として酷使する制度となり、また彼が築いたスペイン人の15の町は、
1605年にはすべて放棄され、人口はサント・ドミンゴ周辺に集められ、
カリブ海諸島の大部分は、野生植物に覆われ、野生の犬、豚、馬、牛などの生息する僻地となってしまった。
人がいない、海賊が休息・生活する場を提供してしまった。
海賊ビジネスの高収益性
カリブ海の島々は、16世紀半ばからヨーロッパ各国の海賊・密輸船が横行する場所になってしまった。
1577年には、エリザベス女王が、カリブ海での私略船(海賊行為)に財政支援を与えることとなり、
公然とスペインに対抗するまでになった。
何故かというと、
海賊行為は、ハイリスクだがハイリターンでありやめられない。ということだ。
イギリス人の有名な海賊ドレイクは、1577年12月世界一周の海賊航海にプリマス港を出港した。
彼の航海からリターンの大きさをつかんでみると・・・・
マゼラン海峡を超えたドレイクは、チリーバルバライソを襲撃、ポトシ銀山からの銀の積み出し港アリカを襲撃、
エクアドルのサンフランシスコ岬沖合で財宝を満載したカカフェゴ号を捕獲、グアテマラの港町グアタルコを襲撃、
サンフランシスコ北方のドレイク湾に到達.ニュー・アルビオンと名付けイギリス領を宣言。
1580年年9月 ドレイクは3年にわたる世界一周を終え帰還。
英国の国庫収入を上回る60万ポンドを持ち帰り財政建て直しに貢献した。
海賊は繁栄したが、先住民の遺伝子は残らなかった
海賊ビジネスは、
英国の財政基盤を強化し、スペインの無敵艦隊を破り大西洋を支配する原動力となるが、
カリブ海にはスペインに帰還する金・銀などを乗せた船を襲う、パイレーツ(海賊)が
フランス、イギリスの後押しを受け増殖し残った。
また、
エスパニョーラ島の現在は、西側1/3がハイチ共和国、東側2/3がドミニカ共和国で、
人口計1648万人となるが、その大部分はアフリカからつれてこられた奴隷の子孫であり、
インディオの遺伝子は伝わっていないというから信じられないことが現実に起こった。
カリブ海の海賊を“パイレーツ・カリビアン”というが、
2007年5月に公開された『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)』及び
12月に発売されたDVDは、ともに従来の記録を塗り替える人気で、
興行収入・DVD販売額とも新記録だったようだ。
マイナスが多きいものほど刺激が強く、これがプラスに転換するのだろうか?
或いは、略奪という行為は、スカッとする爽快感があるからだろうか?
私もこの映画を楽しんで見てしまった。
この、カリブ海の海賊(Pirates)を生み出したのは、スペインである。
かつてポルトガルから学習したことを、フランス・イギリスなどから挑戦をうけているのだが、
海賊が快適に暮らせる、安全で収益性が高い環境を提供したのがスペインだった。
(地図)カリブ海の島々とエスパニョーラ島
スペインが支配した島々の悲劇
海賊が快適に暮らせるその1は“安全性”だが、
エスパニョーラ島は、コロンブスが到着した島で、新世界最初の植民地がここにつくられた。
最初の町は、イサベラ女王を讃えヌエバ・イサベラと命名されたが、
ハリケーンで破壊され、島の対岸にサント・ドミンゴをつくった。
きっとこのあたりから呪われていたのかもわからないが、
コロンブスと同行し、唯一残っている航海日誌の著者であるラスカサス神父(Las Casas, 1484-1566年)は、
島には人が「巣に群がる蜂のようにひしめき合って暮らしていた」と書き記し、
1492年のエスパニョーラ島の人口を、少なくとも300万人と推定している。
(ヨーロッパの学者は、1桁少ない20~30万人という人口説を唱えているようだが、
この当時の食糧生産から見て300万人は生存可能のようだ。)
1500年初めにこの島で砂金が見つかりゴールドラッシュで湧いた。
当然労動力として島のインディオが酷使され、
また、ヨーロッパから持ってきた病原菌で次々と倒れていき、
金が枯渇した1518年には島のインディオの人口は1万人になり、
わずか20年で壊滅状態までに至った。
1501年に総督となったオバンドは、植民地政策の基本となるエンコミエンダ(encomienda)を実施したが、
先住民を奴隷として酷使する制度となり、また彼が築いたスペイン人の15の町は、
1605年にはすべて放棄され、人口はサント・ドミンゴ周辺に集められ、
カリブ海諸島の大部分は、野生植物に覆われ、野生の犬、豚、馬、牛などの生息する僻地となってしまった。
人がいない、海賊が休息・生活する場を提供してしまった。
海賊ビジネスの高収益性
カリブ海の島々は、16世紀半ばからヨーロッパ各国の海賊・密輸船が横行する場所になってしまった。
1577年には、エリザベス女王が、カリブ海での私略船(海賊行為)に財政支援を与えることとなり、
公然とスペインに対抗するまでになった。
何故かというと、
海賊行為は、ハイリスクだがハイリターンでありやめられない。ということだ。
イギリス人の有名な海賊ドレイクは、1577年12月世界一周の海賊航海にプリマス港を出港した。
彼の航海からリターンの大きさをつかんでみると・・・・
マゼラン海峡を超えたドレイクは、チリーバルバライソを襲撃、ポトシ銀山からの銀の積み出し港アリカを襲撃、
エクアドルのサンフランシスコ岬沖合で財宝を満載したカカフェゴ号を捕獲、グアテマラの港町グアタルコを襲撃、
サンフランシスコ北方のドレイク湾に到達.ニュー・アルビオンと名付けイギリス領を宣言。
1580年年9月 ドレイクは3年にわたる世界一周を終え帰還。
英国の国庫収入を上回る60万ポンドを持ち帰り財政建て直しに貢献した。
海賊は繁栄したが、先住民の遺伝子は残らなかった
海賊ビジネスは、
英国の財政基盤を強化し、スペインの無敵艦隊を破り大西洋を支配する原動力となるが、
カリブ海にはスペインに帰還する金・銀などを乗せた船を襲う、パイレーツ(海賊)が
フランス、イギリスの後押しを受け増殖し残った。
また、
エスパニョーラ島の現在は、西側1/3がハイチ共和国、東側2/3がドミニカ共和国で、
人口計1648万人となるが、その大部分はアフリカからつれてこられた奴隷の子孫であり、
インディオの遺伝子は伝わっていないというから信じられないことが現実に起こった。