英国のプラントハンター、フランシス・マッソン(Masson, Francis 1741-1805) 、フランスのプラントハンター、アンドレー・ミッショー(Andre Michaux 1746-1802) は、18世紀末に活躍したプラントハンターであり、この二人の足跡をたどっているうちにプラントハンターというものに興味を持つようになった。
ここでは、過去に書いた原稿をリンクで取りまとめてみた。
プラントハンターが登場した背景
草花が少ないイギリスが園芸大国になったのは、18世紀の産業革命により経済的な基盤が強化され富裕層が出現したという時代背景があるが、これだけでは園芸の大衆化が進まない。世界の珍しい植物を集めたいというイギリスの知識階級をリードするバンクス卿、それを支える研究機関としてのキュー植物園、園芸の産業化を進めるナーサリーと呼ばれる育種商、世界の植物を集める冒険家としてのプラントハンター、ウォードの箱を初めとした植物を船で輸送する技術と世界をネットワークした東インド会社、そして大衆化を推進する園芸情報としてのボタニカルマガジン、これを支える植物学の知識を有するライターと植物画を描くアーティスト。さらには植物マニアが集うサロンとしての園芸協会。これらが18世紀以降のイギリスで開花した。
未開拓地で危険と飢餓に苦しみながら生命をかけて植物を採取するプラントハンターの背後には、これを支える裾野が広い仕組みが形成されつつあり、珍しい・美しい花を愛でたいという人間或いは社会の欲望を満たしはじめている。
しかし、冒険家、探検家ではプラントハンターになれない。さらに植物の知識と栽培の技術がなければ冒険家・探険家で終わってしまう。
江戸時代に日本に来た大植物学者ツンベルクとキュー植物園のプラントハンター第一号のマッソンは、南アフリカのケープ植民地で遭遇し1772年から3年間ここに滞在した。一緒に植物探索の旅もしたが、学者を目指すツンベルクは採取した植物を乾燥させ数多くの標本を作るが、マッソンにとっては標本は死んだ植物であり価値も意味もない。
採取した植物の苗木・球根・種が、長時間の輸送に耐え、本国の土壌で再生する確率をいかに高めるかまでをプラントハンターが考え行動するようであり、似ているようで冒険家・探検家・学者とは異なるようだ。
フロンティアが消滅した現在、プラントハンターは消えてしまった職業となったが、心ときめかせるロマンが我々現代人に消えずに残っている。
安全が保証されないフィールドは命がけだからこそ真剣に生きるが、キュー植物園が或いは、国家が送り出したプラントハンター達は、何のために旅したのだろうか?
名誉・お金・地位、或いは、好奇心なのだろうか?
或いは彼らプラントハンターを未開拓地に送り出したバンクス卿の“お褒め”なのだろうか?
マッソンにしろ初期のプラントハンターは非業の死を遂げていることを踏まえると、現世のご利益を求めているようではない。ひょっとしたら、バンクス卿の志のために彼らプラントハンター達が生きたような気がする。
ということは、“フロンティアは消滅していない”ということになりそうだ。ヒトはヒトのために生きその志に報いる。ということになりそうだ。
ヒトがいて志がある限りフロンティアは健在だ。
パート1:
フランシス・マッソン(Masson, Francis 1741-1805)
南アフリカ・ケープ地方のゼラニューム、エリカ(ヒース)などの植物をイギリスに持ち込み、そして、ヨーロッパに広めたのはフランシス・マッソンに拠るところが大きい。
キュー植物園が年俸100ポンドを支出して南アフリカ・ケープ植民地に派遣したのは1772年のことであり、世界の珍しい植物を集めるキューガーデンのプラントハンター第一号がマッソンだった。
1.1770年頃の喜望峰の描写
2.フランシス・マッソンとバンクス卿
3.ケープの植物相とマッソン
4.マッソンが採取し世界を魅了した植物。==極楽鳥花
5.マッソンが採取し、キューを魅了した植物。==ソテツ
6.マッソンのプラントハンティングの旅==ツンベルクとの出会い
7.マッソンが採取した植物。==エリカ
8.マッソンが採取した植物。==イキシア(Ixia)
9.南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No1
10.南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No2 -Final
11.マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ
パート2:
アンドレー・ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)
フランス革命の直前1785年に、ルイ16世から王室の植物学者に任命され、さらにフランスにとって有用な植物を収集するために米国植物探索を命じられた。
ミッショーは、1785年11月にニューヨクに到着し1796年にフランスに戻るためにアメリカを去った。この間に、ミシシッピー川流域を初めとしたプレーリー地帯を探索している。ミッショーがアメリカからフランスに旅立ったその1年後の1797年にマッソンがニューヨークに到着した。
1.マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー
2.星空で野営する清貧なプラントハンター
3.ミッショーのプラントハンティング
4.ミッショーのプラントハンティング費用の謎
5.ミッショーがアメリカに持って来た植物の謎解き
6.マッソンとミッショー 二人の関係
7.フランスのプラントハンター ミッショーのその後
ここでは、過去に書いた原稿をリンクで取りまとめてみた。
プラントハンターが登場した背景
草花が少ないイギリスが園芸大国になったのは、18世紀の産業革命により経済的な基盤が強化され富裕層が出現したという時代背景があるが、これだけでは園芸の大衆化が進まない。世界の珍しい植物を集めたいというイギリスの知識階級をリードするバンクス卿、それを支える研究機関としてのキュー植物園、園芸の産業化を進めるナーサリーと呼ばれる育種商、世界の植物を集める冒険家としてのプラントハンター、ウォードの箱を初めとした植物を船で輸送する技術と世界をネットワークした東インド会社、そして大衆化を推進する園芸情報としてのボタニカルマガジン、これを支える植物学の知識を有するライターと植物画を描くアーティスト。さらには植物マニアが集うサロンとしての園芸協会。これらが18世紀以降のイギリスで開花した。
未開拓地で危険と飢餓に苦しみながら生命をかけて植物を採取するプラントハンターの背後には、これを支える裾野が広い仕組みが形成されつつあり、珍しい・美しい花を愛でたいという人間或いは社会の欲望を満たしはじめている。
しかし、冒険家、探検家ではプラントハンターになれない。さらに植物の知識と栽培の技術がなければ冒険家・探険家で終わってしまう。
江戸時代に日本に来た大植物学者ツンベルクとキュー植物園のプラントハンター第一号のマッソンは、南アフリカのケープ植民地で遭遇し1772年から3年間ここに滞在した。一緒に植物探索の旅もしたが、学者を目指すツンベルクは採取した植物を乾燥させ数多くの標本を作るが、マッソンにとっては標本は死んだ植物であり価値も意味もない。
採取した植物の苗木・球根・種が、長時間の輸送に耐え、本国の土壌で再生する確率をいかに高めるかまでをプラントハンターが考え行動するようであり、似ているようで冒険家・探検家・学者とは異なるようだ。
フロンティアが消滅した現在、プラントハンターは消えてしまった職業となったが、心ときめかせるロマンが我々現代人に消えずに残っている。
安全が保証されないフィールドは命がけだからこそ真剣に生きるが、キュー植物園が或いは、国家が送り出したプラントハンター達は、何のために旅したのだろうか?
名誉・お金・地位、或いは、好奇心なのだろうか?
或いは彼らプラントハンターを未開拓地に送り出したバンクス卿の“お褒め”なのだろうか?
マッソンにしろ初期のプラントハンターは非業の死を遂げていることを踏まえると、現世のご利益を求めているようではない。ひょっとしたら、バンクス卿の志のために彼らプラントハンター達が生きたような気がする。
ということは、“フロンティアは消滅していない”ということになりそうだ。ヒトはヒトのために生きその志に報いる。ということになりそうだ。
ヒトがいて志がある限りフロンティアは健在だ。
パート1:
フランシス・マッソン(Masson, Francis 1741-1805)
南アフリカ・ケープ地方のゼラニューム、エリカ(ヒース)などの植物をイギリスに持ち込み、そして、ヨーロッパに広めたのはフランシス・マッソンに拠るところが大きい。
キュー植物園が年俸100ポンドを支出して南アフリカ・ケープ植民地に派遣したのは1772年のことであり、世界の珍しい植物を集めるキューガーデンのプラントハンター第一号がマッソンだった。
1.1770年頃の喜望峰の描写
2.フランシス・マッソンとバンクス卿
3.ケープの植物相とマッソン
4.マッソンが採取し世界を魅了した植物。==極楽鳥花
5.マッソンが採取し、キューを魅了した植物。==ソテツ
6.マッソンのプラントハンティングの旅==ツンベルクとの出会い
7.マッソンが採取した植物。==エリカ
8.マッソンが採取した植物。==イキシア(Ixia)
9.南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No1
10.南アフリカからの贈り物 ゼラニウム物語 No2 -Final
11.マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ
パート2:
アンドレー・ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)
フランス革命の直前1785年に、ルイ16世から王室の植物学者に任命され、さらにフランスにとって有用な植物を収集するために米国植物探索を命じられた。
ミッショーは、1785年11月にニューヨクに到着し1796年にフランスに戻るためにアメリカを去った。この間に、ミシシッピー川流域を初めとしたプレーリー地帯を探索している。ミッショーがアメリカからフランスに旅立ったその1年後の1797年にマッソンがニューヨークに到着した。
1.マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー
2.星空で野営する清貧なプラントハンター
3.ミッショーのプラントハンティング
4.ミッショーのプラントハンティング費用の謎
5.ミッショーがアメリカに持って来た植物の謎解き
6.マッソンとミッショー 二人の関係
7.フランスのプラントハンター ミッショーのその後