(1):全体の俯瞰図
「プレ・モダンローズ」とは??
ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にバラが植えられたのは、1801年が初めてという。
翌年には大規模なバラ園がつくられ、世界各地からあらゆるバラが集められた。
そして、ジョゼフィーヌが支援した園芸家アンドレ・デュポン(André Dupont)により、初めて人工交雑によるバラの新種がつくられた。
ここから自然交雑ではないバラの品種改良が進み、現代のバラの祖ともいうべきハイブリッド・ティー・ローズ(略称HT)が誕生する。
第一号のHT「ラ・フランス(La France)」が誕生したのが1867年であり、フランスの育種家ギョー(Jean-Baptiste Guillot 1827-1893)によって作出された。
(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」
1867年は、パリ万国博覧会が開催されており、「ラ・フランス」は、会場となったシャン・ド・マルスの庭園で展示され、大輪で花弁がたくさんある香り豊かなピンクのバラは注目を集めたようだ。
フランスにとっては、園芸が産業化された記念すべき年でもある。
オールドローズ達が交配され、この「ラ・フランス」誕生までをモダンローズが誕生する前夜 “プレ・モダンローズ” と呼ぶことにし、
園芸品種の改良の歴史を追ってみる。
品種改良の歴史的な記録がきちっと残っているのはバラだけのようで、他の園芸品種は省みられないか秘匿されたようだ。
ちなみに品種改良はバラの品種数に反映しており、1791年のフランスのバラカタログには、25種しかなかったというが、この人工交雑によりフランスのバラ育種業が活発になり、1815年には2000種もの品種を販売できるようになり、1825年頃には5000種まで拡大し、米国南部ミシシッピー周辺にまで輸出していたという。
別の記録では、1829年にはケンティフォーリア系2682種、モス・ローズ系18種、ガリカ・ローズ系1213種、アルバ・ローズ系112種が記録されており、オールドローズ系統の品種交雑の展開が伺える。
このようにジョゼフィーヌが亡くなった後でもマルメゾン庭園は、バラの栽培を続け、バラの発展に寄与しただけでなくフランスの花卉産業を勃興させ、美しく香しいイメージの国にした。
プレ・モダンローズの主要なバラ年表
四季咲きで花の色も形も美しい「ラ・フランス(La France)」 が誕生するまでにいくつかの道がありこれを簡単に整理すると次のようになる。
① 西アジア、中近東を経由して地中海沿岸・ヨーロッパに自生していた数系統のバラ(R.アルバ、R.ケンティフォーリア、R.ダマスケナ、R.ガリカ、R.フェティダなど)
② 18世紀末にヨーロッパに入ってきた中国・インド原産のコウシンバラ、および、日本にも原生するノイバラ、ハマナスなどの系統。
③ これらが交雑され次のようなバラが誕生する。
<主要な年表>
・1812年頃:「ノアゼット・ローズ」が発表される。
・1817年:「ブルボン・ローズ」が発表される。
・1837年:フランスのジャン・ラフェイ(Jean Laffay 1794-1878)は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のハイブリッド・バーベチュアルである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princes Helene)」を発表。
ヨーロッパでは、ここから始まるのがモダンローズという定義。
・1838年:作出者の名を冠した最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表される。
・1864年:ノアゼット・ハイブリッドの代表種「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」がブラデルにより作られ発表。
(写真)「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」
(出典)WEBバラ図鑑
・1867年:最初のハイブリッド・ティー(HT)「ラ・フランス(La France)」がギョー(Jean-Baptiste Guillot 1827-1893)によって作られ今日のHTの基礎が確立した。
(2):ノアゼットローズ誕生の怪
バラの原種は世界の北半球だけに200種あるといわれている。
北アメリカにも原種が存在するが、現代のモダンローズの祖先にかかわっていない。唯一あるとすると、「ノアゼットローズ」になる。
定説、ノアゼットローズ誕生
ノアゼットローズは、フランスからアメリカに入植したフィリップ・ノアゼット( Philippe Noisette 1773-1835 )によって1812年につくられ、これをパリにいる兄のルイ・ノアゼットに1817年に送り、兄がさらに品種改良をして販売し、1900年代の初めまで広く栽培されていた。
(写真)ノアゼットローズの花
(出典)姫野ばら園 八ヶ岳農場.
ノアゼットローズ(The noisette rose)
・和名:ノアゼットローズ
・学名:Rosa noisettiana.Red
・英名:The noisette rose
・作出者:フィリップ・ノアゼット(Philippe Noisette 1773-1835)
このバラの親は、中国原産のコウシンバラと、同じく中国原産で濃厚なムスク香があるロサ・モスカータ(Rosa moscata)が交雑して出来たといわれているが、中国原産のロサ・ギカンテア(Rosa gigantea)の交雑ではないかと最近はなっている。
この見解は香料を分析しての結果だが、最近では、遺伝子の検査で親子関係を調べることが出来るので科学は恐ろしい。
ノアゼットローズの特色は、花色はピンク、赤、黄などで多花性の房咲きで、強い香りがあり、この淡いピンクの花色は美しい。
このノアゼットローズが重要視されるのは、この後に誕生するするハイブリッド・ティー・ローズに近づくハイブリッド・パーペチュアル系ローズの一方の親となり、四季咲き性・多花性・芳香を伝えたからだ。
というのが定説になっているが、初期のところでだいぶ違う説があるのでこれも紹介すると、
お人よしのチャンプニーがつくったという説
ヨーロッパ系でなくアメリカ系の文献を読むと、バラの祖に関わっていないというコンプレックスがあるためか、我田引水型のこれから説明する説の強調が目立つ。
サウスカロライナ州チャールストンのコメ農家チャンプニー(John Champney)は、
1802年にコウシンバラ系のパーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)とロサ・モスカータ(Rosa moscata)の交雑に成功し新種を作った。
これをチャンプニーズ・ピンク・クラスター(Champneys' Pink Cluster)と呼び、夏だけ開花する枝振りが悪い低木のバラだったが、何故かしら栽培して市場に出す気がなかったので、隣に住むフィリップ・ノアゼットに交雑の元となったパーソンズ・ピンク・チャイナをもらったのでそのお礼として作出した苗をあげたという。
ノアゼットは、もらったチャンプニーズ・ピンク・クラスターからカットをつくり、1811年に実生(みしよう=種)を得ることに成功した。これらから出来た種と苗木をフランスの兄に1817年送った。これがマルメゾン庭園で開花してルドゥテによって描かれた。
となっている。
後半は一緒だが、前半がまったく異なるストーリーとなっている。
チャンプニーは、バラの歴史に残る栄誉に気づかなかった、或いは、知らなかったお人よしのようだ。
(写真)ルドゥテの描いたノアゼットローズ
Blush Noisette
※ ルドゥテが描いたノアゼットの絵は、史上最高の植物画と評価されている。
パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンにある謎
パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)は、不思議なバラで、イギリスのパーソンズの庭に1793年(一説には1789年)にあり、バンクス卿がこのバラの存在を発表している。
伝来のルートがわからず、無関係と思われるバンクス卿が登場し、しかも、1802年にはチャールストンにも伝わっていた。
ちょっと整理をすると、
・パーソンズピンクチャイナは伝来のルートがわからないが1793年(又は1789年)以前にパーソンの庭にあった。
・パーソンとの関係がよくわからないが当時のイギリスの科学者のトップにいたバンクス卿がこのバラを発表している。
・1802年までには、アメリカのチャールストンに渡っていた。
・別の文献では、チャールストンにはフランスからパーソンズ・ピンク・チャイナが渡ったとある。
疑問は、中国からヨーロッパにどういうルートで誰が持って来たか?そしてアメリカには誰が持っていったか? である。
ミッショーとバンクス卿の謎
ここで思い出すのがフランスのプラントハンター、アンドレ・ミッショーである。
ときめきの植物雑学「マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー」シリーズで、ミッショーはフロリダ半島の付け根のやや上で大西洋側に位置するチャールストンに大規模な育種園・農園を確保し、ここを拠点に北米の植物探索を行った。チャールストンは、フランスからの移民が多いので、ミッショーもここを拠点とした。
18世紀末から中国原産のバラがヨーロッパに入るが、これがフランスに渡り、フランスからチャールストンにも伝わっていた。
どんなルートでチャールストンに渡ったのか不思議に思っていたが、ミッショーが絡んでいた可能性を否定できない感が強まってきた。
ミッショーは、中国の原種であるツバキ、サルスベリ、チャノキなどをチャールストンに持ってきていることがわかっている。いつ持って来たかが定かでないが、1790年の北米での活動履歴がないので、この年にヨーロッパに戻るか、(ヨーロッパ経由で)中国に行った形跡がある。
ミッショーが1790年に中国に行き、パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)をも含めてチャールストンにもって帰り、この一部がバンクス卿に流れたと考えてもつじつまが合いそうだ。
バンクス卿は出所を明らかに出来ずにパーソンに栽培を依頼した。だからバンクス卿がこれを発表できたというストーリーだ。
この当時はフランス革命の最中であり、フランスと英国は敵対関係にあった。革命政府から北米滞在の活動費を出してもらえないミッショーは自活せざるを得なくなり、チャールストンのスポンサーだけでなく、バンクス卿もスポンサーとして中国の植物を採取しに出かけたのではないだろうか?
こんなところでミッショーに出会うとは想像すら出来なかった。
ミッショーは1796年にアメリカチャールストンを後にし故郷フランスに旅立った。
マッソンは1797年12月にニューヨークについた。しかもバンクス卿に口説かれて。
この事実は、切り替えのタイミングが良くとても偶然とは思われなくなった。
1790年頃にミッショーはバンクス卿と内密で会っていたというのが推理だ。
この推理は、事実として突き止められていないが謎のピースがうまくはまる。
ミッショーはバンクス卿と会っているな?
北米がモダンローズに名を残すことが出来たのは、ノアゼット・ローズが誕生したことではあるが、中国原産のコウシンバラの変種パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンに来ていたからだ。と言い換えてもよさそうだ。
(3):品種改良
“千三つ”よりも確率が悪い園芸品種の開発
バラに限らず園芸品種の育種は、偶然と必然の歴史のようだ。
偶然は発見されないと歴史に或いは記録に登場しないが、必然は、計画的に新種開発をするということだが、この新種開発は、時間とコストがかかるリスクの高いビジネスのようだ。
クルマのような人工物を作るのではなく1年という自然のリズムの上で開発をするので、気が遠くなるほどの時間を覚悟しなければならない。
この時間を短縮する方法はないが、唯一の対策は、同時に数多くの種をまき、数多くの苗を育て、そして交配をする。その中から選別して良さそうなものだけを残して育てることのようだ。
バラの場合は、2万のタネを蒔きそこから絞り込んでいくようようだが、初期投資の資金が莫大となり誰でもが手を出せる代物ではなくなってきている。
何故2万ものタネを蒔くのかというと、優良な品種の出現の確率が、1万分のⅠとか二万分のⅠとかいわれているのでこの逆を行っている。“千三つ”という故事があるがそれよりも確率が悪く、当たって遠からずのようだ。
品種改良・新品種開発といえば聞こえはいいが、細々では偶然を待つ以外ない。
“青いバラ”をつくるというような目標を持ち、結果を出すということはリスクを前提に、リスクを如何に減じるかという“のどか”ではない裏舞台になっているという。
こうしてつくった大事な新種は、権利を保護しないとすぐマネられる。
だから、保護される前に育種の機密を盗もうとするスパイ活動があり血みどろの争いもあったというから育種家同士は仲がよくないという。
高嶺の花の代表のバラ、これらを含む植物の品種改良という知的権利の保護に関しては、
工業製品が歩んできた道をおくれてたどり、知的な活動を保護する国際条約が出来たのは、1961年パリで作成された「International Convention for the Protection of New Varieties of Plants(植物の新品種の保護に関する国際条約)(略称UPOV条約)」であった。やはりフランスの伝統・利権を国際条約で守ろうとした園芸先進国だけはある。
国内法としては1947年(昭和22年)に制定された“種苗法(しゅびょうほう)”があり、日本のバラ育種家の第一人者であった鈴木省三(1913-2000)もこの育苗法改定に尽くしたという。
(参考:農林省品種登録ホームページ)
実践:品種改良の方法
品種改良はタネを蒔いて育てる実生法(みしょうほう)、放射線をあてて変異を作る放射線法、バイオテクノロジーを使う方法があるが、我々でも出来る実生法を紹介する。出典は鈴木省三氏の『バラ花図譜』である。
1.花の両親を決める
元気のよい花をたくさんつける株を選び、父親となる株は色・形のよい物を選ぶ。
2.交配(交雑)する時
春の一番咲きの時期
3.母親株の雄しべを取り除く
母親株の花が咲く1~2日前の花弁を全部取り除き、ピンセットで、雄しべを全部取り除く。風や虫による他の花の花粉がつかないように雄しべを取り除いた花に紙袋をかけておき、1~2日後に父親株から採った花粉をかける受粉作業をする。
4.父親株の雄しべから花粉を集める
父親株のつぼみの状態の花から、母親株と同じように花弁を取り除き、ピンセットで雄しべをとり、適当な容器に集める。これを日陰で乾燥させた後で冷蔵庫に保管する。2週間ぐらいは保存が利くのでこの間に受粉で使う。
5.受粉
3で雄しべを除去した母親株の雌しべが成熟(柱頭が濡れる感じ)したら、保存した花粉で受粉させる。受粉は、指先或いは筆に花粉をつけ、柱頭に塗りつける。受粉後は、他の花粉がつかないように袋をかぶせておく。受粉させた花には、両親の品種名と受粉させた年月日を書いた札をつける。
6.採果と脱粒
受精がうまくいって1ヶ月ぐらいすると子房が膨らみ受精が確認できる。(失敗した時は子房のしたが黄色くなり枯れる) 受精した花は、毎日観察し虫害や病気から守ってやる。受精後3ヶ月ぐらいで種子は発芽能力を持つので、果実が赤く色づいたところで収穫する。ナイフで中の種を傷つけないように果実を割り種を取り出す。
このタネを直ぐ蒔いてもよいが、冷蔵庫で保管し、12月から翌年3月にかけて蒔いてもよい。冷蔵庫では種子を乾燥させないように水分を含ませたガーゼの上に種子を並べた容器で保管する。
7.種まき
用土はバーミキュライトとパーライトを混ぜたものを使い、2~3月頃に蒔く。(温室の場合は11~12月頃) 過湿にならないように水分の与え方に注意する。
8.発芽と鉢がえ
発芽してから3~4週間たつと本葉が2枚になる。この時期が移植に適しているので、苗を丁寧に抜き2号鉢に1本ずつ植え替える。このときに育ちが悪くなるので子葉を落とさないように注意する。用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。
用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。
9.選抜
発芽後約2ヶ月後頃に本葉が7~8枚になり四季咲きのものは最初の花をつける。この花は咲かせないで摘み取り、苗の生育に力を注ぐようにしてあげる。
その後2ヶ月に1回のわりで開花するので、その中からいい苗を選別する。最後に残った優良な苗を芽接ぎしたりして新しい品種を増やす元として使う。
バラ以外にも応用できるので試してみてはいかがだろうか? いずれにしても、根気よく、記憶に頼らずに記録することが重要なようだ。
【バラシリーズのリンク集】
1.モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ
「プレ・モダンローズ」とは??
ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にバラが植えられたのは、1801年が初めてという。
翌年には大規模なバラ園がつくられ、世界各地からあらゆるバラが集められた。
そして、ジョゼフィーヌが支援した園芸家アンドレ・デュポン(André Dupont)により、初めて人工交雑によるバラの新種がつくられた。
ここから自然交雑ではないバラの品種改良が進み、現代のバラの祖ともいうべきハイブリッド・ティー・ローズ(略称HT)が誕生する。
第一号のHT「ラ・フランス(La France)」が誕生したのが1867年であり、フランスの育種家ギョー(Jean-Baptiste Guillot 1827-1893)によって作出された。
(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」
1867年は、パリ万国博覧会が開催されており、「ラ・フランス」は、会場となったシャン・ド・マルスの庭園で展示され、大輪で花弁がたくさんある香り豊かなピンクのバラは注目を集めたようだ。
フランスにとっては、園芸が産業化された記念すべき年でもある。
オールドローズ達が交配され、この「ラ・フランス」誕生までをモダンローズが誕生する前夜 “プレ・モダンローズ” と呼ぶことにし、
園芸品種の改良の歴史を追ってみる。
品種改良の歴史的な記録がきちっと残っているのはバラだけのようで、他の園芸品種は省みられないか秘匿されたようだ。
ちなみに品種改良はバラの品種数に反映しており、1791年のフランスのバラカタログには、25種しかなかったというが、この人工交雑によりフランスのバラ育種業が活発になり、1815年には2000種もの品種を販売できるようになり、1825年頃には5000種まで拡大し、米国南部ミシシッピー周辺にまで輸出していたという。
別の記録では、1829年にはケンティフォーリア系2682種、モス・ローズ系18種、ガリカ・ローズ系1213種、アルバ・ローズ系112種が記録されており、オールドローズ系統の品種交雑の展開が伺える。
このようにジョゼフィーヌが亡くなった後でもマルメゾン庭園は、バラの栽培を続け、バラの発展に寄与しただけでなくフランスの花卉産業を勃興させ、美しく香しいイメージの国にした。
プレ・モダンローズの主要なバラ年表
四季咲きで花の色も形も美しい「ラ・フランス(La France)」 が誕生するまでにいくつかの道がありこれを簡単に整理すると次のようになる。
① 西アジア、中近東を経由して地中海沿岸・ヨーロッパに自生していた数系統のバラ(R.アルバ、R.ケンティフォーリア、R.ダマスケナ、R.ガリカ、R.フェティダなど)
② 18世紀末にヨーロッパに入ってきた中国・インド原産のコウシンバラ、および、日本にも原生するノイバラ、ハマナスなどの系統。
③ これらが交雑され次のようなバラが誕生する。
<主要な年表>
・1812年頃:「ノアゼット・ローズ」が発表される。
・1817年:「ブルボン・ローズ」が発表される。
・1837年:フランスのジャン・ラフェイ(Jean Laffay 1794-1878)は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のハイブリッド・バーベチュアルである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princes Helene)」を発表。
ヨーロッパでは、ここから始まるのがモダンローズという定義。
・1838年:作出者の名を冠した最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表される。
・1864年:ノアゼット・ハイブリッドの代表種「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」がブラデルにより作られ発表。
(写真)「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」
(出典)WEBバラ図鑑
・1867年:最初のハイブリッド・ティー(HT)「ラ・フランス(La France)」がギョー(Jean-Baptiste Guillot 1827-1893)によって作られ今日のHTの基礎が確立した。
(2):ノアゼットローズ誕生の怪
バラの原種は世界の北半球だけに200種あるといわれている。
北アメリカにも原種が存在するが、現代のモダンローズの祖先にかかわっていない。唯一あるとすると、「ノアゼットローズ」になる。
定説、ノアゼットローズ誕生
ノアゼットローズは、フランスからアメリカに入植したフィリップ・ノアゼット( Philippe Noisette 1773-1835 )によって1812年につくられ、これをパリにいる兄のルイ・ノアゼットに1817年に送り、兄がさらに品種改良をして販売し、1900年代の初めまで広く栽培されていた。
(写真)ノアゼットローズの花
(出典)姫野ばら園 八ヶ岳農場.
ノアゼットローズ(The noisette rose)
・和名:ノアゼットローズ
・学名:Rosa noisettiana.Red
・英名:The noisette rose
・作出者:フィリップ・ノアゼット(Philippe Noisette 1773-1835)
このバラの親は、中国原産のコウシンバラと、同じく中国原産で濃厚なムスク香があるロサ・モスカータ(Rosa moscata)が交雑して出来たといわれているが、中国原産のロサ・ギカンテア(Rosa gigantea)の交雑ではないかと最近はなっている。
この見解は香料を分析しての結果だが、最近では、遺伝子の検査で親子関係を調べることが出来るので科学は恐ろしい。
ノアゼットローズの特色は、花色はピンク、赤、黄などで多花性の房咲きで、強い香りがあり、この淡いピンクの花色は美しい。
このノアゼットローズが重要視されるのは、この後に誕生するするハイブリッド・ティー・ローズに近づくハイブリッド・パーペチュアル系ローズの一方の親となり、四季咲き性・多花性・芳香を伝えたからだ。
というのが定説になっているが、初期のところでだいぶ違う説があるのでこれも紹介すると、
お人よしのチャンプニーがつくったという説
ヨーロッパ系でなくアメリカ系の文献を読むと、バラの祖に関わっていないというコンプレックスがあるためか、我田引水型のこれから説明する説の強調が目立つ。
サウスカロライナ州チャールストンのコメ農家チャンプニー(John Champney)は、
1802年にコウシンバラ系のパーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)とロサ・モスカータ(Rosa moscata)の交雑に成功し新種を作った。
これをチャンプニーズ・ピンク・クラスター(Champneys' Pink Cluster)と呼び、夏だけ開花する枝振りが悪い低木のバラだったが、何故かしら栽培して市場に出す気がなかったので、隣に住むフィリップ・ノアゼットに交雑の元となったパーソンズ・ピンク・チャイナをもらったのでそのお礼として作出した苗をあげたという。
ノアゼットは、もらったチャンプニーズ・ピンク・クラスターからカットをつくり、1811年に実生(みしよう=種)を得ることに成功した。これらから出来た種と苗木をフランスの兄に1817年送った。これがマルメゾン庭園で開花してルドゥテによって描かれた。
となっている。
後半は一緒だが、前半がまったく異なるストーリーとなっている。
チャンプニーは、バラの歴史に残る栄誉に気づかなかった、或いは、知らなかったお人よしのようだ。
(写真)ルドゥテの描いたノアゼットローズ
Blush Noisette
※ ルドゥテが描いたノアゼットの絵は、史上最高の植物画と評価されている。
パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンにある謎
パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)は、不思議なバラで、イギリスのパーソンズの庭に1793年(一説には1789年)にあり、バンクス卿がこのバラの存在を発表している。
伝来のルートがわからず、無関係と思われるバンクス卿が登場し、しかも、1802年にはチャールストンにも伝わっていた。
ちょっと整理をすると、
・パーソンズピンクチャイナは伝来のルートがわからないが1793年(又は1789年)以前にパーソンの庭にあった。
・パーソンとの関係がよくわからないが当時のイギリスの科学者のトップにいたバンクス卿がこのバラを発表している。
・1802年までには、アメリカのチャールストンに渡っていた。
・別の文献では、チャールストンにはフランスからパーソンズ・ピンク・チャイナが渡ったとある。
疑問は、中国からヨーロッパにどういうルートで誰が持って来たか?そしてアメリカには誰が持っていったか? である。
ミッショーとバンクス卿の謎
ここで思い出すのがフランスのプラントハンター、アンドレ・ミッショーである。
ときめきの植物雑学「マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー」シリーズで、ミッショーはフロリダ半島の付け根のやや上で大西洋側に位置するチャールストンに大規模な育種園・農園を確保し、ここを拠点に北米の植物探索を行った。チャールストンは、フランスからの移民が多いので、ミッショーもここを拠点とした。
18世紀末から中国原産のバラがヨーロッパに入るが、これがフランスに渡り、フランスからチャールストンにも伝わっていた。
どんなルートでチャールストンに渡ったのか不思議に思っていたが、ミッショーが絡んでいた可能性を否定できない感が強まってきた。
ミッショーは、中国の原種であるツバキ、サルスベリ、チャノキなどをチャールストンに持ってきていることがわかっている。いつ持って来たかが定かでないが、1790年の北米での活動履歴がないので、この年にヨーロッパに戻るか、(ヨーロッパ経由で)中国に行った形跡がある。
ミッショーが1790年に中国に行き、パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)をも含めてチャールストンにもって帰り、この一部がバンクス卿に流れたと考えてもつじつまが合いそうだ。
バンクス卿は出所を明らかに出来ずにパーソンに栽培を依頼した。だからバンクス卿がこれを発表できたというストーリーだ。
この当時はフランス革命の最中であり、フランスと英国は敵対関係にあった。革命政府から北米滞在の活動費を出してもらえないミッショーは自活せざるを得なくなり、チャールストンのスポンサーだけでなく、バンクス卿もスポンサーとして中国の植物を採取しに出かけたのではないだろうか?
こんなところでミッショーに出会うとは想像すら出来なかった。
ミッショーは1796年にアメリカチャールストンを後にし故郷フランスに旅立った。
マッソンは1797年12月にニューヨークについた。しかもバンクス卿に口説かれて。
この事実は、切り替えのタイミングが良くとても偶然とは思われなくなった。
1790年頃にミッショーはバンクス卿と内密で会っていたというのが推理だ。
この推理は、事実として突き止められていないが謎のピースがうまくはまる。
ミッショーはバンクス卿と会っているな?
北米がモダンローズに名を残すことが出来たのは、ノアゼット・ローズが誕生したことではあるが、中国原産のコウシンバラの変種パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンに来ていたからだ。と言い換えてもよさそうだ。
(3):品種改良
“千三つ”よりも確率が悪い園芸品種の開発
バラに限らず園芸品種の育種は、偶然と必然の歴史のようだ。
偶然は発見されないと歴史に或いは記録に登場しないが、必然は、計画的に新種開発をするということだが、この新種開発は、時間とコストがかかるリスクの高いビジネスのようだ。
クルマのような人工物を作るのではなく1年という自然のリズムの上で開発をするので、気が遠くなるほどの時間を覚悟しなければならない。
この時間を短縮する方法はないが、唯一の対策は、同時に数多くの種をまき、数多くの苗を育て、そして交配をする。その中から選別して良さそうなものだけを残して育てることのようだ。
バラの場合は、2万のタネを蒔きそこから絞り込んでいくようようだが、初期投資の資金が莫大となり誰でもが手を出せる代物ではなくなってきている。
何故2万ものタネを蒔くのかというと、優良な品種の出現の確率が、1万分のⅠとか二万分のⅠとかいわれているのでこの逆を行っている。“千三つ”という故事があるがそれよりも確率が悪く、当たって遠からずのようだ。
品種改良・新品種開発といえば聞こえはいいが、細々では偶然を待つ以外ない。
“青いバラ”をつくるというような目標を持ち、結果を出すということはリスクを前提に、リスクを如何に減じるかという“のどか”ではない裏舞台になっているという。
こうしてつくった大事な新種は、権利を保護しないとすぐマネられる。
だから、保護される前に育種の機密を盗もうとするスパイ活動があり血みどろの争いもあったというから育種家同士は仲がよくないという。
高嶺の花の代表のバラ、これらを含む植物の品種改良という知的権利の保護に関しては、
工業製品が歩んできた道をおくれてたどり、知的な活動を保護する国際条約が出来たのは、1961年パリで作成された「International Convention for the Protection of New Varieties of Plants(植物の新品種の保護に関する国際条約)(略称UPOV条約)」であった。やはりフランスの伝統・利権を国際条約で守ろうとした園芸先進国だけはある。
国内法としては1947年(昭和22年)に制定された“種苗法(しゅびょうほう)”があり、日本のバラ育種家の第一人者であった鈴木省三(1913-2000)もこの育苗法改定に尽くしたという。
(参考:農林省品種登録ホームページ)
実践:品種改良の方法
品種改良はタネを蒔いて育てる実生法(みしょうほう)、放射線をあてて変異を作る放射線法、バイオテクノロジーを使う方法があるが、我々でも出来る実生法を紹介する。出典は鈴木省三氏の『バラ花図譜』である。
1.花の両親を決める
元気のよい花をたくさんつける株を選び、父親となる株は色・形のよい物を選ぶ。
2.交配(交雑)する時
春の一番咲きの時期
3.母親株の雄しべを取り除く
母親株の花が咲く1~2日前の花弁を全部取り除き、ピンセットで、雄しべを全部取り除く。風や虫による他の花の花粉がつかないように雄しべを取り除いた花に紙袋をかけておき、1~2日後に父親株から採った花粉をかける受粉作業をする。
4.父親株の雄しべから花粉を集める
父親株のつぼみの状態の花から、母親株と同じように花弁を取り除き、ピンセットで雄しべをとり、適当な容器に集める。これを日陰で乾燥させた後で冷蔵庫に保管する。2週間ぐらいは保存が利くのでこの間に受粉で使う。
5.受粉
3で雄しべを除去した母親株の雌しべが成熟(柱頭が濡れる感じ)したら、保存した花粉で受粉させる。受粉は、指先或いは筆に花粉をつけ、柱頭に塗りつける。受粉後は、他の花粉がつかないように袋をかぶせておく。受粉させた花には、両親の品種名と受粉させた年月日を書いた札をつける。
6.採果と脱粒
受精がうまくいって1ヶ月ぐらいすると子房が膨らみ受精が確認できる。(失敗した時は子房のしたが黄色くなり枯れる) 受精した花は、毎日観察し虫害や病気から守ってやる。受精後3ヶ月ぐらいで種子は発芽能力を持つので、果実が赤く色づいたところで収穫する。ナイフで中の種を傷つけないように果実を割り種を取り出す。
このタネを直ぐ蒔いてもよいが、冷蔵庫で保管し、12月から翌年3月にかけて蒔いてもよい。冷蔵庫では種子を乾燥させないように水分を含ませたガーゼの上に種子を並べた容器で保管する。
7.種まき
用土はバーミキュライトとパーライトを混ぜたものを使い、2~3月頃に蒔く。(温室の場合は11~12月頃) 過湿にならないように水分の与え方に注意する。
8.発芽と鉢がえ
発芽してから3~4週間たつと本葉が2枚になる。この時期が移植に適しているので、苗を丁寧に抜き2号鉢に1本ずつ植え替える。このときに育ちが悪くなるので子葉を落とさないように注意する。用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。
用土は、堆肥1に赤土2の割合で混ぜたものを使う。品種・両親の名前を書いたラベルは忘れないでつけておく。
9.選抜
発芽後約2ヶ月後頃に本葉が7~8枚になり四季咲きのものは最初の花をつける。この花は咲かせないで摘み取り、苗の生育に力を注ぐようにしてあげる。
その後2ヶ月に1回のわりで開花するので、その中からいい苗を選別する。最後に残った優良な苗を芽接ぎしたりして新しい品種を増やす元として使う。
バラ以外にも応用できるので試してみてはいかがだろうか? いずれにしても、根気よく、記憶に頼らずに記録することが重要なようだ。
【バラシリーズのリンク集】
1.モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ