モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

エルサレムセージ(Jerusalem sage)の花

2017-05-29 19:09:38 | セージ&サルビア
(写真)Phlomis fruticosa(エルサレムセージ)の花


待ち望んでいたエルサレムセージがやっと咲いた。
この花は、持ち歩いているためにボロボロになった山と渓谷社のポケットブック『ハーブ』の中で手に入れようと思っていた一品でこの10年来気になっていた。
2年前に閉店セールを行っていたハーブショップで、灰緑色の葉が隅のほうで“私をつれて行って!”とばかりに輝いて見えた。これがエルサレムセージだった。

昨年は開花しなかったので“おや! 2年草かな?”と思ったが、そうではなかった。多年草というよりは株丈1mにもなる小潅木だった。1年目は開花準備に株を整えることにエネルギーを使い、翌年開花するという代物だった。
鉢植えの場合は丈をコントロールできるが、地植えの場合は場所を選ぶ必要がありそうだ。

灰緑色で銀に縁取りされた葉と、ハーブ図鑑ではカナリア色に見えた花色が抜群に良かったが、実際の花色は色見本と較べると“菜の花色”のようだ。

黄色の花では、夜咲く「イブニングプリムローズ」の色合いも良いが、エルサレムセージのようにちょっとバターが入った洋食系的な色彩も良いかなと思った。

栽培方法としては、原産地が、サルジーニャ島、クレタ島、キプロス島等の島々及びギリシャ、トルコ等の地中海周辺地域となるので乾燥気味に育て、カット・挿し木で増やす。暑さには強いが、湿気・寒さには弱いので梅雨と冬場は対策をする。

エルサレム・セージ(Jerusalem sage)の再発見者“シーバー(Sieber)”

学名フロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)は、1753年にリンネによって命名された。それ以前は、エルサレム・セージ(Jerusalem sage)として呼ばれており、これは、1548年に英国の植物学の父と言われるターナ(William Turner1508-1568)の著作物によっても確認されている。

属名Phlomisは、紀元1世紀のディオスコリデス(Pedanius Dioscorides c. 40 – 90 AD)の頃から使用され、葉がランプの芯に利用されたので“炎”を意味する。
種小名fruticosa はラテン語で“低木状の”を意味する“shrubby”から来ている。

というように、学名からも何故エルサレム・セージと呼ばれたのかは良く分からないが、

このエルサレム・セージは、2013年に英国王立園芸協会が優れた品種を表彰するAward of Garden Merit賞を受賞している。
つい最近の受賞だが、英国では400年以上も前の1600年代には背丈が高く黄色の花を咲かせるエルサレム・セージが経験豊かな庭師によって庭園で栽培されてきたという。
アルプス以南の植物を寒冷地英国で育てるには技術が必要な時代だったので当然なことだろう。

地中海周辺が原産地の植物は、最初の採取者が分かりにくい。
リンネがエルサレム・セージにフロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)と学名をつけた1753年以降にこの花を採取した気になるプラントハンターがいた。

(写真)Sieber, Franz Wilhelm 1789-1844


プラハ生まれのプラントハンターで博物学者でもあるシーバー(Sieber, Franz Wilhelm 1789-1844)だ。

彼は、いつ及び何処でエルサレム・セージを採取したか不明だが、リンネ以降の学名に『Phlomis fruticosa Sieber ex C.Presl(1822)』として命名者に登録されていた。
これは、同郷の後輩プレッスル(Presl, Carl Boriwag 1794‐1852)が、シーバーが既に命名していたが発表していないので代わって1822年に命名したことを意味する。
つまり、1822年以前にシーバーが地中海周辺のところに旅して、エルサレム・セージを採取したことを知っていたことを示している。

プラントハンティングの新時代を作ったシーバー

Franz Wilhelm Sieber (1789 – 1844)は、1789年というからフランス革命の年に現在のチェコ共和国プラハで生まれた。
このフランス革命は、ハプスブルク家が統治する隣国オーストリア帝国の支配下にあり、弾圧と搾取がされてきたチェコ人の民族復興運動に火をつけた。
しかしこの思いが実現するのはソ連共産圏が崩壊した後の1993年のチェコ共和国の誕生まで200年以上も待たなければならなかった。

シーバーはこんな社会・政治環境の中で成長し、グラフィックアートの才能に恵まれ最初は建築を学びエンジニアを志したが、最終的には植物学に軸足を置いたプラントハンタービジネスを展開する。

シーバーのユニークなところは、採取国・地域ごとに特定のプラントハンターと契約し、珍しい植物・動物・鉱物等の供給体制を構築したところにある。そして、それら全てを“Sieber”ブランドで統一して販売したので、数多くの標本が世界の植物園・標本館・ミュージアム等に流れ込んだ。

販売方法は、同郷の先輩植物学者で古生物学の父といわれるシュテルンベルク(Sternberg, Caspar Graf 1761-1838)から教えられた方法を採用した。
“Centuria(世紀)”とネーミングした植物などのカタログを100セット作製し、顧客の注文をとるという販売方式だった。

シーバーは、1811~1812年にオーストリアとイタリアの調査旅行をしていて、この販売方法は、1813年ボヘミアの植物標本の販売で始まり、シーバーの活動領域がボヘミアから地中海世界(1816~1818年クレタ島・エジプト・イスラエル探検)、アフリカ・オーストラリア(1822~1825年、南アフリカ・モーリシャス・マダガスカル・オーストラリア)へとプラントハンティングの世界が広がるにつれてプラントハンターとのネットワークも広がっていった。

シーバーのクレタ島 調査・探検旅行

最初は、彼が22歳の時の1811年~1812年にオーストリア及びイタリアを旅し、1816~1818年にはクレタ島、エジプト、パレスチナを旅した。

(地図)イタリア北東部の港町トリエステ、クレタ島、エルサレム

どんな旅をしたかをクレタ島旅行で垣間見ると、
1816年12月シーバーは、従者と庭師フランツ・コウォート(Franz Kohaut ?~1822年)の3人でイタリア北東部、スロベニアと国境を接する港町トリエステ(Trieste)を出発しクレタ島に向かった。

(地図)クレタ島での拠点


翌年1817年1月にオスマントルコ人が支配するクレタ島に到着した。
現在の州都イラクリオン(Heraklion)で疲れを休め、ガイドを雇い島内唯一の交通手段、ロバにまたがり島内を旅行した。
この当時のクレタ島はヨーロッパ社会にとって情報鎖国の国であり、ヨーロッパの科学者がクレタを訪問し調査したのは、1700年4月にフランスの医者で植物学者のトゥルヌフォール(Joseph Pitton de Tournefort、1656-1708)が訪問以来久しぶりのようだ。

トゥルヌフォールは、リンネ以前に植物の体系を考えた科学者で、植物を草と木に分け、それぞれを花の形でさらに分けるという体系を提案したえらい学者だが、フランス国王ルイ14世の出資によりディオスコリデスが紀元1世紀に書いた「De Materia Medica libriquinque(薬物誌)」の現在を調査し、地中海沿岸での有用な植物を発見・収集するためにクレタ島などを探検した。

シーバー達はこのトゥルヌフォール達の目的同様に、有用な薬用植物の調査・採取及び現在の学問で言えば“文化人類学”的なクレタ島の文化と人々の暮らしに興味を持ち調査を行った。
トゥルヌフォールの調査でも明らかになったが、科学進歩が停滞した中世ヨーロッパならいざ知らず、
アメリカ大陸・オセアニア大陸などを発見し新世界が開けた1700年では、ディオスコリデスの「薬物誌」のリニューアルに期待した地中海世界の再調査は失望する結果となった。
ましてや1817年のシーバーとなると新しい薬草の発見はなかったのだろう。

シーバーは、1823年にドイツ語でクレタ島の旅行記を出版したが、植物の記載は少なかったが、エルサレム・セージ(Jerusalem sage)の採取は、原産地でもあるこのクレタ島での旅行の時なのだろう。

(写真)真上から見たエルサレム・セージ


シーバーのプラントハンティングの変遷

地中海沿岸国の探検旅行だったここまでは、資産家の若者が学問で身を立てるための冒険旅行という感じだが、この後の探検旅行から激変する。

シーバーは、庭師フランツ・コウォート(Franz Kohaut ?~1822年)を、1816~1818年クレタ島・エジプト・イスラエル探検に同行させ、1819~1822年のカリブ海のマルティニク島では、プラントハンターとしてシーバーのために働かせた。
ここで集めた植物標本にはきちんとフランツ・コウォートにお金を払い、“Herbarium Martinicense”として販売した。
ここではまだ“Sieber”ブランドは登場していないので、身近な庭師としてのフランツ・コウォートへの配慮があったのだろう?

1822年からは一気に世界展開が始まる。
カリブ海のトリニダード・トバゴ島でFranz Wrbna がプラントハンティングを行い、
アフリカ大陸最西端にあるセネガルでは、フランツ・コウォートの他に新しいプラントハンターのAndreas Döllinger及びJ・Schmidtの三人が取り掛かったが、フランツ・コウォートは仕事が完了する前にここで亡くなった。
一方、シーバーはインド洋上にあるアフリカに属する島、モーリシャスにゼーハー(Zeyher, Karl Ludwig Philipp 1799-1858) と1822年8月に旅立った。
ゼーハーは10歳年下だが、シーバーがクレタ島に出発する1816年に、現在のオペラフアンなら行ってみたいシュヴェツィンゲン音楽祭が開催されるドイツ西南部の都市の庭園で出会い、
“急成長している産業である自然史標本の収集と販売を目指してパートナーシップ”を交わしたという。

しかし、ゼーハーは南アフリカ、ケープタウンで途中下車をし、ケープタウンでプラントハンティングをすることになった。

シーバーは、マダガスカル、モーリシャス及びオーストラリアに向かい、
オーストラリア、ポートジャクソンに1823年6月1日に到着し、7ヶ月間プラントハンティングを行い645本の現地の植物を採取した。
シーバーは1824年4月にケープタウンに戻り、ゼーハーが採取した植物相が豊かな南アフリカの植物標本を受け取り、支払いを約束したが、空約束でシーバーからは支払いが全く無かった。
未来を共有したパートナーシップはこの現実で破綻してしまった。

プラントハンティングビジネスの変遷とシーバー

シーバーは1822~1824年に世界一周旅行にステップアップし、ここからプラントハンターの元締め業という新しいビジネス形態に踏み込む。

①これまでは博物館・植物園・美術館など国が運営資金を提供しているところ、ナーサリー・庭園・造園業などの私企業、億万長者が個人の庭園を飾る植物収集等で、プラントハンターを雇い、派遣する形だった。(雇い主1→プラントハンター1)

②費用が巨額になるに従い、雇い主が複数になり成果物である植物標本・種子・現物などをシェアーする形態が出てきた。(雇い主複数→プラントハンター1)

③そして、この逆の形態も出現した。つまり、プロのプラントハンターが見本・カタログ・メニュー等を作りそれに値段をつけて注文をとるという形態になる。(植物標本などの購入者複数←プラントハンター1)

④シーバーが編み出したのは、プラントハンターをプロデュースする機関が(シーバー、Sieber)プラントハンターの給与・経費を支払うためのマーチャンダイジングを行い、顧客と顧客の新たなニーズを創造するという近代の商業的手法だった。

英国・オランダ・フランス等の園芸大国は、美しい・珍しい植物にスポンサーと大口の投資があったが、ボヘミア(チェコ)ではお金が集まらなかったのだろう。
そこで小口の資金を数多くのスポンサーから集めるために顧客の多様なニーズに答え、プラントハンターを様々な地域で活動させることにたどり着いたのだろう。
しかし、支払いがされないという現実でこの素晴らしい考えが崩壊した。

ヨーロッパの辺境国出身のシーバーは世界のひのき舞台に登場するために無理を重ねて生きてきたのだろう。晩年は 14年間精神障害に苦しみ55歳でプラハ精神病院で亡くなった。

(写真)エルサレムセージの立ち姿(丈:40cmメールぐらい)


エルサレムセージ(Jerusalem sage)の花
・シソ科フロミス(和名オオキセワタ)属の耐寒性が弱い小潅木、挿し木で増やす。
・学名:フロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)。1753年にリンネ(Carl Linnaeus 1707-1778)が命名する。
・1822年に学名は同じだが命名者が異なる名前が公表されている。Phlomis fruticosa Sieber ex C.Presl(1822)意味としては“1822年以前にSieberが何らかの理由があり発表していないのでC.Preslが公表する”となる。
・コモンネームは、エルサレムセージ(Jerusalem sage)。セージのような葉と匂いがあるがセージ(サルビア属)の仲間ではない。
・原産地:サルデーニャ島、クレタ島、キプロス島、ギリシャ、イタリア、トルコ等の地中海沿岸が原産地。
・株丈は、90-120cm、横にも広がる。鉢の場合40~60cm程度で抑えられる。
・葉は灰緑色で銀色に縁取られ、綿毛で覆われる。
・開花期は春から夏、黄色の花が咲く。
・1年目は茎・葉が成長するのみで、開花は2年目からとなる。
・暑さには強いが耐寒性は弱いので冬場は霜に当てないようにする。
・乾燥した日当たりの良い場所を好む。
・ドライフラワー、ポプリに適している。
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フランネル・フラワー‘エンジェルスター’(Actinotus helianthi ‘Angel Star’)の花

2017-05-02 19:23:08 | その他のハーブ
(写真)アクティノータス・ヘリアンティ‘エンジェルスター’


アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi)は、葉や茎に細かい毛が密生し、手触りが優しくフランネルの生地のような感触があるということで「フランネル・フラワー(flannel flower)」と呼ばれる。

同様な手触りが優しい葉の感触から「フランネルソウ」と呼ばれるモノがあるが、これは南欧原産で日本には1850年頃中国から入ってきたスイセンノウ(Lychnis coronaria/酔仙翁)で別種となる。

アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi)は、オーストラリア、シドニー市があるニューサウスウェールズ州沿岸の砂岩等がある荒野が原産地で、
こんな荒野・ヒースランドに草丈30~50cm、細かい毛が密生していて切れ込みがある灰緑色の葉、そして7~12㎝の大柄な白色の花が咲き乱れている光景を想像するに、さぞや美しいだろうな~と思う。
その美しさは、原色の鮮やかさではなく、艶消しされた下の写真のような光景なのだろう。

(写真)ニューサウスウェールズ州のヒースランド光景

(出典)オーストラリア政府観光局

この花を最初に発見し採取した人間がいるはずだが良く分からない。
学名は、フランスの生物学者でオーストラリアの植物の権威、ラビラディエレ(Labillardière, Jacques Julien Houtou de 1755-1834)が1805年命名している。

ということはこれ以前に発見・採取していることになる。
ひょっとしたら命名者ラビラディエレ本人が採取していないかどうかを確認したら、面白いドラマが開幕した。

ラビラディエレは、フランネル・フラワーを採取する機会・可能性があったか?

(1)ラビラディエレは、1805年以前にオーストラリアに行くチャンスがあったか?
ラビラディエレ(Labillardière)は、1791年にアントワーヌ・ ブリュニー・ダントルカストー(Antoine Raymond Joseph de Bruni d'Entrecasteaux 1737 – 1793)の南太平洋探検隊のナチュラリストに任命された。

(地図)ラ・ペルーズ探検隊のコース(ボタニー湾を後に消息を絶つ)

(出典L'EXPÉDITION DE LA PÉROUSE

ダントルカストー探検隊の目的は、1788年3月に現在のオーストラリア、シドニー市ボタニー湾から音信不通となっていたフランスの海軍士官及び探検家ラ・ペルーズ伯爵及びその探検隊の生存確認と救出というフランス国民の熱望を実現することで、1791年9月にフランス革命政府立憲議会で決議された。

ということで、ラビラディエレは、フランネル・フラワーの原産地オーストラリアに行くチャンスはあった。ということになる。

但し、この立憲議会の意思決定は、投資・リターンを追求することなく人道的な目的での探検隊の派遣であり、世界史の中でも初めてに近い稀有なことのようだ。

最も、この時期のフランスは、フランス革命の革命支持派、反革命派の妥協でフランス初の憲法(1791年憲法)が制定され立憲君主制(つまり国王の権力は神から与えられたという王権神授説が否定され、王は国民の代表として法律に基づき歳費と役割が規定される立憲君主制)に移行するという重要な局面であり、国民に人気がある政策を必要としていた時期でもある。

どうも、この人気取り政策が3年前に行方不明となっていたラ・ペルーズ探検隊の救出劇のようだ。
結果はどうであれ、スタートすることが重要な政策の実行当事者は、成果が定義されないためにこの成果を計る物差しがなく、モチベーションを維持することが難しく悲惨な結末を迎えることが多い。

(2)ラビラディエレ(Labillardière)は、オーストラリアで植物採取したのだろうか?
ダントルカストー探検隊は、オーストラリア・南太平洋に派遣すると決議した年の1791年9月28日にフランス第二の軍港ブレストを出航した。
1792年1月17日、南アフリカ・ケープタウンに到着し、そこでフランスの軍服とベルトをした人間がパプアニューギニアのアドミラルティ諸島(the Admiralty Islands)でカヌーを漕いでいたという話を聞いた。
ダントルカストー隊長は、このアドミラルティ諸島に直行するために、オーストラリア南方海上にある現在のタスマニア島にあたるヴアン・ディーメンズランド(Van Diemen's Land:この島を発見したオランダ人のアベル・タスマンが当時のオランダ東インド会社の総裁の名前を付ける。)に向かい、1792年4月23日に湾に碇を下ろした。

ここで乗組員に休息と新鮮な水等を補給するために5月28日までの5週間滞在した。
もちろん調査探検も行ったので、オーストラリア南部タスマニアの植物採取なども行った。
探検隊には、ラビラディエレ(Labillardière)の他に、植物学者のヴェンテナット(Étienne Pierre Ventenat 1757 – 1808)、探検帰国後にナポレオンの前妻ジョセフィーヌが運営するマルメゾン庭園の主任庭師となるフェリク・デラヘイ(Félix Delahaye 1767‐1829)が乗っていて植物採取の役割を担っていた。

(地図)ダントルカストー探検隊の足跡(橙ピン:実績、黄ピン:予定)

オレンジのピンが立っているところがダントルカストー探検隊が寄航したところで、赤の楕円形で囲われたオーストリア東岸がフランネルフラワーの生息地を示す。

このプロットを見ると、最初で最後のチャンスはオーストラリア本土の南海上にあるタスマニア島にあった。
しかしフランネルフラワーの生息地はオーストラリア東海岸沿いのクイーンズランド州及びニューサウスウェールズ州(赤線で囲った辺り)なのでタスマニア島に生息していたかどうか分からない。

仮に、タスマニア島でフランネルフラワーを採取出来たとした場合、採取者はラビラディエレ(Labillardière)の他に、植物学者のヴェンテナット、庭師のフェリク・デラヘイという3人が候補となり、プラントハンターの役割を持つ庭師のフェリク・デラヘイの可能性が高まる。

フランス革命の余波 と 命名者ラビラディエレ(Labillardière)の意地

仮に、庭師フェリク・デラヘイが1792年5月頃にタスマニア島でフランネルフラワーを採取したとすると、ラビラディエレは1805年に命名しているので、この時間的には問題がなかったか?
ということを検証してみると意外な出来事があった。

(地図)ジャワ(赤丸のところ)でオランダ当局に拘束


1793年7月21日にダントルカストー探検隊の隊長が壊血病で死亡した。
この辺りから本国フランス革命の影響が南太平洋上の探検隊にも出始め、勤皇派(=王室支持、高級船員)、佐幕派(=共和制支持、下級船員)に分かれて覇権争いが始まった。

現在のジャワ(Surabaya)に入港したダントルカストー隊長の後任(勤皇派)は、フランス本国が王政から共和制(1792年9月21日)に代わったことを知り、1794年2月18日に船・探検の成果物等全てをジャワのオランダ当局に手渡し、共和国の利益とならないようにした。
というからよく理解できない行動を取った。敵(フランスの共和党派)の敵(オランダ)は味方(フランス王党派)ということなのだろうか?

さらに驚くことは、この船をジャワからヨーロッパに回航中、1795年4月、南アフリカ・テーブル湾で停泊中に共和党派支持の下士官が船を乗っ取り出航したが、今度は英国に拿捕され戦利品として探検の成果物が英国にわたってしまった。

まるで絵に描いたような“おばかちゃん”をしているようで、教訓一杯のストーリで呆れてしまう。

たまらないのは、ラビラディエレを初めとした科学者達で、3年以上にわたる成果が無になってしまった。

しかし、英国にはサー・ジョゼフ・バンクス(Sir Joseph Banks 1743− 1820)という強力なコネをラビラディエレが持っていて、科学的な成果物をフランスに返還するというロビー活動をしてもらい、ラビラディエレのコレクションは1796年に返還された。

これらを元に1804~1807年の間に出版されたのがニューオランダ(=オーストラリア)の植物相を初めて紹介した「Novae Hollandiae Plantarum Specimen, the first general description of the flora of Australia」(ニューオランダの植物採取とオーストラリアの植物相の初めての一般的な説明)だった。

出版の元になった標本を確認すると、ラビラディエレ彼自身が集めた標本、探検隊の仲間で鉱物・鳥類・無脊椎動物を担当したクロード・リッシュ(Claude-Antoine-Gaspard Riche 1762 – 1797)の遺品標本、及び、ラビラディエレとは異なる探検隊ニコラス・ボーダン(Nicolas Thomas Baudin 1754‐1803、)のオーストラリア西海岸及び南部海岸の探検(1800-1803)で集めたこれも遺品となる標本を元に出版している。

こうしてみると、アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi Labill.1805)は命名者ラビラディエレの周辺にいる人間であることは分かったが、誰が採取したのか決定打がないというのが現時点の結論だ。
オーストラリア西海岸及び南海岸を調査探索したニコラス・ボーダンを除外したいところだが、彼は1802年に英国植民地であったフランネルフラワーの原産地でもあるシドニーに寄航・停泊しているので除外も出来ない。むしろ本命かも分からない。

ルイ16世は、1793年1月21日午前10時22分、革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。
彼が断頭台に登るとき『ラ・ペルーズ伯のニュースは何かありますか?』と聞いたという。
ラ・ペルーズ伯とは、1788年3月に現在のオーストラリア、シドニー市ボタニー湾から音信不通となっていたフランスの海軍士官及び探検家ラ・ペルーズ伯爵で、ペルーズ伯の生存確認と救出をフランス国民が熱望しており、1791年9月にフランス革命政府立憲議会で決議されダントルカストー探検隊が派遣された。

ルイ16世は、この探検隊の成果を死に行く身で気にしていたという。
革命の狂気がはびこっていたフランスで、ラ・ペルーズ伯を按じていたのはひょっとするとルイ16世だけだったのかもしれない。

ましてや、探検隊のその後の船の中というコップの中での嵐の顛末を聞かないで死んでいったことは幸いだったかもしれない。

<参考>
アレクサンドル・デュマ( Alexandre Dumas, 1802‐1870)は、ルイ16世処刑当日の様子を次のように記述する。
『朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい』。

(写真)フランネルフラワーの花と葉


フランネルフラワー(Actinotus helianthi ‘Angel Star’)
・セリ科アクティノータス属の耐寒性が弱い多年草。
・原産地はオーストラリア、ニューサウスウェールズ沿岸とクイーンズランドの砂岩荒野で生育する。
・学名、アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi Labill.1805)は、1805年にフランスの生物学者でオーストラリアの植物相の著作で有名なラビラディエレ(Labillardière, Jacques Julien Houtou de 1755-1834)によって命名された。
・属名の“Actinotus”は、ギリシアの茎aktin-/ακτινで、「光線」または「車輪のスポーク」または「太陽光線」に由来し、「光線が備わっている」を意味する。種小名の“helianthi”は、Helianthus(ヒマワリ)との類似点に由来する。
・流通での名称は、細かい毛が密生して手触りがフランネルに似ているのでフランネルフラワー(flannel flower)と呼ばれている。
・草丈30~100cm、切花として適する。日当たりが良いところを好むが耐暑性が弱いので夏場は半日陰が良い。
・開花期は春と秋で、花径7㎝程度の白い花が咲く。白い花びらに見えるモノが苞葉で先端が緑色を帯び、中心のボンボリみたいなところが花になる。これを繖形花序(サンケイハナジョ)という。
・灰白色の葉は白妙菊のような切れ込みがあり、細かい毛が密生している。
・水はけがよい酸性の土を好むので、酸度無調整のピートモスと鹿沼土を半量ずつ混ぜた用土が適する。
・根が繊細なので植え替えのときは鉢底の土を崩さないように植え替える。又、極端な乾燥に弱いので水切れさせないよう注意する。
・鉢の場合は、風通しの良い雨の当たらないところで管理し、冬場は室内に取り込む。

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