モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ その10番外

2007-12-01 20:42:45 | フェルメール
その10(番外): 2008年8月 上野の美術館で フェルメールに会える!

やっと酔いがさめ、新聞を見ていたら、
一面に素晴らしい企画が発表になっていた。

なんと、フェルメールの作品6点が来年日本に来るという。
しばらくは、日本でフェルメールに会えないかと思っていたが・・・・


候補作品は、

『アトリエの画家(絵画芸術)』ウィーン 美術史美術館蔵
『リュートを調弦する女』ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵
『ディアナとニンフたち』ハーグ マウリッツハイス美術館蔵
『小路』アムステルダム アムステルダム国立美術館蔵
『ワイングラスを持つ娘』ヘルツォーク・アントン・ウルリッヒ美術館蔵
『マルタとマリアの家のキリスト』エジンバラ ナショナル・ギャラリー蔵

行間には、フェルメールの作品6点以上を集めるという意気込みが出ており、
実現したら、素晴らしい企画となり、海外からもフェルメールフアンが来そうだ。

この企画は、
朝日新聞創刊130周年事業企画というから
感謝とともに、おめでとうと言いたい。

素晴らしい。
まだ酔いがさめていないみたいで身体が熱い。


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フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ その9

2007-11-25 10:11:42 | フェルメール
その9 (A ending): ここで、フェルメールに会える!

ゴッホの『医師ガシェの肖像』を124億円で購入した大昭和製紙名誉会長の斉藤氏は、
「自分が死んだら棺おけに一緒に入れて焼いてほしい」と言ったそうだ。

フェルメールが愛したブルー。
このブルーの原料は、”ラピスラズリ(lapis lazuli)”という鉱物で、
ツタンカーメン王の黄金のマスクにも使われていることは前にも触れた。

確かに、
ツタンカーメン王達は、生前と同じ暮らしが出来るように、様々な財宝を埋葬して
死後の世界に持参した。

現在においても、頂点を極めたヒトに限らず
例えそれが貴重なもの・高価なものであっても、自分が愛したモノと一緒にいたい。
という欲求は、わかりやすい欲求だと思う。
遺族は、出来る限りこの遺言をかなえてあげたいと思うだろう。

ゴッホの名作『医師ガシェの肖像』を自分の棺おけに入れて焼くという発言には、
賞賛は少なく、非難が多かったそうだ。
“人類の遺産”を個人が消費・消耗していいのか?
というのが非難の論点のようだ。
さすが精神貴族だね~。などという声援は聞こえてこなかった。

結局は、斉藤氏が死亡しても棺おけの中に一緒に入れて焼かれることはなかったが、
遺族ではない社会という存在が異議申し立てを行ったのだから、
社会として、個人の自己実現と、残しておきたい社会資産の維持管理との調和を考える必要がありそうだ。

個人財ではなく公共財として保有する“美術館“という装置が、この役割を担うようになったが
個人・家の財産管理から脱して社会の装置となったのは、
1789年のフランス革命以降であり、
フランス国立美術館(現、ルーブル美術館)が設立され、1793年から一般公開された。
フェルメールが死亡してから100年以上経過した後のことだ。

それまでも美術品を収納する場(美術室)がなかったわけではない。

ヒトラーが愛したフェルメール作『アトリエの画家』は、ナチスが略奪した美術品とともに、
オーストラリア・ザルツブルク近郊の岩塩坑に秘匿していたが、
戦後オーストラリアに返還され、現在は、ウィーン美術史美術館が所蔵している。
この美術館の出自は、
第一次世界大戦まで中世・近世の中央ヨーロッパを支配した、
ハプスブルク家の膨大なコレクションを管理するところであり、
一般公開が初めてされたのは、1891年というから
ルーブル美術館の公開から、さらに約100年も後となる。

さらに、
1764年にロシア・ロマノフ朝のエカチェリーナ2世が収集を始めたのが起源となる
エルミタージュ美術館が一般公開したのは、1917年ということだから

貴重なもの・価値あるものは、秘蔵される。
公開なんてとんでもない。
或いは、愛用品は、死者とともに埋葬され死蔵された。

美術・工芸品を蓄積する“場”が“美術館”として創られ、体系化付けられ“公開”される。
このこと自体が新しい出来事であり、人類の知恵の結晶の一つでもある。

機械には、潤滑油が必要なように、人々には、感動する優れモノが必要だ。
美術館は、感動という素晴らしいモノを生産する装置となり、
世界中の人々に潤いを与えてくれる。

1696年、フェルメールの作品33点の内21点が、アムステルダムで競売にかけられ散逸が始まったが、
以後、様々な所有者がドラマをつくり、現在は、世界各国の美術館が所蔵している。
個人所有されると公開されないということが起きるが、
フェルメール作品で本物と鑑定されている作品に関しては、全て観ることができる。
稀有でもあるし、素晴らしいことでもある。

これまで、近くに行っても、フェルメールに会いたいという目標がなかったので素通りしたのが
今となっては残念だ。


(表)フェルメール33点の絵画の所蔵先
<ヨーロッパ>
·アムステルダム国立美術館(アムステルダム) 4点『牛乳を注ぐ女』他
·マウリッツハイス美術館(ハーグ) 3点『真珠の耳飾りの少女』他
·ドレスデン美術館(絵画館)(ドレスデン) 2点『窓辺で手紙を読む女』他
·ベルリン美術館(ベルリン) 2点『真珠の首飾り』他
·ナショナルギャラリー(ロンドン) 2点『ヴァージナルの前に座る女』他
·ルーヴル美術館(パリ) 2点『天文学者』他
·ブラウンシュバイク アントン・ウルリッヒ公美術館 1点『二人の紳士と女』
·バッキンガム 宮殿王室コレクション 1点『音楽の稽古』
·エジンバラ ナショナルギャラリー 1点『マリアとマルタの家のキリスト』
·ダブリン ナショナルギャラリー 1点『手紙を書く女と召使』
·ロンドン ケンウッドハウス 1点『ギターを弾く女』
·シュテーデル美術館(フランクフルト・アム・マイン) 1点『地理学者』
·美術史美術館(ウィーン) 1点『アトリエの画家』

<アメリカ>
·メトロポリタン美術館(ニューヨーク)5点『窓辺で水差しを持つ女』他
·ニューヨーク フリック コレクション 3点『仕官と笑う女』他
·ナショナル・ギャラリー (ワシントン)(ワシントンDC) 2点『天秤を持つ女』他
·イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(ボストン) 1点『合奏』


美術品などの“公開”は、
所有権は移転しないが、個人・家の資産管理から脱却し、
国の資産、社会の資産、人類の資産となることを意味する。
所有する財産価値だけでなく、観ることによる心の健康・豊かさ、ヒトとしての高次な欲望へのガイドなど
生き方・生き甲斐のマネジメントに貢献するようになる。と考える。
歴史的に、パトロン・戦争(略奪)・バブルなどで翻弄されてきた美術界だが
歴史のゴミを引きずっている怪しげなところを浄化し、心を豊かにする産業としての基盤をつくって欲しい。
金持ち・欲持ちの一人の人間の所有するだけの満足を満たすのではなく、
観る満足、語る満足、そこに行く満足を最大化することを事業としてもっと取り組んで欲しい。
と思った。



フェルメールとその時代のオランダ
その1:フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展
その2:近代資本主義の芽生え
その3:遠近法は15世紀に発見された!
その4:リアリズムを支えた技術、カメラ・オブスキュラ
その5:プロテスタンティズムと風俗画誕生
その6:フェルメールのこだわり “フェルメールブルー”
その7:フェルメールを愛した人々&世俗のフアン
その8:アートを描く視線、アートを欲する欲望
















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フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ その8

2007-11-22 08:22:58 | フェルメール
その8:アートを描く視線、アートを欲する欲望

現在のアメリカでは、貸してはいけない人まで住宅資金を融資してしまった。
この投資・融資回収が難しい局面に至っており、
バブルがはじけそうな危ない状況にある。
何とか庶民まで巻き込まないでプロの世界で退治してほしい。

日本でもかってバブルがあった。
1986年の末から1991年2月までをバブル景気ということにするが
余剰なお金は、株・土地に向かった。
絵画などの美術品・工芸品・ブランド品など、それまで無縁だった庶民レベルまで買いあさり
“ジャパン・アズ・No1”を楽しんでいた。

著名なところでは、
1987年 安田火災海上(現損保ジャパン) が、ゴッホの『15本の向日葵(ひまわり)』を
3992万1750ドル(当時のレートで約58億円)で購入。
1990年 大昭和製紙名誉会長斉藤氏によってゴッホの代表作『医師ガシェの肖像』を
8250万ドル(当時のレートで約124億円)で購入した。
バブル期は、文化的な日本・私に、豊かさと誇りを感じ自慢することが出来た。

しかし、バブルがはじけ、以後10年は、資産デフレで苦しい思いをした。
浮かれて買ってしまった資産は、買手がいないため一気に値段が下がり、
これまでの蓄積を投げ捨てざるを得なくなった。

“汗”が“泡”となって落ちるということでは、清潔になったのだろうが、
過剰を清算するのに、戦争(破壊)・バブル(消える)・廃棄などでのクリーニングは困ったことだ。
国レベルでの覇権主義がなくなり、グローバルでのフェアーな市場が形成されれば、
ここで、清算されるのであろうか?

オランダは、近代資本主義先進国であるだけでなく、
その影としての“バブル”先進国でもある。
1602年 世界初の株式会社としてオランダ東インド会社設立から
イギリスとの覇権戦争に敗れるまでの約1世紀は
オランダが唯一の覇権国家であり、ヒト・モノ・カネが流れ込み、
バブル景気ともいえる状況のようだった。
余剰のカネは、やはり美術品にも向かったようだ。
王侯貴族しか出来なかった生活のシンボルが美術工芸品で、
時代が21世紀になっても同じだから、ヒトは、あまり進化していないのかもわからない。
或いは、生存欲求のなかで高度な欲求なのかもわからない。

こんな中で、
1637年、フェルメールが5歳の頃、世界初のバブルがはじけた。
この時期にすでにチューリップの“先物市場”があったというから驚きだ。
来年の春には、チューリップの球根をいくらで売ります・買いますなどの約束がなされ、
これが実現できないほどの異常な人気で高価格になり、
庶民を巻き込んでしまったため、売る球根がない、買うお金がないということで
破綻が起きてしまった。
日本のように、株・土地への過剰投資という、資本・生活の基本でのバブルでなかったため、影響は軽微であったようだ。

オランダというとチューリップのイメージがあるが、
原産地は、天山山脈であり、ここを支配したオスマントルコがヨーロッパに広めたようであり、
17世紀初めのオランダでは、園芸マニアだけでなく裕福な市民レベルまでチューリップ人気が広まったようだ。

マニアの市場に、生産技術の革新などがない段階でビギナーが大量に入ってくると、
無理が生じるのでチューリップのようにトラブルが発生するが、
17世紀オランダの絵画市場は、専門特化した分業体制で裕福な市民の欲求に答える
画家サイドでの生産革新があった。
具体的には、物語画、歴史画、風景画、海景画、風俗画、静物画、生物画など
一人の画家がいくつもの領域を描くことがなく、専門特化していた。
画家としての生活の維持が出来るほど絵画ニーズがあった証であり、
専門特化したからこそ、量産体制が出来たのだともいえる。

17世紀オランダの画家の絵を見るにつけ、
写実主義という近代的な視線を持ち合わせている。
客が画家を育てたのか、画家が絵画市場を読んでいたのかよくわからないが、
共通感覚として写実主義があったと思われる。

フェルメールは、ほぼ200年間忘れられていた画家だったが、
200年後になって、やっとわかってもらえたというのが良さそうだ。
17世紀オランダの画家達とは、一線を画した写実的な絵画だと思う。


これまで、
フェルメールと、フェルメールが活動した時代のオランダというテーマで書いてみたが、
1600年代なのに昨日の延長上にある感じがしてならない。
しかしながらこれは後付け的で、
地中海、バルト海から一気に世界が拡大し、
大西洋、インド洋、太平洋へという、地理の拡大は、
領土・権益の拡大という資源の拡張をもたらし、平和・豊かさではなく、戦争・競争をもたらした。
また、頭脳(知覚・認識・体系化・再現・・・・)の拡張でもあった。

15世紀からの大航海時代以降は、
世界のNEWを集め・集積・体系化する“博物学”の時代でもあり、
新たな知覚・認識・感覚のフレームを切り、構図として焼き付ける新しいアートの時代でもあった。

急成長し、膨張するオランダの世界
この社会・生活を支えるたった一人の無名の女
家事をする女(牛乳を注ぐ女)、音楽を楽しむ女(リュートを調弦する女)、手紙を読む女(青衣の女)、・・・・・・・・・
17世紀にこのような絵を描けるフェルメールは、
男女共同社会の実現などがやっと叫ばれている、21世紀を透視する目を持っていたのだろう。
いま(現在)を語るのではなく、存在を語っているので、
時間を越えたのだと思う。

フェルメールの視線形成には、
オランダ、しかも成長著しいアムステルダムでなく、没落していく古都デルフトという
舞台があったことも重要だと思った。
レンブラントは、アムステルダムで物語画・歴史画を描いた。
フェルメールは、古都デルフトで一人の女を描いた。


フェルメールとその時代のオランダ

その1:フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展
その2:近代資本主義の芽生え
その3:遠近法は15世紀に発見された!
その4:リアリズムを支えた技術、カメラ・オブスキュラ
その5:プロテスタンティズムと風俗画誕生
その6:フェルメールのこだわり “フェルメールブルー”
その7:フェルメールを愛した人々&世俗のフアン



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フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ その7

2007-11-17 09:09:38 | フェルメール
その7:フェルメールを愛した人々&世俗のフアン

フェルメールは“サザエさん家のマスオさん”だった。
彼は、1653年カタリーナ・ボルネスと結婚し、1675年12月15日43歳でなくなるまで、妻の実家に同居していた。
彼が安心して絵を描けたのも、義母が生涯最大のパトロンであったからだ。

しかし、フェルメールの死後は、悲惨なことが多かった。
残された家族は、借金返済などで絵を手放さざるを得ず
『ギターを弾く女』 『手紙を書く女と召使』はパン代の代わりに手放し、
最も手放したくなかった『アトリエの画家(絵画芸術)』も手放さざるを得なくなった。

この調整をしたのが、フェルメールの遺言執行人(管財人)として登場した、
アントニ・ファン・レーウェンフック(Antoni van Leeuwenhoek 1632年~ 1723年)だ。
彼は、独学で世界ではじめての顕微鏡をつくり、
動物・植物以外に“微生物”があることを発見した、微生物学の父とも言われる。
また、いろいろ顕微鏡でのぞいているうちに、精子まで発見してしまった。
男だよね~。
彼は、デルフトの役人も勤め、フェルメールと同年齢であった。

1687年、未亡人カタリーナが死亡。
1696年、21点のフェルメールの作品がアムステルダムで競売にかけられた。

『アトリエの画家(絵画芸術)』を初め、
フェルメールの33作品という数少ない絵は、この後、数奇な運命をたどる。

1866年までフェルメールは、忘れられた過去の画家となっていた。
光を当てたのは、フランスの批評家トレ=ビュルガー。
これ以降、再評価され、取引の値段もうなぎのぼりとなった。

フェルメールの絵は、意外な人達に愛されたようだ。
たとえば、ヒトラー、テロリスト、窃盗犯、贋作作家などである。

最も意外なのは、
1974年には、フェルメールの絵『ギターを弾く女』『手紙を書く女と召使』などが盗難にあい、
テロリストとして逮捕されていたアイルランド共和国軍暫定派のメンバーを
ロンドンから北アイルランドの刑務所に移動させることを
交換条件として出してきた。
フェルメールの絵の価値は、
自分達(テロリスト)の要望を受け入れると考えた人間が企画・実行しており、
テロリスト側に、偉い人を人質にするより高い効果が期待できる。
ということだ。
世俗を超越したフェルメールのフアンがテロリスト側にいたということだろう。

贋作者に至っては、
フェルメールを誰よりも理解し、かつ、そっくり真似られる高度な技術を持ち
さらに、市場が求めるニーズを知っているという
フェルメールに同化し、さらにはフェルメールを超えたいフアンがいた。
贋作者ハン・フォン・メーヘレン(Han van Meegeren 1889-1947)だ。
フェルメールフリークが求める、フェルメールが描いていない作品を制作し、
フェルメールならこんな作品を描くだろうという評論家・専門家の想像に答えたのだ。
『エマオのキリスト』がそのピカ一の贋作だ。
というよりは、オリジナルなので、フェルメール作というブランドの盗用に該当する。
“だまされた”というよりは“信じた”落とし穴は、
フェルメール作とされている作品は33と寡作であり、しかも、宗教的な物語画が少ない。
まだ未発見の作品があるのではないかというところにあった。
この作品は、1938年ロッテルダムのボイマンス美術館が過去最高の価格で購入した。

意外性がなかったのが、ヒトラーだった。
ヒトラーは、フェルメールの大のフアンだった。
特に、『アトリエの画家(絵画芸術)』がお気に入りで、欲しくてしょうがなかった。
当然、略奪をしたのかと思ったら、
ウィーンのチェルニン伯爵家から、1940年に150万帝国マルク(66万ドル)で購入していた。
初恋の女性に口が聞けなかったというのに近い、ヒトラーの思い入れがそこにはあったようだ。
チェルニン伯爵を恫喝しようかという側近の意見を退けたようであり、
若い頃に絵描きを目指したヒトラーの、フェルメールフアン心理が出ているようだ。
成功者が田舎にモニュメントを作る例通りに、
リンツに計画していた、ヒトラー総統美術館オープンがかなわず、
『アトリエの画家(絵画芸術)』は、そこに飾られることはなかった。

フェルメールの代表作といってもよい『アトリエの画家(絵画芸術)』は、
第二次世界大戦終了後、オーストラリア・ザルツブルク近郊の岩塩坑で発見され、
1946年からウィーン美術史美術館の所蔵となった。

ウィーン美術史美術館は、フェルメールの代表作を所蔵しているだけでなく、
わたしの大好きな、ブリューゲルのコレクションがあるところでも知られている。

フェルメールとその時代のオランダ
その1:フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展

その2:近代資本主義の芽生え

その3:遠近法は15世紀に発見された!

その4:リアリズムを支えた技術、カメラ・オブスキュラ

その5:プロテスタンティズムと風俗画誕生

その6:フェルメールのこだわり “フェルメールブルー”



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フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ その6

2007-11-12 10:01:05 | フェルメール
その6:フェルメールのこだわり “フェルメールブルー”

フェルメールは、青と黄色の組み合わせを愛した。
『牛乳を注ぐ女』  『真珠の耳飾りの少女』  『恋文』などは、
青と黄色が最も目立つ使われ方がされており、
それがゆえにか、際立ったオーラを発している。

国立新美術館で見た『牛乳を注ぐ女』の大きさは、45.4×40.6cmと決して大きくないが、
ライトに照らされた絵は、
黄色の上着が窓からの光りを受けてキラメキ
スカートの上にかけている青のエプロン的なものが、黄色の上着を際立たせている。

フェルメールが愛した青を、
“フェルメール・ブルー”というそうだが、
フェルメールの死後、
相当な借金が残った原因となっているほどとても高価だったようだ。

このブルーの原料は、“ラピスラズリ(lapis lazuli)”という鉱物で、
古代ローマの植物学者プリニウスが「星のきらめく天空の破片」と
表現するほどの美しい宝石で、
ツタンカーメン王の黄金のマスクの鮮やかなブルー
現代でも、トルコ石とともに12月の誕生石として使われている。

この鉱物をすりつぶし、溶液で溶かし、植物油脂でといたものが
“ウルトラマリンブルー”で、通常の青い絵の具の100倍の値段だったそうだ。

フェルメールは、この高価な“ウルトラマリンブルー”を下地に使うなど
隠れたところでも使用しているというから借金が残ったわけだ。

“フェルメールブルー”との因果関係は確認できなかったが、
フェルメールが生まれ育ったデルフトは、白地に青模様の陶磁器が有名だ。
この青を”デルフトブルー”という。

デルフトブルーコーヒーカップ


デルフトでの陶器生産は、16世紀にイタリアから陶器の製法が伝わり、
1603年オランダ東インド会社が設立されることにより、中国から磁器が伝わり、
独特なデルフト焼きが出来上がった。

フェルメールの活躍と時期を同じにし、“ブルー”へのこだわりが
今日でも価値を高めている。
しかも、デルフト、フェルメールのブルーへの影響・貢献は
アジアであった。
デルフトブルーには、中国の磁器が、また絵柄には日本の伊万里焼が
フェルメールが愛したブルーの原料は、アフガニスタンが産地であり、
海を越えてきたブルーだから“ウルトラマリンブルー”といわれた。

大航海時代の先端情報・技術がオランダに集まり、
フェルメールは、この基盤の上で、光と構図と絵の具とで
写真かとも思うリアリズムで対象を捉え、
生き生きした人間を色っぽく描いている。

レンブラント(1606年―1669年)は、フェルメールよりちょっと先輩に当たるが、
暗黒に一筋の光を描くことが多く、重く・苦しい呪縛を感じる。

17世紀を代表する画家二人が同時期のオランダで活躍し、
経済の成長発展は、その上での文化の大きな花を咲かせるという
社会科学的な原則が働いている。

フェルメールとその時代のオランダ

その1:フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展

その2:近代資本主義の芽生え

その3:遠近法は15世紀に発見された!

その4:リアリズムを支えた技術、カメラ・オブスキュラ

その5:プロテスタンティズムと風俗画誕生



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フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ その5

2007-11-11 08:30:24 | フェルメール
その5:プロテスタンティズムと風俗画誕生のわけ

フェルメールは、1675年、43歳の若さで亡くなっている。
現存作品は33点とされ、プラス3点以上は真贋の決着が付いていない。
33点のうち、25点が風俗画であるが、
画家としてのスタートは、宗教的要素が強い物語画からスタートしたようだ。

今風に言えば、大画家は宗教的な物語画を描くが、オランダにはパトロンがいない。
オランダにあったのは、絵画の市場であり、画家の組合であり、顧客となる裕福な貴族ではない市民がいた。
この顧客の好みは、教会に飾る神話的な物語画ではなく、自分達を描いた風俗画のようだった。

わかったようでわかりにくい“風俗画”。
定義から確認しよう。

“風俗画”は、人々の暮らしを描いた絵であり、歴史考証では大変重要な資料となる。
人々の暮らしが、当初は脇役で描かれていたが、
主役として描かれるようになった時代がある。

日本では、安土桃山時代(1568年~1598年)から
ヨーロッパでは、16世紀後半からのオランダから

共通しているのは、おおよその年代と商業が活発化し、裕福な階層が誕生したことだろう。
つまり、平和が農産物などの生産を高め、これを流通させる商業が起こり、
裕福な階層が誕生した。
この人たちは、プレステージを誇示するために絵画の新しい購入者となり、
近代風俗画が成立した。
という。

余談だが、
わが日本では、江戸時代になると裕福な商人だけでなく庶民まで購入できた
浮世絵版画(版画印刷)へと発展し、ヨーロッパの画壇に影響を与えた。
まさに、江戸時代は、庶民にとって文化的で、最低生活水準が現在以上に高い
世界でも暮らしやすい社会ではなかったかと思う。

国立新美術館での17世紀オランダ風俗画は、
庶民の生活が描かれており、
酒を飲んで酔っ払っているおやじと飲み屋のやり手ババーと女給。
よく見ると酔っ払いの上着の財布を狙っている。
など
今見て不思議なことはないが、その当時は画期的ではなかったと思う。

自分達を主役として描いた風俗画。
その絵のテーマは、プロテスタントの教えと無縁ではなかったようだ。
また、結果的に近代資本主義の最初の芽でもあったともいえる。

偶像的な宗教画でもなく、神話的なものでもなく、
プロテスタント(=カルビン主義)の教えを具現化する、
“世俗の職業の尊さ”、“生活は質素で禁欲的であること”などの影響がある。

労働の尊さ、娯楽・休養の大切さ、羽目をはずすとポケットの財布が狙われるという教訓。
自分達が主役の風俗画は、単に絵画ではなく、
人間社会の新しいあり方を世に問うものでもあった。
と思う。
この価値観は、20世紀第2次世界大戦後にやっと花を開いたが、
フェルメールの晩年には、イギリスとの戦争で青息吐息になり、
その後の重商主義・帝国主義で、個人が主役の時代は去ってしまった。

フェルメールは、オランダが世界を制覇し、イギリスにその座を奪われるまでの
オランダの栄光と没落の時代に、オランダ南部のデルフトに生まれ育ち死んでいった。

人が生きていく生き方。
これが社会となり国となり地球となる。
この新しい生き方を描いたから、フェルメールの“牛乳を注ぐ女”は輝いていた。
17世紀オランダの風俗画家の作品も輝いているのだろう。


フェルメールとその時代のオランダ

その1:フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展

その2:近代資本主義の芽生え

その3:遠近法は15世紀に発見された!

その4:リアリズムを支えた技術、カメラ・オブスキュラ



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フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ その4

2007-11-04 05:34:21 | フェルメール
その4:リアリズムを支えた技術 カメラ・オブスキュラ(camera obscura、camerae obscurae)

ローマの時代は、あらゆること、あらゆる領域で
近代社会のグローバルスタンダードを創った。
と思う。
この根本は、現実を見つめ、これをどう改善・改革していくかという
今で言う“Research makes difference”が出来ていたと思う。

この現実を観察し、推論し、実験・体系化して、発表する。
一連の流れが、キリスト教が普及し支配した中世には、
前にも横にも進まなかったようだ。

地上から根は見ることが出来ないが、掘ってみるとわかるはずだが、
根に足が生えている植物図鑑が発刊されるなど
今考えれば、信じられないことが、科学の世界でもあった。
これは、科学というよりもイデオロギーの世界だ。

レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍したルネッサンスは、
ローマの時代に戻ろう! という復興運動でもあったと思う。
これは、言い換えると、リアリズムへの復権でもあった。

“Research makes difference”(≒調査・研究すれば違いが見えてくる)は、
社会人としての行動基本原則でもあると思うが、
科学の世界では、こんなルールになる。
「最も新しい発見は、最も古いものである。」
わからないことが多いのは、宇宙、深海、人間の遺伝子などなどであり
次に発見されることは、いままでの発見の中で最も古いものだ。
まだまだ調査研究するテーマがあるということを、謙虚に知っておくということだろうか?

15世紀に遠近法が発見され、
ダ・ヴィンチは、“実践は強固な理論のもとでのみ構築される。”と
遠近法について述べていることを前回紹介したが、

遠近法は、現実を再現するリアリズムの理論であり、この理論を生かす道具が必要だ。
カメラ・オブスキュラ(camera obscura)がこれにあたる。
カメラ・オブスキュラは、遠近法の理論に基づき、現実を写実・再現する道具だ。

小学生の雑誌・漫画雑誌などに、ピンフォールカメラの付録があった。
ボール紙で箱を組み立て暗室を作り、真ん中の穴から光を取り込み
外界の絵を感光紙に写す。
カメラ・オブスキュラは、これと同じ原理で、暗室の中に外界を取り込む。
17世紀には、暗室に取り込んだ外界の像を手書き複写できる装置も開発された。

乃木坂にある国立新美術館で展示されている、
17世紀オランダの風俗画は、微細なところまでも写実的に描かれている。
まるで、写真を見ているような感覚に陥る。

このような絵画は、カメラ・オブスキュラがあって精緻な写実が可能となる。

フェルメールの『牛乳を注ぐ女』も、ダ・ヴィンチ同様に、
消失点に釘をうち、糸を張って描いた痕跡が発見されている。
また、カメラ・オブスキュラを使い絵を描いていると指摘もされている。

(写真)フェルメールの部屋とカメラ・オブスキュラの位置

出典:Vermeer and the Camera Obscura by Philip steadman

フェルメールの絵画は、彼のアトリエで書かれた絵が多く、
左手が窓、奥にモデル、手前にフェルメールの目線という構図で描かれる。
そして、カメラ・オブスキュラが置かれたとした場合の位置があり、
『兵士と笑う娘』の壁にかけられている地図は、1620年に出版されたもので、
カメラで撮らなければ描きにくい正確さで描かれている。

また、『赤い帽子の女』(サイズ22.8×18cm)など数点が、
典型的な箱型カメラのスクリーンのサイズでなぞられたように描かれている。

フェルメールがカメラ・オブスキュラを使い絵を描いていたという証拠はないが、
絵自体に、使ったと思われる痕跡がある。
17世紀オランダ風俗画は、
遠近法、カメラ・オブスキュラによって支えられた
写実性・リアリズムを主張する新しい知の時代を創った。


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フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ その3

2007-10-31 03:32:47 | フェルメール
その3:遠近法は15世紀に発見された!

偶然でしょうか?
今日が、フェルメールの誕生日です。


ワールドカップラグビーのテレビ画面

さて、一枚の写真を見ていただこう。
これは、テレビ画面(平面)を写真でとったものだ。
10月21日AM4時から放送された、イングランド対南アフリカ。
ワールドカップラグビー決勝戦の1カットだ。

実際はラグビー場で対戦しているが、見ているのはテレビで
テレビは平面だ。
しかしながら、我々は、これを立体として見ている。
足の立つ位置、重なり具合で前後を認識し、選手は立体だと受け入れている。
これは、
脳が2次元の平面の画像を修正し、それを3次元の映像として認識(=見ている)しているからだ。
(というように、理解している。)

見えているのではなく、認識している。ということがここでは大事になる。
ということは、
上下、前後、左右ということは、発見された。ということになる。
いいかえれば、万有引力がニュートンにより発見されたように
“遠近法”も、自然界から発見された。

誰が発見したかは明確ではないが、
15世紀のフィレンツェの建築・絵画家によって発見され、
フィレンツェ及びイタリアから他国へ広まるのにはだいぶ時間がかかったようだ。
遠近法の代表的でもあるかのあまりにも有名な 
レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、1495~1497年に作成されており、
中央のキリストのこめかみに消失点(遠近が収束する中心)がある。
ここに釘の跡があり、糸を張って使徒を描いたことが確認されている。

遠近法発見以前の中世時代は、象徴性・物語性などが重要で、
天使が空を飛んでいるとか、リアリズムの対極にあった。
それ以前の、アルタミラの洞窟壁画などは、
遠近感こそないが、動物をリアリズムで描いていた。

誤解を恐れずにいうと、
キリスト教の浸透がこれを喧伝する普及のツールとしての芸術を必要とし、
現実を現実として捉えるのではなく、キリスト教の理想でとらえる芸術が必要だった。

この時代が結構長かったが、
遠近法は、リアリズムから離れた芸術、
さらには、シンボル操作として芸術を活用した中世からの決別をもたらしたようだ。
遠近法は、
画家・建築家にとっては“科学”であり、神の啓示ではなく計算する必要があった。
一方、我々にとっては、“現実を認識する方法・様式”であり、
近くのものは大きく鮮明で、遠くのものは小さくぼやけることで、
現実を切り取った絵画に立体を感じるように
現実を2次元で認識するように迫られ、理解するようになっていった。

フェルメール(1632-1675)が活躍した17世紀のオランダでは、
遠近法を取り入れた絵画が市場として形成された。
これが、“17世紀オランダ風俗画”であり、
現実を現実として眺める絵画市場がつくられ、
裕福な商工自営業者が買手として登場した。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、遠近法についてこう言っている。
“実践は強固な理論のもとでのみ構築される。”
と。

カトリック教会、スペインのハプスブルク家を顧客にもてない
オランダの画家は、宗教画から離れ、
遠近法を活用したリアリズムなNew領域の絵画へと向かう。
これが必然的な流れのように思えてならない。

(Nextへ)


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フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ その2 

2007-10-30 06:19:12 | フェルメール
その2:近代資本主義の芽生え

フェルメールは、オランダが世界を制覇した時代の
1632年10月31日に現在のオランダ南部のデルフトに生まれた。
フェルメール作 『牛乳を注ぐ女』リンク

フェルメールの画風&オランダ風俗画は、偶然の産物ではなく、
なるほどという時代背景がある。
その時代背景の簡単なおさらいからはじめると・・・・・・
(近代の曙の歴史ということで、これを書く文献サーチは自分のタメになっている。)

【市民階級の出現】
15世紀からのネーデルランド(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクにあたる地域)は、
毛織物産業が勃興し、裕福な商工自営業者である階層が新たに誕生した。

中世は、支配階級(地主=貴族・教会)と被支配階級(小作人)という単純な関係だったが、
裕福な商工自営業者の多くは、王侯貴族・教会が支配する中世社会からの脱皮を願い
宗教的には、偶像崇拝を禁ずる新教(プロテスタント)を信じ、
それまでの支配階級と1568年から80年間にわたって生存をかけて戦った。

【プロテスタントを奉ず】
1581年には、カトリック教を信じ、新教徒を弾圧・虐殺した
スペイン国王でハプスブルク家のフェリペ2世の統治権を否認する布告を出し、
1600年頃にはネーデルランド連邦共和国として独立した。

【17世紀はオランダがグローバルNo1】
1602年には、世界初の株式会社として著名なオランダ東インド会社を設立し、
ポルトガル・スペインがそれまで独占していた香辛料貿易を奪い、
世界の海を支配することになる。

日本との関係では、
1609年には、平戸にオランダ商館を建設し、
1641年には唯一の交易国として長崎出島に移転した。
江戸幕府のキリシタン(旧教)禁止に、新教国であるオランダが大きくかかわった。

王侯貴族・教会と戦ったオランダの画家にとって、
彼らから絵を発注・購入してもらうということが期待できなくなった。
新たなパトロン・顧客は、裕福な商工自営業者であり、かつ、プロテスタントでもあり
当然求めるものも異なっていた。
そこに17世紀のオランダ風俗画のユニークネスがある。

(Next:その3へ)
フェルメール作 『牛乳を注ぐ女』リンク

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フェルメール(Vermeer)とその時代のオランダ

2007-10-29 09:56:56 | フェルメール
【A beginning】
乃木坂にある国立新美術館で開催されている
フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展を見に行った。

国立新美術館 フェルメール展入り口


素直に、フェルメール『牛乳を注ぐ女』は素晴らしい。
光り輝いていた。

また、フェルメールも含めた全体的な印象は、
17世紀オランダの絵画は、虚飾を廃し、神話をも廃した、
あまりにも写実的で
まるでモノクロ&パートカラーなどの写真を見ているようだった。

ルネッサンスは、それ以前の神話性の絵画から、
人間に目線をおいた芸術への復興だと捉えるとすると
16世紀オランダの画家ブリューゲルから、17世紀のフェルメールなどの絵画は、
もっと人間の生活に的を絞り、現実を切り取っている。

あまりにも写実的に現実を切り取っているがゆえに
ここが写真と感じるところでもある。
写真機がない時代に
写真に迫る絵画を16世紀~17世紀のオランダで集中的に描かれた。
この事実が今でいうパラダイムシフトに近い変革があったのだろう。

このような絵画が成立した16世紀以降のオランダ絵画のユニークネスは
画家の目線・技術向上だけでは成立しない。
絵画の買い手とその流通構造にも変革が必要だ。

その時のオランダは、
①政治・権力の構造
②産業・経済の構造
③絵画の技術
などで劇的な変化があり、これらの上にオランダ風俗画という市場が成立した。
と捉えたい。

(Next)

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