モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No7

2010-06-28 14:41:04 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ

(写真)サルビア・パテンス
 
サルビア・パテンスについてはここを参照

「サルビア・パテンス」のこれまでの謎
6月ともなるとこの美しいブルーの花が咲く。サルビアの中では大柄な花であり、花数は少なく、しかも一日花では無いが二日程度しか咲いていない。
この印象に残る美しい花なのに、園芸の歴史的記録に残されていない事実がある。

「サルビア・パテンス(Salvia patens Cav.)」の学名は 、1799年にスペインの植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)によって命名されているが誰が採取したか不明だった。

一方、ミズリー植物園のデータベースに記録されているコレクター(発見・採取者)で最も早いのは、1863年にエンゲルマン(Engelmann, George 1809–1884)がメキシコで採取したとあるので、命名時期より相当時間がたってからの記録となる。

そして、園芸市場に登場したのは1838年頃とBetsy Clebsch著「The New Book of SALVIAS」に書かれているが、誰が園芸市場に持ち込んだかもわからない謎があった。

この「サルビア・パテンス」を園芸市場に持ち込んだのが、ロンドン園芸協会からメキシコに1836年に派遣されたプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)のようだ。
これは、“Mexconnect”というメキシコの専門Webに掲載されたTony Burtonの論文に書かれていて、時期及びハートウェグの探検コースから見ても納得できる要素がある。

ハートウェグが採取した植物で有名なのは、その後大ブームとなったラン、英国では落葉樹が多く針葉樹が少ないこともあり様々な針葉樹などであり、パトロンの園芸協会も興味関心からサルビアは外れていたのだろう。
この「サルビア・パテンス」に関心が向くのは、自然で野性的な庭作りを提唱したウイリアム・ロビンソン(William Robinson 1838-1935)が「英国のフラワーガーデン」1933年版で“園芸品種の中で最も素晴らしい植物のひとつ”と絶賛してからであり、それまで忘れられていたようだ。
“美”とは、それを受け入れる認識が出来ないと美しく感じないのだろう。

ハートウェグのキャリア
1830年代にメキシコを探検したプラントハンターは3人いる。シリーズNo3のフランス人と思われるアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)、シリーズNo4のベルギーのリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)とその仲間達。
そして、三番目がドイツ人のプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)だった。

ハートウェグは、ドイツ、カールスルーエの庭師の家系に生れ、早くから植物学の英才教育を受けた。パリに出てパリ植物園で働いていた頃、キュー植物園のフッカー(Hooker,William Jackson 1785-1865)にその才能を見出されロンドン園芸協会のプラントハンターとして採用された。

最初の探検旅行は、ハートウェグ24歳のときの1836年にメキシコに派遣された。メキシコが選ばれたのは、この時期には中南米の植物が魅力的であることが知られており、
3年間の予定であったが7年間にもなり、1843年に英国に戻るまでにメキシコ,中央アメリカ、南アメリカとジャマイカを探検し、ヨーロッパで知られていなかった数多くの植物をロンドンの園芸協会に送った。

同時期に中南米で活躍したベルギーのプラントハンター、リンデンも数多くのランを採取し、“リンデンのラン帝国”といわれるほどの園芸種を栽培して販売したが、ハートウェグも数多くのランを採取しランブームを演出した。しかもこの二人は、メキシコとコロンビアで遭遇していてプラントハンターとして熾烈な競争相手でもあったようだ。

ハートウェグが送った植物は、英国で19世紀最高の植物学者と評されるようになるベンサム(Bentham ,George 1800-1884)によって分類され1839年からシリーズで出版した『Plantae Hartwegianae』に記載された。このベンサムは、中南米の植物の権威となり、なかでもシソ科・サルビア属の権威ともなったが、ハートウェグ、G.J.グラハム(Graham, George John 1803-1878)などのプラントハンターが採取した植物標本が彼の元に集まったから整理・分類できた。

英国の素晴らしさは、園芸協会のようなプラントハンターのスポンサーだけでなく、キュー植物園・植物学者などとの連携をとり、実業だけでなく基礎研究も同時に進めたところにありそうだ。ワンソースマルチユースを実践しているところが素晴らしい。
唯一不満なのは、ベンサムも同じだが、植物学者として登場する者の多くが親の膨大な遺産を受け継いだ貴族・富裕階級であり、その資産を使った暇つぶし的、趣味的なところがあることだ。プラントハンターにはこの出自の良さが無く、ハングリーで結果勝負だからシンプルだ。

ハートウェグのメキシコの探検
1836年メキシコの大西洋岸にあるベラクルーズに到着したハートウェグは、ドイツの植物学者サルトリウス(Sartorius ,Carl 1796-1872)を訪ねている。

サルトリウスは、ハートウェグより10年前にメキシコに来て、ユカタン半島の付け根部分に当たる現在ではグアテマラ北部に位置するエル・ミラドールで牧場とサトウキビ農場を経営し、かたわらでベルリン植物園のプラントハンターとしてメキシコの植物を採取して送っていた先輩に当たる。
サルトリウスは、ヨーロッパからメキシコに来た植物学者・プラントハンターが表敬訪問するキーマンとなっていて、ベルギーのプラントハンター、リンデンも彼を訪問している。

ところでこの エル・ミラドール(El Mirador) だが、ジャングルに覆われていたところから1926年にマヤ古代都市がここにあったことが発見されたところであり、紀元前6世紀頃には人口10万人を超える繁栄を誇ったが、燃料となる樹木を刈りつくしたか或いは水がなくなったのか都市を維持できなくなり、放棄されジャングルに覆われていたという古代ミステリーの地でもある。

(参考映像)The Tombs of El Mirador

ハートウェグの歩いたところを地図に描いたが、1836年から1839年までメキシコを探検した。コースは、ベラクルーズからレオン、ラゴスデモレノ、アグアスカリエンテス、そして1837年10月の初めには鉱山町のボラーニョスに着いた。ここからは、サカテカスに向かい、1838年2月にサンルイスポトシに着いた。グアダラハラ、モレリア、メキシコシティと南下し、メキシコシティから英国に収集した植物などを荷造りして送り出した。この中に、サンルイスポトシあたりで採取した「サルビア・パテンス」が含まれていたのだろう。
とすると、1838年に英国に届き庭園に植えられた可能性が高まる。

さらに南下してオアハカ、チャパスに向かい、グアテマラ、エクアドル(1841-1842)、ペルーとジャマイカに旅行し、1843年に英国に戻った。

(写真)ハートウェグの探検コース(黒:第一回、赤:第二回)
  

第一回の探検が大成功だったので、同じ目的で第二回の探検として、1845年から1848年までメキシコ、カリフォルニアへの探検に出発した。
メキシコのベラクルーズに到着したのは1845年の11月で、太平洋側のマサトランに向かってメキシコを横切り、雪をかぶったOrizabas山の東側で「Hartwegia purpurea」と名づけられたランを発見した。

カリフォルニアへの出発は1846年5月まで出来なかった。英国と米国の間でビバカリフォルニアの領有問題があったためで、6月になってやっと出発することが出来、サンフランシスコ、サクラメントバレー、そしてシェラ山麓に旅をした。南方では、ソウルダット、サンアントニオ、サンタルチア山脈を探検し、耐寒性の強い植物。樹木、ランなどを採取し、これらの植物は園芸協会を満足させるものであった。

彼がメキシコの高地で種を集めた多数の針葉樹と彼がうまく耕作に導入した多数の新しいランを含むいくつかの重要な発見をした。

ハートウェグが採取したサルビア
ハートウェグは、メキシコで8種類、その他の地域で8種類、合計16種類のサルビアを採取している。そのいくつかを紹介すると。
(1)サルビア・メリッソドラ(Salvia melissodora)

(写真出典)ボタニックガーデン

メキシコ、シエラマドレ西側の山脈地帯で、チワワから南のオアハカまでの1200-2500mの乾燥した山中に自生し、そのたたずまいは上品であり灰緑色の葉からはグレープの香りがし、Grape-scented sageとも呼ばれている。すみれラベンダーの花にはミツバチ・蝶・ハチドリなどがひきつけられ、初霜の時期から春まで開花する。
日本で育てる場合は、温度管理が重要で軒下などの日当たりが良いところで育てる。
メキシコのタラフマラ族のインディオに解熱剤として長く使われてきたハーブでもある。1837年にハートウェグがメキシコで採取。

(2)サルビア・キーリー(Salvia keerlii)
  

これから人気になるサルビアで、1m×1mのワイドな潅木に育ち、夏から秋にかけて短い花序にライラック色の花が咲き誇る。灰緑色の卵型の葉は芳しい香りがする。
1839年にハートウェグがメキシコで採取。

(3)サルビア・ストロニフェラ(Salvia stolonifera)

(写真出典)
http://home.earthlink.net/~salvia1/SlvSum01.htm#stenophylla

メキシコ・オアハカの2500-3000mの雲霧林に自生する落葉性の多年生植物で、レンガ・オレンジ色の大きな花が特徴的で、1839年にハートウェグが採取した。

(4)サルビア・サビンシサ(Salvia subincisa)
   
(写真出典)Intermountain Region Herbarium Network

直立の小型のハーブであり、深い青紫の中に白いマークが入った花色が美しい。
乾燥した砂地やロードサイドに自生する。葉は鋸状の切れ込みがある細長く、この特色が別名で“sawtooth sage(鋸状の歯のセージ)”と呼ばれる。

(5)サルビア・ビティフォリア(Salvia vitifolia)

(写真出典)
http://mailorder.crug-farm.co.uk/default.aspx?pid=11649

夏から秋にサルビア・パテンスに良く似た大型の美しいブルーの花を咲かせる。葉は、緑色の大きなベルベットのようなタッチの葉なのでサルビア・パテンスと区別しやすい。メキシコ・オアハカの森林の中に生息する。1839年にハートウェグが採取。

ハートウェグがメキシコで採取したサルビアを通してみると、どれも素晴らしい。
メキシコ以外で採取したサルビアを最後に記載しておく。

Salvia derasa (Colombia)
Salvia excelsa (Guatemala)
Salvia flocculosa (Ecuador. Riobamba)
Salvia nana var. eglandulosa (Guatemala. Quetzaltenango)
Salvia pauciserrata (Colombia. Bogata)
Salvia pauciserrata subsp. pauciserrata (Colombia. Bogata)
Salvia rufula subsp. latens (Colombia.)

コメント (5)

メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No6

2010-06-21 18:57:30 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No6:ロンドン園芸協会(王立園芸協会RHS)とプラントハンター

1830年代にメキシコを探検したプラントハンターは3人いる。シリーズNo3のフランス人と思われるアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)、シリーズNo4のベルギーのリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)とその仲間達。
そして、三番目がドイツ人のプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)だった。

ハートウェグは、ドイツ人なのにロンドン園芸協会から中南米の植物相の研究で派遣され、コロンビア、エクアドル、グアテマラ、メキシコ、カリフォルニアなどを探検し、多数の植物を採取した。キュー植物園のデータに登録されているだけで、1296種もあるので膨大な植物を採取したことは間違いない。

ロンドン園芸協会の誕生とプラントハンター
ハートウェグをプラントハンターとして契約したロンドン園芸協会は、1804年に誕生し、1861年には、ヴィクトリア女王の夫アルバート公により現在の名前の王立園芸協会(Royal Horticultural Society略称RHS)に発展し、王立キュー植物園、リンネ協会などとともに世界の植物情報をリードする立場をつくった。

この活動の最初は、1800年にウェジウッド創設者の息子で熱帯の果実に興味を持っているJohn Wedgwood(1766 -1844)によって提唱され、1804年3月7日、ロンドン、ピカでリーにあるハチャード書店に7人のメンバーが集まり設立会議が持たれた。

余談だが、1600年代の中頃にヨーロッパにコーヒーが伝わり、“覚醒”と“興奮”をもたらしたようだが、英国では“コーヒーハウス”、フランスでは“カフェ”から近代の様々なものが誕生した。そこには、新しもの好きの人々が集まるので、学会、ジャーナリズム、海運保険、さらにはフランス革命、民主主義までコーヒーハウス、カフェから誕生した。
しかし園芸協会はコーヒーハウスから誕生したわけではなく、1797年に開店したばかりの本屋、ハチャード書店で最初の会議が行われた。これは、コーヒーの輸入代金の支払いが多すぎたので、紅茶に転換させた英国の国策があり、1700年代後半にはコーヒーハウスが廃れていった現実が反映している。

園芸協会設立会議の出席者は、ウェジウッドが議長で、王室庭園の管理者フォーサイス(William Forsyth 1737–1804) 、ナーサリーの経営者ディクソン(James Dickson 1738-1822 ) 、王立協会の理事長で英国の科学技術の総帥バンクス卿(Sir Joseph Banks 1743 – 1820) 、バンクス卿の友人で古物研究家・熱帯植物の愛好家のグレヴィル(Charles Francis Greville 1749–1809)、 リンネの植物分類に異をとなえた植物学者ソールズベリー(Richard Anthony Salisbury 1761-1829)、 キュー植物園の園長を務めた父親が書いた植物図鑑『Hortus Kewensis』の第二版を後に出版したエイトン(Aiton ,William Townsend 1766–1849)の7人で、英国の庭園と園芸の促進を進める協会の設立を決議した。
後に、バンクス卿は文通相手で植物の栽培に科学的なアプローチを適用している地主のナイト(Thomas Andrew Knight 1759-1838)を設立メンバーに推薦したので8名がロンドン園芸協会の創立メンバーとなる。

30代から70歳に近いフォーサイスまで年代的にバラバラなメンバー構成だが、バンクス卿につながった人脈で構成されていて、世界は広いが事を決する人脈は狭いということを示している。1788年に設立されたリンネ協会も似たような人間が設立メンバーとなっているが、異色なのはリンネ方式を否定するソールズベリーが入っていることだろう。

(写真)Thomas Andrew Knight 1759-1838
  
(出典)http://www.npg.org.uk/

この園芸協会の基盤を創ったのは、初代理事長ダートマス伯爵(George Legge, 3rd Earl of 1755 –1810)の死亡後、1811年から1838年まで理事長になった第二代の理事長ナイトの時期であり、1821年に志し高く実験的な庭園を作るためにチェスウィックにあるDuke of Devonshire'sの土地を借り、造園家として1823年にパクストン(Joseph Paxton1803-1865)を採用した。彼は後に巨大温室「クリスタルパレス」の設計者となる。(シリーズNo4に登場)
1833年には、今日「チェルシーフラワーショー」として知られる“花と野菜のショー”を開催し、優れた園芸品種を評価・表彰することを始めた。

園芸協会の活動の柱は、庭園と園芸の普及だが、海外の植物の調査研究と英国への導入も大きな目標となっている。1700年代中頃からは王立キュー植物園が海外にプラントハンターを派遣していたが、この中心にいたバンクス卿が死亡した1820年以降は活動が停滞し園芸協会及び園芸ブームで成長しているヴィーチ商会などのナーサリーがその肩代わりをするようになる。

園芸協会がプラントハンターを海外に派遣した始まりは、ナイトが理事長の時の1815年が最初だった。この頃はバンクス卿も健在なのでキュー植物園と共同の派遣のようで、その運営ノウハウを取得するには好都合だったのだろう。
派遣されたのは、東インド会社のお茶の管理官リーブス(John Reeves1774-1856)で、中国・広東で1817年から1830年までの間に700点以上ものキク、シャクヤク、ツバキなどが描かれた植物画を収集し園芸協会に送った。これは中国の植物画の最初の重要なコレクションであり西洋の科学に相当な影響を与えたという。
そして中国が開国する1842年にはフォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)を中国に派遣する。

中国以外では、1821年にドン(Don, George Jr. 1798-1856)をブラジル、西インド諸島、西アフリカのシエラレオネに、1824年ダグラス(Douglas,David 1798-1834)を北アメリカに、そして1836年にハートウェグがメキシコに派遣された。

このように、ロンドン園芸協会の生い立ちは、園芸好きな女性の姿の影も形もなく、男性それも貴族の趣味性が強く出ている。
コメント

メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No5

2010-06-18 12:11:19 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No5: ラテンアメリカ・熱帯植物への関心の高まりと園芸の技術革新

中南米の植物相の魅力、つまり熱帯・亜熱帯性植物の魅力は、18世紀にはヨーロッパでも知られるようになっていたようだ。

(写真)ヒメヒマワリの花
  

「ヒマワリ」の場合は、コロンブス後のスペイン人が1510年頃スペインに持ち込み、医師・植物学者・マドリッド植物園長で1571年出版の『新世界の薬草誌』で、タバコは20以上の病気を治し空腹や渇きを軽減するとタバコ擁護論を展開し、タバコの普及に弾みをつけたことで知られるニコラス・モナルデス(Nicholas Monardez 1493-1588)がヒマワリの育ての親といわれているが、機密保持のガードが固くスペイン国外に持ち出されるには100年以上の時間がかかったといわれている。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van 1853-1890)がヒマワリの絵を描いたのは1888年頃であり、この頃にはヨーロッパにかなり広まっていた。

中南米の植物の魅力を広く知らしめたのは、「ダリア」と、シリーズNo2で触れた1799年から1804年に実施した「フンボルトのラテンアメリカ探検隊」だった。
「ダリア」の場合は、1801年からマドリッド王立植物園の園長を死亡する1804年まで務めたカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 – 1804)が、ダリアをヨーロッパで初めて開花させ、メキシコ・中南米の熱帯植物への関心を高めるに至った。

一方、フンボルトと一緒に旅行したフランス人の植物学者ボンブラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)は、彼自身が採取した60,000種に及ぶ植物標本と、新発見した植物などを「Plantes equinoxiales」としてまとめ1808年にパリで出版しており、彼らが旅行したベネズエラ、コロンビア、ペルー、エクアドル。キューバ、そしてメキシコの植物相が1800年代の初めには知られるようになった。

19世紀の発明、巨大温室とウォードの箱
この熱帯植物の関心を寒冷地の英国・ベルギー・ドイツなどで現実に栽培できるようになったのは、産業革命の恩恵でもある“鉄”と“ガラス”と“スチーム”であった。産業革命以前は木枠の小さな温室しか出来なかったが、鉄とガラスで巨大温室がつくられるようになり、1800年代は、熱帯植物、“ラン”がブームとなる。
また一方で、室内でのシダ類などの観葉植物ブームもあったが、これは、産業革命で汚れた大気・スモッグというマイナスナ環境から生じたブームであり、小さなガラス箱で育てるなどが流行した。
このように、“鉄”と“ガラス”が巨大温室を可能とし、熱帯の植物・樹木が富の象徴として鑑賞の対象となった。

巨大温室の代表的な建築物は、庭師でもあり庭園設計家でもある英国のパクストン(Joseph Paxton1803-1865)によって設計された「クリスタルパレス(The Crystal Palace)」であり、1851年にロンドンで開催された第一回世界博覧会の会場Hyde Parkに建設された。

(写真)クリスタルパレス
  
(出典)
http://www.davidruiz.eu/photoblog/index.php?showimage=792

植物を採取するプラントハンターから見た場合にも大きなイノベーションがこの時期にあった。生きた植物を本国に送るのは大変だった。太陽と海水から甲板の植木箱を守るのが難しく、種子・球根・根などに頼らざるを得なかった。
1829年頃、英国の外科医師ナサニエル・バグショー・ウォード(Nathaniel Bagshaw Ward、1791-1868)は、蛾などのマユを保管していたボトルの中でシダの胞子が少量の肥料で発芽し成長していることを発見した。そこで木製のガラス容器を作り、その中でシダ類が育つことを確認し、この実験結果を発表した。
最初の航海での実験は1833年7月にオーストラリア、シドニー行きの船で行われた。
目的地についても容器の中の植物は元気であり、生きた植物を運搬する容器として使えることが検証された。
これを“ウオードの箱(Wardian case)”と呼び、これ以降の英国のプラントハンターにとって採取した植物の必携の運搬容器となった。特に1860年に日本に来た英国のプラントハンター、ロバート・フォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)は、発明者とは友人関係にあり率先して使っていて、足りない場合は、横浜の大工に“ウォードの箱”を作らせ採取した植物を梱包して送ったという。(その大工はこれをマネシタさんで活用したかどうかは定かではない?)
“ウォードの箱”は、プラントハンターの成果を飛躍的に高めただけでなく、スモックで汚れた英国の植物栽培・鑑賞でも、上流家庭での室内観葉植物の容器としておしゃれなデザイン開発がされ流行したという。(発明者のウォードは、これで特許をとり儲かったかも定かではない?)

(写真)“ウオードの箱(Wardian case)”
  
(出典)http://www.wardiancase.com/

1800年代の中頃までには、寒冷地でも熱帯植物を育てて鑑賞する施設、温室が出来上がり、また生きたままで運搬するウォードの箱が実用化され、世界の珍しい草花・樹木が英国などで育てられる基礎環境が整った。
後は、世界の珍しい植物を採取するプラントハンターとその費用を負担する目的なり意義が課題となるが、植物のファン・マニアが集まった園芸協会が重要な役割を担ったので、この歴史は次回に触れることとする。
コメント

メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No4

2010-06-13 13:35:19 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No4: 
複式簿記的頭脳を持った? ベルギーのプラントハンター、“リンデン”

英国よりも半世紀以上遅れているが、ヨーロッパの小国であるベルギーでも海外に派遣したプラントハンターがいた。
ベルギーが位置するネーデルランド南部は、歴史的に園芸が盛んなところでこの土壌があったのでプラントハンターを派遣したのだろうと思ったが、そうではなかった。

このネーデルランドへの園芸の普及は、ユグノー教徒の移住と関係がある。
ルイ14世が改革派教会(カルビン派)の保護を約束したナントの条約を破棄した1685年以降、ユグノー教徒が迫害を逃れフランスから移住した。ユグノー教徒が移住したネーデルランド、イギリス、南アフリカ、米国には、彼らが愛した園芸とその栽培技術を持ち込み、花を愉しむというタネをまいていったという。

では、ベルギーのプラントハンター派遣の経緯を見てみよう。

(写真)Linden, Jean Jules 1817-1898


(出典)国立ベルギー植物園
http://www.br.fgov.be/PUBLIC/GENERAL/HISTORY/lindenherbarium.php

1817年ルクセンブルグで生れたリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)は、1834年にブリュッセルの大学の科学学部に入学し、1835年の春、ベルギー政府がラテンアメリカの動植物などの科学的な調査を目的とした探検隊を募集しているのに応募した。
この探検隊には、リンデンの他に動物学としてのフンク(Funck,Nicolas 1816-1896) ,植物学としてギエスブレット(Ghiesbreght, Auguste 1810-1893)も選ばれた。

三人の中ではリンデンが最も若く、彼が18歳の時の1835年9月25日にアントワープを出発した。目的地はブラジルであり、3ヶ月かかって大西洋を渡りリオデジャネイロにはその年の12月27日に到着した。
ブラジルでは動植物を採取・捕獲し、この探検でランへの関心が芽生え生涯を通じての目標となった。
1837年3月にベルギーに戻り科学者だけでなく国王からも温かい歓迎を受け金メダルを授与された。リンデンも若いわりにはしっかりしていて、国王に採取してきた自分用の珍しい植物をプレゼントし、最高のスポンサーをこれ以降も握り続ける。

王室の庭園を飾る植物が欲しくてラテンアメリカに探検隊を派遣しているわけではないことがこれでわかるが、ベルギー政府が何故このような探検隊を組織してラテンアメリカに送り込んだかが疑問となる。この疑問を解くにはベルギーの歴史を知っておく必要がありそうだ。

ベルギーの歴史

  

現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクをベネルックス3カ国とも言うが、この3カ国の低湿地地帯をネーデルランドと呼んだ。
この地域は、中世から水路交通の便利さを生かした商業、毛織物工業そして芸術・文化が栄えたところであり、ヨーロッパの名門ハプスブルグ家(オーストリア)、スペインのハプスブルグ家、ナポレオンのフランスなどの支配下に入り、また旧教と新教徒との宗教的な対立が激しくあったところでもある。
単純化した図式でいうと、ヨーロッパの旧体制と新体制が激突した先進的な地域だと言っても良さそうだ。

ポイントだけを掴むと、ネーデルランドは、スペインとの長い戦いを経て1596年に北部7州がネーデルランド連邦共和国として独立し、1600年代の100年はスペイン・ポルトガルに替わり世界No1の覇権国家として急成長した。
その後イギリス、フランスに押され、この両国のバランスの下で振り子のように舵を取っていたが、ナポレオンが失脚した後の1813年にベルギー、ルクセンブルグを含むネーデルランド王国(現オランダ王国)が出来た。
初代の国王ウィレム1世は、新教徒が多いオランダ中心の治世を行ったため、カソリック系の住民が多いベルギーは分離独立戦争を行い1830年にフランス語を公用語としたカソリック国家として独立を宣言した。翌年の1831年にレオポルド1世(Léopold Ier、在位1831-1865)が初代国王として就任した。
言葉と宗教と経済的差別がオランダからの独立の原因だが、宗教はいまなお争いの原因として厄介な代物となっている。

独立後のベルギーは、農業国家から脱皮し、独立して10年後の1840年頃にはヨーロッパ大陸で最初に産業革命を達成したヨーロッパ有数の工業国となり、原材料の輸入と製品の輸出での海外進出に積極的となる。

リンデンのラテンアメリカ探検隊の狙い

リンデンたちのラテンアメリカ探検隊の企画は、ベルギー政府が1835年春に立案し、この年の9月には実施されているので、このスピーディな意思決定はトップダウン型の理屈抜きのところがありそうだ。
理屈は後で説明するとして、意思決定をはやめた要因は、国王レオポルド1世の長男で後のレオポルド2世(Leopold II)が1835年4月9日に誕生したことにありそうだ。探検隊企画立案のタイミングがピッタリだし、真の狙いを付け足しにして誕生を祝うイベントとして提案したのだろう。

さてその理屈だが、公式には“ラテンアメリカの動植物などの自然科学及び社会科学的な調査研究”とあるが、最大の狙いは、1831年に出来たばかりのベルギーという国の国内向けの“シンボル操作”的な国家事業であろう。
国民に建国されたばかりのベルギーという国を意識させ、現在の不満を我慢し目を国外に向けさせるオーソドックスな政治手法の一つだが、戦争ということをやらないで探検という手段をとった見識は素晴らしい。
そして、農業から工業にシフトしつつある途上での商品・製品の輸出先としてのラテンアメリカの国情・市場調査も大きな狙いだった。というよりもこちらが本線の狙いだったのだろう。
リンデンたちへの資金支援を三回も行ったので、探検隊の名を借りた市場調査は成果があったのだろう。
しかし三回目の探検旅行は、ベルギー政府の思惑とリンデンの思惑とにズレが生じたのか、ベネズエラ・コロンビアへの探検旅行の企画では政府助成金が削減された。
政府は輸出市場での商業情報の収集・調査が目的だが、リンデンたちは園芸商品のビジネス化が目的となっていったのでズレが生じたのだろう。

メキシコ探検

最初の探検であるブラジルから戻ってきて半年後の1837年9月に、三人の探検家チームは第二回探検隊のキューバ・メキシコ探検に向けてフランスのルアーブルから出港し、12月にキューバに到着した。

翌1838年からはメキシコ中部の大西洋側にあるベラクルーズからユカタン半島先端までを探検し、商業情報の収集と数多くの動植物の採取を行った。キュー植物園のデータでは、メキシコでの植物の新種採取は171種が採取されている。
また探検隊3名及びベルギーの植物学者でプラントハンターのガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)の4名は、オリザバ市の約30㎞北西部にあるメキシコ最高峰のオリザバ山に1838年8月に登頂し、最初の登山家としての栄誉も得ている。

(写真)Pico de Orizaba(5611m)

(出典)
http://www.skimountaineer.com/ROF/ROF.php?name=Orizaba

ユカタン半島あたりでリンデンは黄熱病になり回復に時間がかかったので仲間二人とわかれ、Funck とGhiesbreghtは 1840年9月にベルギーに戻った。一方、リンデンは、キューバ、米国経由で12月末にベルギーに戻った。

リンデンは、第三回のベネズエラ・コロンビア探検の時に、ジャマイカ・キューバ・メキシコ・米国を経由して帰るので、メキシコには1844年の夏場にも来ている。

リンデンが採取したメキシコのサルビア
リンデンは、メキシコで6種類のサルビアを採取・発見している。
「サルビア・リンデニー(Salvia lindenii)」 「Salvia antennifera」「Salvia biserrata」 「Salvia cacaliaefolia」「Salvia rubiginosa」などである。
ドゥ・カンドールが「植物界の自然体系序説」で記述した三つのサルビアを紹介すると。

(1)Salvia lindenii

メキシコ、グアテマラ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルの1200-2500mの山の松とオークの森の端に生息し、花色は赤からピンク。葉は灰緑色でバランスがよいサルビアだ。樹高1.8-3.0mなのでちょっと大柄かもわからない。
リンデンが1840年2月にメキシコで発見し、ドゥ・カンドールが1848年にリンデンを記念してサルビア・リンデニーと命名するが、ドイツの探検家・プラントハンター、カルウィンスキー(Karwinski von Karwin, Wilhelm Friedrich 1780-1855)の方が1835年と先に命名されていたので、現在の学名は「サルビア・カルウィンスキー(Salvia karwinskii)」となっている。

(2)Salvia cacaliaefolia

メキシコ、グアテマラ、ホンジュラスの1600-2600mの山中に生息し、リンデンがメキシコ・チアパスの山中で採取したと1848年発刊のドゥ・カンドール『植物界の自然体系序説』に記載された。(リンデンは1889年にも採取している。)
1970年代にロスアンゼルス郊外にあるハンティングトン庭園が導入してから庭に普及し始めた。
開花期は夏から秋で、青紫の花が鮮やかだ。
(写真出典)ウィキペディア http://en.wikipedia.org/wiki/Salvia_cacaliifolia

(3)Salvia rubiginosa

赤紫の萼に包まれた濃淡の違う空色の花は特色がある。開花期が冬から初春なので、温かく湿った土壌が良いという。樹高は2m。
1839年メキシコ・チアパスでリンデンが採取したが、1833年に発表された名前があり現在の名前は「Salvia mocinoi」。しかし、「サルビア・ルビギノーサ」の方が知られている。
(写真出典)http://www.flickr.com/photos/salvias/2835080864/

ラン探索の旅

1841年10月にリンデンと彼の従兄弟Louis-Joseph Schlimは、ベネズエラに向けてボルドーを出港し12月27日に到着した。ベネズエラとコロンビアで動植物の採取・狩猟を行う。この旅行で、彼はUropedium lindeniiを発見し、彼を世界的に有名にしたランに特化した園芸家として出発することになる。
既にこの探検旅行では、ベルギー政府の助成金が削減されたために、英国のラン愛好家達から資金を調達しているだけでなくパリ自然史博物館の支援ももらっており、プロのプラントハンター及びランの園芸家としてのビジネス展開を始める。当然ベルギー政府の狙いとは合わなくなってきた。
パリでの資金集めの際に、フンボルトとパリで会っていてアドバイスをしてもらう。

1843年にコロンビアとベネズエラの国境近くで、彼を有名にしたラン(学名Uropedium lindenii)を発見する。現在は属名がフラグミペディウム属(Phragmipedium lindenii)に変わっている。

実物はこちら
【説明】
・ Phragmipedium lindenii (Lindley) Dressler & Williams
・ リンドレイが『Orchidaceae Lindenianae』に1846年に記述
・ ジョン・リンデンが1843年に発見し彼の名前をつける。

ランの栽培ビジネス
1846年、リンデン29歳の時に最初の園芸会社を仲間のFunckをパートナーとしてルクセンブルグの郊外に作る。ここからランの輸入・栽培ビジネスに乗り出し、ベルギーに1100以上の異なるランを導入したというからすごい。
リンデンがランの栽培ビジネスに乗り出した時期のベルギーは、産業革命を乗り越えたブルジョアが輩出した時期でもあり、温室を作り珍しい高価なランの需要が結構あったという。

もう一人の仲間であるGhiesbreghtは、第二回探検の後メキシコに残りヨーロッパの植物愛好家とリンデンなどに植物と見本を提供する会社を作った。サボテンやランの栽培を行う。

ベルギーのプラントハンターのユニークさ

英国のプラントハンターは、プラントハンティングの現地で死亡することが結構あった。リンネの弟子達は、学者を目指しそのプロセスとして未開拓地の植物探索に出かけた。
プロのプラントハンターのイメージは、現地で亡くなった英国のプラントハンター、フランシス・マッソンやフォーレストにある。
日本の開国の時に来たフォーチュンは、余生を出版物の印税で暮らしたというが、珍しいパターンだと思う。

ここに登場したベルギーのプラントハンターは、三人とも植物学者を目指さず、プロのプラントハンターをも目指さず、園芸のビジネス化を目指した。
スポンサーがいて二年から三年の冒険旅行をして決算をするという、一発勝負型のビジネスに魅力を感じなかった何かがあったのだろう。
この魅力を感じなかった何かが新しい世界を切り開く原動力となるが、確固とした先例がある英国ではなく、誕生したばかりで急速に産業革命を成し遂げた小国ベルギーだったことが影響しているように思われる。

リンデンたちには近代の企業会計としては当たり前の“複式簿記”的な思考があったようだ。この“複式簿記”は、12世紀ころのイスラムの商人によって発明され、ヨーロッパに普及したのは大航海時代の15世紀末イタリアからといわれる。
それまでは、東洋への1回の航海で、投資金から準備に使った費用などを引き、船が帰ってきてコショウなどを販売して得た売上金からそれまでにかかったお金を引き、残ったお金を投資に比例して分配し清算をする。船が沈んだらそれまでで出資者が損をする。
これを一航海ごとの現金の収支しか記述しない“単式簿記”といい、今でも家計簿で使われている。

リンデンたちは、パトロンを見つけて出資してもらい、一回の探検旅行ごとに清算する方式では自分たちに合わないということがわかったようだ。或いは、小国ベルギーではパトロンを毎回見つけるのは難しいということを悟ったのだろう。
そこで、出資は中南米からランやサボテンなどを輸入し、栽培し、販売する園芸のマーケティング会社にしてもらい、この会社は、中南米に新種のランなどを採取するコレクターを育て契約しベルギーに送り出させ、自分たちの育種園で栽培して増やすだけでなく、ベルギーでは、届いた新種のランなどを、植物学者に学名をつけてもらい認知してもらう作業をし(認定するのに6年もかかったそうでこれではビジネススピードにあわないので学者をはずすようになった。)、その後に博覧会などに出展し、ガーデン紙などに広告を出す。
こんな活動をベルギーだけでなくパリにも支店を出して行うので、グローバル企業活動のはしりをいっていた。
小さい(小国)、遅れている(後進国)、知り合いがいない(パートナーなし)などのネガティブな要素は、新しい発想を気づかせ行動させるエネルギー源であり悲観することはないということを実践してくれたリンデン達三人のパーティだった。

意外なことに、大作家で詩人のゲーテは、1775年11月に請われてワイマル公国に行くが、1782年にはドイツ皇帝により貴族に列せられワイマル公国の宰相となった。そして、複式簿記の重要性に気づき学校教育に取り入れたそうだ。
現在の日本でも単式簿記の頭脳しか持たないビジネスマンが結構多いが、1800年代のベルギーでは新しい技術だったのだろう。
コメント

メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No3

2010-06-05 10:54:23 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No3: 
サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana )を発見したアンドリューの謎??

メキシコのサルビアの発見(といっても現地人ではなく西欧人によるが、)の記録は1829年から始まる。そして初期の頃は、採取したコレクター或いはプラントハンターの人物が良くわからない。
その一人にアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)がいる。
名前からフランス人と思われ1833年頃に活躍した人物としかわからない。

アンドリューは、1833年から1834年4月頃にメキシコ南西部及びサン・フェリッペ(カリフォルニア)でサルビア7種を採取している。この中で現在でも栽培されている有名な品種があり、それが「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」だ。

(写真)サルビア・メキシカーナの園芸品種“ライムライト”
  

「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」は、メキシコ中部の800-2000mの地域の森の端・ふちに生息し、“メキシカンセージ”とも呼ばれる。
同じ地域に生息する「サルビア・イエローマジェスティ」の場合は、森の中に入りちょっとした空白地での木洩れ日で大きく成長する生き方をするが、「サルビア・メキシカーナ」は、森の中に入っていかないので、森に守られない代わりに草丈をあまり大きくさせずに森の周辺で光りを吸収する草丈などを形成したのだろう。

庭に導入されたのは1970年代と遅く、バークレイにあるカルフォルニア大学の植物園のために、メキシコの中部にあるQuerétaro州から1978年に愛称ボブ(Robert Ornduff 1932-2000)によって持ち出されたという。
ボブは、カルフォルニア大学バークレー校で30年間も務め、学部長、大学付属植物園長などを務めたカルフォルニア植物相の権威でもあった。

推理?? “G・アンドリュー”
「サルビア・メキシカーナ」を採取したという“G・アンドリュー”はどういう人物なのだろうかということが気になる。

彼の名前が登場するのは、スイスの植物学者ドゥ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)の1852年に出版された大作のシリーズ著書『植物界の自然体系序説』Vol.13に書かれている。
ドゥ・カンドールが死亡してから11年後に出版されているので奇異に思うだろうが、彼の息子が父の遺志を継ぎ残された原稿を編集出版したのでこうなった。
そこには、“1833年にメキシコで植物採取をしているが、アンドリュー自身は著作がない”と書かれているだけで、“G・アンドリュー”が何者かを引き継がなかったようだ。

こうなると関連するデータ、情報から推理をせざるを得ない。
“G・アンドリュー”は、ドゥ・カンドールと同世代か若い年代だと思われるので、時代背景を知るためにドゥ・カンドールの人物像から描いてみよう。

(写真)Augustin Pyramus De Candolle
  

ドゥ・カンドールは、リンネと並び称されてもよい植物学者だと思う。彼のオリジナルな考えである“自然との競争”はダーウィンに影響を及ぼし、また、『植物界の自然体系序説』でリンネの植物体系の矛盾を修正する考えを出した。

ドゥ・カンドールの家系は、フランス・プロヴァンス地方の旧家で16世紀後半の宗教的迫害でスイスに逃れた。フランス革命後の1796年、彼が18歳の時にパリに来て、医学・植物学の勉強をする。
このパリでフランスの植物学者で裁判官のレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800)、美しいバラの版画などを残した版画家のルドゥーテ(Redouté Pierre-Joseph 1759-1840)と出会い、編者レリティエール、植物画ルドゥーテ、コピーライター、ドゥ・カンドールといった関係が出来上がった。

この三人の関係だが、バラの絵師ルドゥーテを育てたのはレリティエールで、自分の著書の植物画を描くアルバイトを探していたところ王立植物園博物館で絵画技師をしていた若き画家ルドゥーテを見出した。
レリティエールは、植物画を描くのに必要な植物学をルドゥーテに教え、イギリスまで連れて行った。もっともこのイギリス行きは、1789年に、友人から預かった植物標本をフランス革命の破壊とスペイン政府からの返還要求から守るためにイギリスに逃げたのだが、帰国後1800年にパリ郊外の森で暗殺された。
ルドゥーテは、このイギリスで輪郭線を取り除く銅版画の新しい技法を学び、独特の美しい植物画を描く世界を確立したのだから恩人に出会ったことになる。
フランスに戻ってからのルドゥーテは、マリーアントワネット皇后のところでの働き口を紹介され、ここから、ジョゼフィーヌ皇后、マリー・ルイーズ皇后と三代の皇后に仕えることになる。
レリティエール暗殺後は、ルドゥーテが主導で1802年『ユリ図鑑』などのコピーをドゥ・カンドールが書くなど、当時のボタニカルアートとサイエンスの極みを体験することになる。
ドゥ・カンドールは、1816年にジュネーブに戻り大学で植物学を教えながら、植物分類の自然な体系の研究とその成果の著作に専念する一方で、植物園、博物館などの設立を行う。

さて、ドゥ・カンドールと“G・アンドリュー”との接点だが、G・アンドリュー”は、211種の新しい植物をメキシコで採取しているので素人の植物採取者ではなさそうだ。ドゥ・カンドールは、スイスの前に1806-1815年までモンペリエ大学の植物学教授だったので、“G・アンドリュー”とはフランスかスイスが接点になりそうだ。

そこで、“G・アンドリュー”が活躍した1830年前後のフランスとメキシコの状況を確認してみると、
ナポレオンが失脚した後に、フランス革命で斬首されたルイ16世の弟ルイ18世が王位につき1815年にブルボン朝が復活した。貴族や聖職者を優遇し言論の弾圧などの政策をとったので、市民革命といわれるフランス革命を推進したブルジョアと利害が衝突し、1830年7月に“7月革命”が起こりブルボン王朝は崩壊した。

一方のメキシコはといえば、コロンブス以降300年間スペインの支配下にあったが、ヨーロッパ大陸の争いが影響し、ナポレオンがイベリア半島に進攻し、兄のジョゼフをスペイン国王ホセ1世に据える。当然スペインの植民地もナポレオンの支配下となるがことはそう簡単ではなく、独立運動が中南米のスペイン植民地で起きた。
メキシコでは1810年にミゲル・イダルゴ神父が主導した独立革命がおき、ナポレオンが失脚するとスペインが盛り返したが1821年に独立を獲得した。
以後メキシコは、スペイン、フランス、アメリカ及びメキシコで生れた白人等との権力闘争・戦争が長く続くことになる。

“G・アンドリュー”の正体が明らかでないということは、本人が自分の正体を明らかにしたくないか、或いは、ドゥ・カンドールが明らかにしたくない何かがあったと考えると、一つの可能性として1830年7月に起きたフランスの7月革命で失脚した階層(ブルボン家関係者、貴族、聖職者など)がメキシコに移住したか一時的に避難したということが考えられる。
特に聖職者は、知識があり奥地に入り活動するのでプラントハンターとしてうってつけな職業だ。

これ以上の手がかりがないが、同時代で、名前にGがつくアンドリュー(Andrieux)は一人いる。フランスの劇作家・詩人・弁護士のFrançois-Guillaume-Jean-Stanislas Andrieux(1759‐1833)だ。
彼はフランス革命後ロベスピエールが主導する急進派のジャコバン党に属し最高裁の判事を務めたので、1794年の反対派クーデターの前にパリを脱出して田舎に逃げたこともある。晩年は科学アカデミーの教授として過し1833年に亡くなった。

“G・アンドリュー”は彼ではないだろうが、彼のようなキャリアをもつ人間のような気がする。この時代のフランスは(メキシコもそうだが)、命を守ろうとしたら逃げるか主義主張を明確にしてはいけない時代だった。

(写真)コメディフランスのロビーで彼の悲劇『ジュニアスブルータス』を読んでいるフランソア・アンドリュー(1759~1833)
  


「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」の代表的な園芸品種である“ライムライト(Limelight)”。その名前の“ライムライト(Limelight)”の意味は、電気がない時代に舞台で使われていた照明器具をさし、転じてスポットライトを浴びる“栄光”をも意味するようだが、まるで劇作家フランソア・アンドリューの舞台にあるようだ。
そして、激動期は、スポットライトを浴びる中心にいるとその組織とともに運命が左右されるが、「サルビア・メキシカーナ」のように周縁にいると逃げやすく生き延びやすいということを教えているのだろうか?

コメント (2)