(写真)Phlomis fruticosa(エルサレムセージ)の花
待ち望んでいたエルサレムセージがやっと咲いた。
この花は、持ち歩いているためにボロボロになった山と渓谷社のポケットブック『ハーブ』の中で手に入れようと思っていた一品でこの10年来気になっていた。
2年前に閉店セールを行っていたハーブショップで、灰緑色の葉が隅のほうで“私をつれて行って!”とばかりに輝いて見えた。これがエルサレムセージだった。
昨年は開花しなかったので“おや! 2年草かな?”と思ったが、そうではなかった。多年草というよりは株丈1mにもなる小潅木だった。1年目は開花準備に株を整えることにエネルギーを使い、翌年開花するという代物だった。
鉢植えの場合は丈をコントロールできるが、地植えの場合は場所を選ぶ必要がありそうだ。
灰緑色で銀に縁取りされた葉と、ハーブ図鑑ではカナリア色に見えた花色が抜群に良かったが、実際の花色は色見本と較べると“菜の花色”のようだ。
黄色の花では、夜咲く「イブニングプリムローズ」の色合いも良いが、エルサレムセージのようにちょっとバターが入った洋食系的な色彩も良いかなと思った。
栽培方法としては、原産地が、サルジーニャ島、クレタ島、キプロス島等の島々及びギリシャ、トルコ等の地中海周辺地域となるので乾燥気味に育て、カット・挿し木で増やす。暑さには強いが、湿気・寒さには弱いので梅雨と冬場は対策をする。
エルサレム・セージ(Jerusalem sage)の再発見者“シーバー(Sieber)”
学名フロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)は、1753年にリンネによって命名された。それ以前は、エルサレム・セージ(Jerusalem sage)として呼ばれており、これは、1548年に英国の植物学の父と言われるターナ(William Turner1508-1568)の著作物によっても確認されている。
属名Phlomisは、紀元1世紀のディオスコリデス(Pedanius Dioscorides c. 40 – 90 AD)の頃から使用され、葉がランプの芯に利用されたので“炎”を意味する。
種小名fruticosa はラテン語で“低木状の”を意味する“shrubby”から来ている。
というように、学名からも何故エルサレム・セージと呼ばれたのかは良く分からないが、
このエルサレム・セージは、2013年に英国王立園芸協会が優れた品種を表彰するAward of Garden Merit賞を受賞している。
つい最近の受賞だが、英国では400年以上も前の1600年代には背丈が高く黄色の花を咲かせるエルサレム・セージが経験豊かな庭師によって庭園で栽培されてきたという。
アルプス以南の植物を寒冷地英国で育てるには技術が必要な時代だったので当然なことだろう。
地中海周辺が原産地の植物は、最初の採取者が分かりにくい。
リンネがエルサレム・セージにフロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)と学名をつけた1753年以降にこの花を採取した気になるプラントハンターがいた。
(写真)Sieber, Franz Wilhelm 1789-1844
プラハ生まれのプラントハンターで博物学者でもあるシーバー(Sieber, Franz Wilhelm 1789-1844)だ。
彼は、いつ及び何処でエルサレム・セージを採取したか不明だが、リンネ以降の学名に『Phlomis fruticosa Sieber ex C.Presl(1822)』として命名者に登録されていた。
これは、同郷の後輩プレッスル(Presl, Carl Boriwag 1794‐1852)が、シーバーが既に命名していたが発表していないので代わって1822年に命名したことを意味する。
つまり、1822年以前にシーバーが地中海周辺のところに旅して、エルサレム・セージを採取したことを知っていたことを示している。
プラントハンティングの新時代を作ったシーバー
Franz Wilhelm Sieber (1789 – 1844)は、1789年というからフランス革命の年に現在のチェコ共和国プラハで生まれた。
このフランス革命は、ハプスブルク家が統治する隣国オーストリア帝国の支配下にあり、弾圧と搾取がされてきたチェコ人の民族復興運動に火をつけた。
しかしこの思いが実現するのはソ連共産圏が崩壊した後の1993年のチェコ共和国の誕生まで200年以上も待たなければならなかった。
シーバーはこんな社会・政治環境の中で成長し、グラフィックアートの才能に恵まれ最初は建築を学びエンジニアを志したが、最終的には植物学に軸足を置いたプラントハンタービジネスを展開する。
シーバーのユニークなところは、採取国・地域ごとに特定のプラントハンターと契約し、珍しい植物・動物・鉱物等の供給体制を構築したところにある。そして、それら全てを“Sieber”ブランドで統一して販売したので、数多くの標本が世界の植物園・標本館・ミュージアム等に流れ込んだ。
販売方法は、同郷の先輩植物学者で古生物学の父といわれるシュテルンベルク(Sternberg, Caspar Graf 1761-1838)から教えられた方法を採用した。
“Centuria(世紀)”とネーミングした植物などのカタログを100セット作製し、顧客の注文をとるという販売方式だった。
シーバーは、1811~1812年にオーストリアとイタリアの調査旅行をしていて、この販売方法は、1813年ボヘミアの植物標本の販売で始まり、シーバーの活動領域がボヘミアから地中海世界(1816~1818年クレタ島・エジプト・イスラエル探検)、アフリカ・オーストラリア(1822~1825年、南アフリカ・モーリシャス・マダガスカル・オーストラリア)へとプラントハンティングの世界が広がるにつれてプラントハンターとのネットワークも広がっていった。
シーバーのクレタ島 調査・探検旅行
最初は、彼が22歳の時の1811年~1812年にオーストリア及びイタリアを旅し、1816~1818年にはクレタ島、エジプト、パレスチナを旅した。
(地図)イタリア北東部の港町トリエステ、クレタ島、エルサレム
どんな旅をしたかをクレタ島旅行で垣間見ると、
1816年12月シーバーは、従者と庭師フランツ・コウォート(Franz Kohaut ?~1822年)の3人でイタリア北東部、スロベニアと国境を接する港町トリエステ(Trieste)を出発しクレタ島に向かった。
(地図)クレタ島での拠点
翌年1817年1月にオスマントルコ人が支配するクレタ島に到着した。
現在の州都イラクリオン(Heraklion)で疲れを休め、ガイドを雇い島内唯一の交通手段、ロバにまたがり島内を旅行した。
この当時のクレタ島はヨーロッパ社会にとって情報鎖国の国であり、ヨーロッパの科学者がクレタを訪問し調査したのは、1700年4月にフランスの医者で植物学者のトゥルヌフォール(Joseph Pitton de Tournefort、1656-1708)が訪問以来久しぶりのようだ。
トゥルヌフォールは、リンネ以前に植物の体系を考えた科学者で、植物を草と木に分け、それぞれを花の形でさらに分けるという体系を提案したえらい学者だが、フランス国王ルイ14世の出資によりディオスコリデスが紀元1世紀に書いた「De Materia Medica libriquinque(薬物誌)」の現在を調査し、地中海沿岸での有用な植物を発見・収集するためにクレタ島などを探検した。
シーバー達はこのトゥルヌフォール達の目的同様に、有用な薬用植物の調査・採取及び現在の学問で言えば“文化人類学”的なクレタ島の文化と人々の暮らしに興味を持ち調査を行った。
トゥルヌフォールの調査でも明らかになったが、科学進歩が停滞した中世ヨーロッパならいざ知らず、
アメリカ大陸・オセアニア大陸などを発見し新世界が開けた1700年では、ディオスコリデスの「薬物誌」のリニューアルに期待した地中海世界の再調査は失望する結果となった。
ましてや1817年のシーバーとなると新しい薬草の発見はなかったのだろう。
シーバーは、1823年にドイツ語でクレタ島の旅行記を出版したが、植物の記載は少なかったが、エルサレム・セージ(Jerusalem sage)の採取は、原産地でもあるこのクレタ島での旅行の時なのだろう。
(写真)真上から見たエルサレム・セージ
シーバーのプラントハンティングの変遷
地中海沿岸国の探検旅行だったここまでは、資産家の若者が学問で身を立てるための冒険旅行という感じだが、この後の探検旅行から激変する。
シーバーは、庭師フランツ・コウォート(Franz Kohaut ?~1822年)を、1816~1818年クレタ島・エジプト・イスラエル探検に同行させ、1819~1822年のカリブ海のマルティニク島では、プラントハンターとしてシーバーのために働かせた。
ここで集めた植物標本にはきちんとフランツ・コウォートにお金を払い、“Herbarium Martinicense”として販売した。
ここではまだ“Sieber”ブランドは登場していないので、身近な庭師としてのフランツ・コウォートへの配慮があったのだろう?
1822年からは一気に世界展開が始まる。
カリブ海のトリニダード・トバゴ島でFranz Wrbna がプラントハンティングを行い、
アフリカ大陸最西端にあるセネガルでは、フランツ・コウォートの他に新しいプラントハンターのAndreas Döllinger及びJ・Schmidtの三人が取り掛かったが、フランツ・コウォートは仕事が完了する前にここで亡くなった。
一方、シーバーはインド洋上にあるアフリカに属する島、モーリシャスにゼーハー(Zeyher, Karl Ludwig Philipp 1799-1858) と1822年8月に旅立った。
ゼーハーは10歳年下だが、シーバーがクレタ島に出発する1816年に、現在のオペラフアンなら行ってみたいシュヴェツィンゲン音楽祭が開催されるドイツ西南部の都市の庭園で出会い、
“急成長している産業である自然史標本の収集と販売を目指してパートナーシップ”を交わしたという。
しかし、ゼーハーは南アフリカ、ケープタウンで途中下車をし、ケープタウンでプラントハンティングをすることになった。
シーバーは、マダガスカル、モーリシャス及びオーストラリアに向かい、
オーストラリア、ポートジャクソンに1823年6月1日に到着し、7ヶ月間プラントハンティングを行い645本の現地の植物を採取した。
シーバーは1824年4月にケープタウンに戻り、ゼーハーが採取した植物相が豊かな南アフリカの植物標本を受け取り、支払いを約束したが、空約束でシーバーからは支払いが全く無かった。
未来を共有したパートナーシップはこの現実で破綻してしまった。
プラントハンティングビジネスの変遷とシーバー
シーバーは1822~1824年に世界一周旅行にステップアップし、ここからプラントハンターの元締め業という新しいビジネス形態に踏み込む。
①これまでは博物館・植物園・美術館など国が運営資金を提供しているところ、ナーサリー・庭園・造園業などの私企業、億万長者が個人の庭園を飾る植物収集等で、プラントハンターを雇い、派遣する形だった。(雇い主1→プラントハンター1)
②費用が巨額になるに従い、雇い主が複数になり成果物である植物標本・種子・現物などをシェアーする形態が出てきた。(雇い主複数→プラントハンター1)
③そして、この逆の形態も出現した。つまり、プロのプラントハンターが見本・カタログ・メニュー等を作りそれに値段をつけて注文をとるという形態になる。(植物標本などの購入者複数←プラントハンター1)
④シーバーが編み出したのは、プラントハンターをプロデュースする機関が(シーバー、Sieber)プラントハンターの給与・経費を支払うためのマーチャンダイジングを行い、顧客と顧客の新たなニーズを創造するという近代の商業的手法だった。
英国・オランダ・フランス等の園芸大国は、美しい・珍しい植物にスポンサーと大口の投資があったが、ボヘミア(チェコ)ではお金が集まらなかったのだろう。
そこで小口の資金を数多くのスポンサーから集めるために顧客の多様なニーズに答え、プラントハンターを様々な地域で活動させることにたどり着いたのだろう。
しかし、支払いがされないという現実でこの素晴らしい考えが崩壊した。
ヨーロッパの辺境国出身のシーバーは世界のひのき舞台に登場するために無理を重ねて生きてきたのだろう。晩年は 14年間精神障害に苦しみ55歳でプラハ精神病院で亡くなった。
(写真)エルサレムセージの立ち姿(丈:40cmメールぐらい)
エルサレムセージ(Jerusalem sage)の花
・シソ科フロミス(和名オオキセワタ)属の耐寒性が弱い小潅木、挿し木で増やす。
・学名:フロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)。1753年にリンネ(Carl Linnaeus 1707-1778)が命名する。
・1822年に学名は同じだが命名者が異なる名前が公表されている。Phlomis fruticosa Sieber ex C.Presl(1822)意味としては“1822年以前にSieberが何らかの理由があり発表していないのでC.Preslが公表する”となる。
・コモンネームは、エルサレムセージ(Jerusalem sage)。セージのような葉と匂いがあるがセージ(サルビア属)の仲間ではない。
・原産地:サルデーニャ島、クレタ島、キプロス島、ギリシャ、イタリア、トルコ等の地中海沿岸が原産地。
・株丈は、90-120cm、横にも広がる。鉢の場合40~60cm程度で抑えられる。
・葉は灰緑色で銀色に縁取られ、綿毛で覆われる。
・開花期は春から夏、黄色の花が咲く。
・1年目は茎・葉が成長するのみで、開花は2年目からとなる。
・暑さには強いが耐寒性は弱いので冬場は霜に当てないようにする。
・乾燥した日当たりの良い場所を好む。
・ドライフラワー、ポプリに適している。
待ち望んでいたエルサレムセージがやっと咲いた。
この花は、持ち歩いているためにボロボロになった山と渓谷社のポケットブック『ハーブ』の中で手に入れようと思っていた一品でこの10年来気になっていた。
2年前に閉店セールを行っていたハーブショップで、灰緑色の葉が隅のほうで“私をつれて行って!”とばかりに輝いて見えた。これがエルサレムセージだった。
昨年は開花しなかったので“おや! 2年草かな?”と思ったが、そうではなかった。多年草というよりは株丈1mにもなる小潅木だった。1年目は開花準備に株を整えることにエネルギーを使い、翌年開花するという代物だった。
鉢植えの場合は丈をコントロールできるが、地植えの場合は場所を選ぶ必要がありそうだ。
灰緑色で銀に縁取りされた葉と、ハーブ図鑑ではカナリア色に見えた花色が抜群に良かったが、実際の花色は色見本と較べると“菜の花色”のようだ。
黄色の花では、夜咲く「イブニングプリムローズ」の色合いも良いが、エルサレムセージのようにちょっとバターが入った洋食系的な色彩も良いかなと思った。
栽培方法としては、原産地が、サルジーニャ島、クレタ島、キプロス島等の島々及びギリシャ、トルコ等の地中海周辺地域となるので乾燥気味に育て、カット・挿し木で増やす。暑さには強いが、湿気・寒さには弱いので梅雨と冬場は対策をする。
エルサレム・セージ(Jerusalem sage)の再発見者“シーバー(Sieber)”
学名フロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)は、1753年にリンネによって命名された。それ以前は、エルサレム・セージ(Jerusalem sage)として呼ばれており、これは、1548年に英国の植物学の父と言われるターナ(William Turner1508-1568)の著作物によっても確認されている。
属名Phlomisは、紀元1世紀のディオスコリデス(Pedanius Dioscorides c. 40 – 90 AD)の頃から使用され、葉がランプの芯に利用されたので“炎”を意味する。
種小名fruticosa はラテン語で“低木状の”を意味する“shrubby”から来ている。
というように、学名からも何故エルサレム・セージと呼ばれたのかは良く分からないが、
このエルサレム・セージは、2013年に英国王立園芸協会が優れた品種を表彰するAward of Garden Merit賞を受賞している。
つい最近の受賞だが、英国では400年以上も前の1600年代には背丈が高く黄色の花を咲かせるエルサレム・セージが経験豊かな庭師によって庭園で栽培されてきたという。
アルプス以南の植物を寒冷地英国で育てるには技術が必要な時代だったので当然なことだろう。
地中海周辺が原産地の植物は、最初の採取者が分かりにくい。
リンネがエルサレム・セージにフロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)と学名をつけた1753年以降にこの花を採取した気になるプラントハンターがいた。
(写真)Sieber, Franz Wilhelm 1789-1844
プラハ生まれのプラントハンターで博物学者でもあるシーバー(Sieber, Franz Wilhelm 1789-1844)だ。
彼は、いつ及び何処でエルサレム・セージを採取したか不明だが、リンネ以降の学名に『Phlomis fruticosa Sieber ex C.Presl(1822)』として命名者に登録されていた。
これは、同郷の後輩プレッスル(Presl, Carl Boriwag 1794‐1852)が、シーバーが既に命名していたが発表していないので代わって1822年に命名したことを意味する。
つまり、1822年以前にシーバーが地中海周辺のところに旅して、エルサレム・セージを採取したことを知っていたことを示している。
プラントハンティングの新時代を作ったシーバー
Franz Wilhelm Sieber (1789 – 1844)は、1789年というからフランス革命の年に現在のチェコ共和国プラハで生まれた。
このフランス革命は、ハプスブルク家が統治する隣国オーストリア帝国の支配下にあり、弾圧と搾取がされてきたチェコ人の民族復興運動に火をつけた。
しかしこの思いが実現するのはソ連共産圏が崩壊した後の1993年のチェコ共和国の誕生まで200年以上も待たなければならなかった。
シーバーはこんな社会・政治環境の中で成長し、グラフィックアートの才能に恵まれ最初は建築を学びエンジニアを志したが、最終的には植物学に軸足を置いたプラントハンタービジネスを展開する。
シーバーのユニークなところは、採取国・地域ごとに特定のプラントハンターと契約し、珍しい植物・動物・鉱物等の供給体制を構築したところにある。そして、それら全てを“Sieber”ブランドで統一して販売したので、数多くの標本が世界の植物園・標本館・ミュージアム等に流れ込んだ。
販売方法は、同郷の先輩植物学者で古生物学の父といわれるシュテルンベルク(Sternberg, Caspar Graf 1761-1838)から教えられた方法を採用した。
“Centuria(世紀)”とネーミングした植物などのカタログを100セット作製し、顧客の注文をとるという販売方式だった。
シーバーは、1811~1812年にオーストリアとイタリアの調査旅行をしていて、この販売方法は、1813年ボヘミアの植物標本の販売で始まり、シーバーの活動領域がボヘミアから地中海世界(1816~1818年クレタ島・エジプト・イスラエル探検)、アフリカ・オーストラリア(1822~1825年、南アフリカ・モーリシャス・マダガスカル・オーストラリア)へとプラントハンティングの世界が広がるにつれてプラントハンターとのネットワークも広がっていった。
シーバーのクレタ島 調査・探検旅行
最初は、彼が22歳の時の1811年~1812年にオーストリア及びイタリアを旅し、1816~1818年にはクレタ島、エジプト、パレスチナを旅した。
(地図)イタリア北東部の港町トリエステ、クレタ島、エルサレム
どんな旅をしたかをクレタ島旅行で垣間見ると、
1816年12月シーバーは、従者と庭師フランツ・コウォート(Franz Kohaut ?~1822年)の3人でイタリア北東部、スロベニアと国境を接する港町トリエステ(Trieste)を出発しクレタ島に向かった。
(地図)クレタ島での拠点
翌年1817年1月にオスマントルコ人が支配するクレタ島に到着した。
現在の州都イラクリオン(Heraklion)で疲れを休め、ガイドを雇い島内唯一の交通手段、ロバにまたがり島内を旅行した。
この当時のクレタ島はヨーロッパ社会にとって情報鎖国の国であり、ヨーロッパの科学者がクレタを訪問し調査したのは、1700年4月にフランスの医者で植物学者のトゥルヌフォール(Joseph Pitton de Tournefort、1656-1708)が訪問以来久しぶりのようだ。
トゥルヌフォールは、リンネ以前に植物の体系を考えた科学者で、植物を草と木に分け、それぞれを花の形でさらに分けるという体系を提案したえらい学者だが、フランス国王ルイ14世の出資によりディオスコリデスが紀元1世紀に書いた「De Materia Medica libriquinque(薬物誌)」の現在を調査し、地中海沿岸での有用な植物を発見・収集するためにクレタ島などを探検した。
シーバー達はこのトゥルヌフォール達の目的同様に、有用な薬用植物の調査・採取及び現在の学問で言えば“文化人類学”的なクレタ島の文化と人々の暮らしに興味を持ち調査を行った。
トゥルヌフォールの調査でも明らかになったが、科学進歩が停滞した中世ヨーロッパならいざ知らず、
アメリカ大陸・オセアニア大陸などを発見し新世界が開けた1700年では、ディオスコリデスの「薬物誌」のリニューアルに期待した地中海世界の再調査は失望する結果となった。
ましてや1817年のシーバーとなると新しい薬草の発見はなかったのだろう。
シーバーは、1823年にドイツ語でクレタ島の旅行記を出版したが、植物の記載は少なかったが、エルサレム・セージ(Jerusalem sage)の採取は、原産地でもあるこのクレタ島での旅行の時なのだろう。
(写真)真上から見たエルサレム・セージ
シーバーのプラントハンティングの変遷
地中海沿岸国の探検旅行だったここまでは、資産家の若者が学問で身を立てるための冒険旅行という感じだが、この後の探検旅行から激変する。
シーバーは、庭師フランツ・コウォート(Franz Kohaut ?~1822年)を、1816~1818年クレタ島・エジプト・イスラエル探検に同行させ、1819~1822年のカリブ海のマルティニク島では、プラントハンターとしてシーバーのために働かせた。
ここで集めた植物標本にはきちんとフランツ・コウォートにお金を払い、“Herbarium Martinicense”として販売した。
ここではまだ“Sieber”ブランドは登場していないので、身近な庭師としてのフランツ・コウォートへの配慮があったのだろう?
1822年からは一気に世界展開が始まる。
カリブ海のトリニダード・トバゴ島でFranz Wrbna がプラントハンティングを行い、
アフリカ大陸最西端にあるセネガルでは、フランツ・コウォートの他に新しいプラントハンターのAndreas Döllinger及びJ・Schmidtの三人が取り掛かったが、フランツ・コウォートは仕事が完了する前にここで亡くなった。
一方、シーバーはインド洋上にあるアフリカに属する島、モーリシャスにゼーハー(Zeyher, Karl Ludwig Philipp 1799-1858) と1822年8月に旅立った。
ゼーハーは10歳年下だが、シーバーがクレタ島に出発する1816年に、現在のオペラフアンなら行ってみたいシュヴェツィンゲン音楽祭が開催されるドイツ西南部の都市の庭園で出会い、
“急成長している産業である自然史標本の収集と販売を目指してパートナーシップ”を交わしたという。
しかし、ゼーハーは南アフリカ、ケープタウンで途中下車をし、ケープタウンでプラントハンティングをすることになった。
シーバーは、マダガスカル、モーリシャス及びオーストラリアに向かい、
オーストラリア、ポートジャクソンに1823年6月1日に到着し、7ヶ月間プラントハンティングを行い645本の現地の植物を採取した。
シーバーは1824年4月にケープタウンに戻り、ゼーハーが採取した植物相が豊かな南アフリカの植物標本を受け取り、支払いを約束したが、空約束でシーバーからは支払いが全く無かった。
未来を共有したパートナーシップはこの現実で破綻してしまった。
プラントハンティングビジネスの変遷とシーバー
シーバーは1822~1824年に世界一周旅行にステップアップし、ここからプラントハンターの元締め業という新しいビジネス形態に踏み込む。
①これまでは博物館・植物園・美術館など国が運営資金を提供しているところ、ナーサリー・庭園・造園業などの私企業、億万長者が個人の庭園を飾る植物収集等で、プラントハンターを雇い、派遣する形だった。(雇い主1→プラントハンター1)
②費用が巨額になるに従い、雇い主が複数になり成果物である植物標本・種子・現物などをシェアーする形態が出てきた。(雇い主複数→プラントハンター1)
③そして、この逆の形態も出現した。つまり、プロのプラントハンターが見本・カタログ・メニュー等を作りそれに値段をつけて注文をとるという形態になる。(植物標本などの購入者複数←プラントハンター1)
④シーバーが編み出したのは、プラントハンターをプロデュースする機関が(シーバー、Sieber)プラントハンターの給与・経費を支払うためのマーチャンダイジングを行い、顧客と顧客の新たなニーズを創造するという近代の商業的手法だった。
英国・オランダ・フランス等の園芸大国は、美しい・珍しい植物にスポンサーと大口の投資があったが、ボヘミア(チェコ)ではお金が集まらなかったのだろう。
そこで小口の資金を数多くのスポンサーから集めるために顧客の多様なニーズに答え、プラントハンターを様々な地域で活動させることにたどり着いたのだろう。
しかし、支払いがされないという現実でこの素晴らしい考えが崩壊した。
ヨーロッパの辺境国出身のシーバーは世界のひのき舞台に登場するために無理を重ねて生きてきたのだろう。晩年は 14年間精神障害に苦しみ55歳でプラハ精神病院で亡くなった。
(写真)エルサレムセージの立ち姿(丈:40cmメールぐらい)
エルサレムセージ(Jerusalem sage)の花
・シソ科フロミス(和名オオキセワタ)属の耐寒性が弱い小潅木、挿し木で増やす。
・学名:フロミス・フルティコサ(Phlomis fruticosa L.1753)。1753年にリンネ(Carl Linnaeus 1707-1778)が命名する。
・1822年に学名は同じだが命名者が異なる名前が公表されている。Phlomis fruticosa Sieber ex C.Presl(1822)意味としては“1822年以前にSieberが何らかの理由があり発表していないのでC.Preslが公表する”となる。
・コモンネームは、エルサレムセージ(Jerusalem sage)。セージのような葉と匂いがあるがセージ(サルビア属)の仲間ではない。
・原産地:サルデーニャ島、クレタ島、キプロス島、ギリシャ、イタリア、トルコ等の地中海沿岸が原産地。
・株丈は、90-120cm、横にも広がる。鉢の場合40~60cm程度で抑えられる。
・葉は灰緑色で銀色に縁取られ、綿毛で覆われる。
・開花期は春から夏、黄色の花が咲く。
・1年目は茎・葉が成長するのみで、開花は2年目からとなる。
・暑さには強いが耐寒性は弱いので冬場は霜に当てないようにする。
・乾燥した日当たりの良い場所を好む。
・ドライフラワー、ポプリに適している。