モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

ときめきの植物雑学 その15: 地殻変動から知殻変動になった?

2008-01-15 09:17:14 | ときめきの植物雑学ノート
その15: 地殻変動から知殻変動になった?

16世紀、「草本書の時代」までの知殻変動
16世紀~17世紀中頃までを「草本書の時代」という。
なじみがない言葉のようでもあるが、“草本”つまり植物についての
“これまで”と大きく違う研究成果の発表=著作物が多発された時代でもある。

それでは、“これまで”とは何時のことを言っているのだろうか?
さかのぼることなんと、西ローマ帝国崩壊の476年からともいえそうだ。
或いは、紀元1世紀のディオスコリデス『薬物誌』以来と言い切ってもよさそうだ。
西欧社会での植物への関心は、西ローマ帝国崩壊から1000年以上も
ディオスコリデスの上で足踏みをしていたようだ。

この眠りに入り16世紀に覚醒した要因には、知の移動という大きな地殻変動があった。

最初の地殻変動はローマ帝国の崩壊だ。
ローマの文化は、独創性がないがリアリティがあり実用性に優れていると言われている。
異民族・蛮族などとの戦いで勝利し領土を拡大できたのは、
戦うシステムのロジカルな構築と命を投げ出す兵士の処遇でのロイヤリティ管理に優れていたからといいたい。

塩野七生さんの『ローマ人の物語』では、
これを、“高速道路とハブ&スポーク”および“サラリーと市民権”というように表現していたと思う。
「全ての道はローマに通じる」といわれた道路の幹線ネットワークを構築し、
ケルンのような軍団駐屯地(ハブ)から、高速で兵士・武器・兵糧・指令を移動させ、
命を投げ出す兵士には、給与と定年後にはローマ市民権を与え開拓農民とするなど
征服した民と領土をも生かすシステムまでも構築し、
防衛ライン内の広い領土を、安い税金で効率的に治める統治技術を磨いていた。

ローマ人は、このような社会システムとか建築での現実の課題解決能力に優れていた。
しかし、哲学・芸術などの思考の対象は苦手みたいで、
ギリシャ文化及び国籍にかかわらず知識人・技術者を受け入れる政策を実行した。
このオープンマインド、言い換えれば、実利性・公平性などが
ギリシャの思索・創造性とあいまって、西欧文明のマザーになりえたと思う。

1000年以上もまわり道したのは?
4世紀からのゲルマン人の侵入などで、これまでの覇権システムが内部崩壊し、
身内に取り込んだゲルマン人の傭兵隊長に止めを刺され、西ローマ帝国は滅亡した。
ギリシャ・ローマの世界は、ビザンツ帝国が継承し、ギリシャ古典文化を保護した。
西ローマ帝国という身体は、分割され変遷していくが、
ギリシャ文明を継承できなかったのには何かしら理由がありそうだ。

それは、どうもギリシャ文明が難しかったからのようだ。
現実性・実用性のない学問はどうしたらよいのかわからない。
ということで、意思を持って引き継がなかったのではなく、
引き継げなかったのだと思う。
だから、原典の保存も気にせず、発展させようとすることもなく、
完成されたものとして、検証もせずに丸写ししていたのだろう。

さらに、
キリスト教がローマ帝国及びその後の時代で浸透・拡大するなかで、
文化を担っていたギリシャ人・ユダヤ人などの異教徒の知識人が、迫害を避けるため、
東方の都市に安住の地を求めて逃げ出していったことがあげられる。
異教徒排除のクローズドシステムが、1000年もの眠りにつくベットを用意したとも言えそうだ。

東方(イスラム圏)へ逃げた知殻変動
ヒトが逃げるということは、Know Who・ノウハウそのものがなくなることであり、
重要な書物なども持って行ったので、
イラン南部にあるジュンディシャープールが、イスラム以前からのギリシャ・インドの
学術が研究されており、ヘレニズム化したギリシャ学術の継承者となっていた。
9世紀には、サラセン人がこれらの文献を組織的にアラビア語に翻訳し、発展させることになる。
ギリシャ・ローマ時代の知識の成果は、ヨーロッパではなくイスラム世界で熟成されることになる。

残された
ギリシャ人のように知識を純粋に突き詰め体系化させることが苦手なローマ人、
その後を蛮勇で切り取ったが文明化されていないゲルマン民族国家にとって、
純粋知識よりも世俗での生きる知恵の方が重要であったのだろうか、
上書きされ評価される知識が生産された痕跡が少ない。

脱け殻の西欧社会での小さな光
芯がなくなり脱け殻になってしまった西欧の知の世界では、
1000年以上もの眠りに付くことになるが、
わずかに科学の火をともしていたのが、修道院でありそのネットワークであった。
本業が神に仕える業であるため、科学・芸術全般にまで手を染めるわけにも行かず、
その中では、医学・薬学などは維持された方だと思う。
しかし、ギリシャ・ローマ時代の科学成果を超えるレベルには至らず、
筆写・写本というコピー文化での誤字・脱字なども生産付加して行ったようだ。
アラビア語に翻訳されたギリシャの原典にふれるのは、なんと11~13世紀まで待たねばならなかった。

科学革命をもたらす近代の知の理解
この知識を今度は、アラビア語からラテン語に翻訳し、
ヨーロッパにブーメランのように戻ってくるのが11世紀から13世紀後半であり
ルネッサンスの原動力となった。

ルネッサンスは、
このような誤字・脱字・書き換えされ伝承されたコピー文化に対して、
1000年以上も前の、ギリシャ・ローマ時代のオリジナルに触れ、
これを理解できるレベルに達しているから起きた感動が
ここに戻って、ここからやり直そうと動機付けられたとも解釈できる。
1000年以上もの時間をかけてきたものを捨てようという勇気であり、
懐かしさや懐古趣味でおきたことではなく、オリジナルとの誤差の大きさ、
或いは間違った認識に気づき、科学的な思考を取り戻したのだろう。

植物に関してこれを言えば、
“自然を詳しく見て、正確に記述する。”というスタンスが成立した。
これは、文章でも絵でも同じスタンスだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの植物画のデッサンは、リアリティに描かれており、
画家・科学者ダ・ヴィンチの視線が現代と変わらないことが伺える。
この“見えたことを正確に記述する”ということについては、改めてふれてみたい。


<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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リバーシブルな花びら オキザリス・パーシーカラー

2008-01-14 08:45:26 | その他のハーブ



オキザリスは、夕方になると花を閉じ、翌日の朝陽が昇ると花を開く。

この変化感がうれしいことだが、

パーシーカラーは、更に花弁の表と裏でリバーシブルになっている。


朝陽が昇ってから夕方までは、白い花。

夕方から翌日の朝陽までが、白地に緋赤色の線が入った閉じられたパラソルで、

どちらかというと、夕方のタイプの方が個性がある。


4月頃までが花の時期だが、いまが満艦飾となっている。

耐寒性が弱いのでリビングルームなどに取り込むと、リバーシブルが結構楽しめる。

今年は暖冬なので、軒下でも元気に咲いている。



オキザリス・パーシーカラー

・カタバミ科の半耐寒性の球根で冬場は室内又は屋根下で。
・学名は、オキザリス・ベルシコロル(Oxalis versicolor)、流通名がパーシーカラー。
・原産地は南アフリカケープ地方。
・草丈は10~15cmで、線形の葉、白と赤の縞模様のつぼみが特色。
・やや渇き気味を好むので、乾燥したらたっぷりと水を与える。
・開花期は、10月から春先まで。花の色は白で裏側の縁に緋赤色が入る。
・陽が揚ると開花し、陽がかげると閉じる。曇りの日は閉じたままのこともある。
・休眠期は、5月から9月頃まで。この時期は乾燥させ水を与えない。

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ビオラ色のビオラ(Viola)

2008-01-13 09:24:49 | その他のハーブ
ビオラの季節になった。

12月の園芸売り場は、色鮮やかで色とりどりのビオラ・パンジーで一杯だった。
年々、すさまじいほどの品種改良で新種が出てきており、
これはこれで結構楽しい。

だが、ビオラの選択は、名前の由来でもあるViola(=紫色)からが定番。
ということで、紫色をベースにして散々見まわしたが
いつもこのViola色になってしまう。



それにしても
例年だと、我が家でも、12月中旬には、秋モノと春モノの入れ替えを行えたが、
秋咲きのハーブがまだ花をつけていたので、
刈り込むことも、腐葉土でおおい冬場対策のマルチングすることも出来ず、
休眠させることが出来ないでいた。
年末にやっと入れ替えが出来、緑がないさびしいスペースが浮き上がってきたので、
やっとビオラの登場となった。


ビオラ(Viola)
・スミレ科 ビオラ属の耐寒性があるが、夏の暑さに耐えられないので1年草とする。
・原産地は、ヨーロッパピレーネ山麓。
・ビオラとパンジーの区別が難しくなってきているが、花の直径3㎝以上の
大柄なものをパンジー。これ以下をビオラという。
・開花期は、晩秋から春先とながい。


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ときめきの植物雑学 その14: 魔女狩り

2008-01-11 08:00:00 | ときめきの植物雑学ノート
その14: 魔女狩り

いつの世でも“仲間はずれ”“いじめ”がある。
陰湿なだけでなく、生命までかかわってくるから看過できない。
組織的・国家的な権力者がかかわってくるとなるとなおさらだ。
なんて息をまいていてもしょうがないか~

ふれないで素通りしたかったが、・・・・・
植物とヒトとの関わり合いのテーマでは逃げることはフェアーでないと思い、
1600年頃をピークとして、中世末のヨーロッパを吹き荒れた狂気
“魔女狩り”にふれることにする。

魔女狩りに関しては、“狂気”であるだけにまだわからないことが多いようだが、
従来のイメージを変えなければならないことにこの歳で気づいた。
この確認から行い、植物との関係での見方を展開する。

魔女狩りの間違った認識
1428年にスイス・ヴァレー州で最古の魔女裁判がされたが、
イタリア、スペイン(バスク地方除く)、オランダなどでは、魔女裁判がほとんどなく、
ポーランド、スウェーデン、ハンガリーなどが多いという。
中世末の全ヨーロッパでの狂気かと思っていたが、
グローバル化されていない民衆が多い、豊かでない地域で特に熱くなったようだ。

ヒトがヒトを裁く“排除”のきっかけは、
1229年にグレゴリウス9世教皇が異端審問制度を組織化したことから始まるが、
魔女裁判・火あぶり等の処刑執行は民衆であり、あらかたは仲間内での公開リンチのようで、
カトリック教会は、止めようとはせずに了承をしていた脇役だったようだ。

イエズス会の修道士フリードリッヒ・フォン・シュペ(1591-1635)は、
魔女狩りが激しかった時期に、『犯罪にご用心 魔女裁判における法的疑義』(1631)を出版し、
“魔女は存在しない。異端審問官の妄想がつくりだしたものだ。”
と内部批判をおこない、積極的に狂気に反対した修道士も数少ないが存在し、
組織的な指令で魔女狩りがなされたわけではなさそうだ。

魔女狩りの火種は
ヨーロッパの広い地域で同時多発的・継続的に魔女狩りがされるには
強くて固い信念・意志があるはずで、宗教でないとすると何だったのだろう。

動物の世界では、インプリンティング(すりこみ)という本能のようなものがある。
これは、生まれたばかりの子供が、目の前にいる動くものを親だと思い込み
後を追うそうだが、このような本能的な行為がすりこまれている。

ヒト社会では、赤子を育てるためのすりこみとして、
童話・童謡・民話というものが、重要な役割を果たしている。

ヘンデルとグレーテルの物語は、
森の中にいる怪しげな“ババア”を魔女とし、こんなババアのいる森に注意しましょう。
ということを教えているが、ババアに注意しましょうということになってしまった。
魔女のイメージは、
土着の民話のなかに、ユダヤ人の特色であるカギ鼻、
占星・薬草などの高度な知識を扱う怪しげなふるまいなどを
新たに取り込み、形成されたようだ。
絵本を見るとこんなイメージになっていると思う。

魔女=産婆の図式
初期の魔女は、これらのイメージの焦点として“産婆”にピントが合っていた。
産婆のことを英語では、Wise woman(賢い女性)といい、
医療技術が幼稚な中世では、高度な医療技術を持っていた。
産科、小児科、薬学、心療内科の専門家であり、
朝早く露が落ちた後の生きの良い薬草を摘みに森に入るなど
自然と積極的にかかわってきたナチュラリストでもある。
また、男性至上主義で無知な男にとって、賢い女は嫌な女であることは今でも変わらない。

“産婆”が排除される対象になったのは、誰にとって、何が気に入らなかったのだろう? 
そこには、産婆を排除するメリットがあるはずだ。

魔女狩りが吹き荒れた時期の“狂気”の裏返しである“正気”をおさらいすると
・11世紀以降各地に大学が作られた。
・16世紀半ばから大学付属の植物園が作られ始めた
・16世紀は、植物そのものを研究対象とした本草書が出版された。

“正気”の向かう方向は、科学であり、これを学んだ医学部大卒の人材の活用である。
ストレートにいうと、あやしげな“産婆”の職を奪うということに尽きる。
これほど嫌われたのは、
処女で赤ん坊が生まれるはずがないことを一番知っているのは“産婆”であり、
この点で教会と熱烈な信者から嫌われていたことが指摘できる。

“産婆”の職を奪う方法として
文化度の高い先進地域及び都市では、“産婆”の登録・免許制度をつくり、これを運用することによって
好ましからざる“産婆”を排除する仕組みをつくった。
もう一つが、“魔女狩り”での根こそぎの排除だ。

この動きは今日まで続き、“産婆”は消え、助産婦すら職業から消えてしまった。
ヒトの誕生から死までを自宅から切り離し、医学部・教会に移行させる
国民の生死の国家管理という野望が芽生えていったと思われる。

植物園が誕生し大学医学部が活性化する同時期に、“魔女狩り”がピークを迎えている。
大卒の医師、植物学者が生産される仕組みがつくられることによって
“産婆”に変わる代替が登場した。
経験はないが、マニュアル的で、水準が保証された均質な技術・知識
これを普及させるには、“産婆”の役割を段階的に小さくしていけばよい。
こんな合理的な考えが、“狂気”の増長を助けたのかもわからない。

魔女狩り=狂気の正体は?
この“狂気”の正体はいったいなんだったのだろうか?
いろいろな説があるが、どれも当てはまらず、
現段階で説得力を持っているのが、「集団ヒステリーのスケープゴート」のようだ。

不純物を排除し、混じりけのない純なものにしたいという『純化』
一神教であるキリスト教の本質だろう。
仲間はずれ、いじめの“見せしめ”が、
魔女狩りでの火あぶりまでエスカレートさせたのだろうか?

植物・動物そして人間社会でも、 『多様性』 は生存の基本として重要であり、
生き残る手段でもある。
異質・異物を排除する『純化』は、その方向には強いが、流れが変わると生存を危うくしかねない。
太平洋戦争に突入していった“狂気”“集団ヒステリー”のようなことを
再現させないためにも、異質・異物を尊重し発言を聞く耳を持っておきたいものだ。


<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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清貧なデンタータ・ラベンダー(Dentata lavender)

2008-01-10 12:52:20 | ローズマリー&ラベンダー

影絵は、形がわかりやすいので、朝陽に影をつくって撮ってみました。



まだ、花穂の頭のフリンジが開かないが、
薄紫のフリンジは、寒さとともに色鮮やかになり美しい。

フリンジを確認するために辞書を引いたら、
カーテンの縁などの織り糸を束ねた房をフリンジというのが本来だが、
西部劇のガンマンの皮のジャケット。
あの腕についている皮ひものヒラヒラもフリンジというそうだ。

デンタータラベンダーは、ガンマンのフリンジというイメージではなく、
荒布を織った糸のフリンジというような、清貧な感じが似合う。
きっと修道院の庭が似合うのだろう。

まあ~、我が家もそんな感じかもしれないが・・・・・



デンタータ・ラベンダー(Dentata lavender)
・シソ科 ラバンデュラ属デンタータ系の常緑小低木で半耐寒性だが、関東では戸外でも越冬する。
・学名は Lavandula dentata。英名は Dentata lavender, Fringed lavender, French lavender。
・Lavandulaの語源はLavare=洗うからきており、ローマの大浴場での湯上りの香り付けに使われた。
・デンタータの意味は、“歯のような”というラテン語からきており、灰緑色の切れ込みのある葉が特色。
・原産地は地中海沿岸のアフリカ北部、スペイン東南部。
・英名のFringedは、花穂の先頭に糸房状の縁飾りのようなフリンジがあることから付いた。
・四季咲きで、開花期は、11月~12月と4月下旬から6月の二回だが、夏場をうまく乗り切ると年中咲いている。
・株の丈は、60~70cmまで育つ。大株になるので、スペースを必要とする。
移植は苦手のようなので、庭植えの場合は場所を考えて植えると良い。

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ときめきの植物雑学 その13:何故、植物園が発明されたのだろうPartⅡ

2008-01-09 08:45:43 | ときめきの植物雑学ノート
イタリアでの植物園発明の動機は?
その12で植物園の誕生について書いたが
何故、イタリアに『植物園』という新しい機能が発明され誕生したのだろうか?
これを検証してみたい。

このシリーズでの、
その10~11では、中世の自然・植物観を巨視的に見たが、
ローマ帝国時代までとは打って変わって、修道院以外、植物には興味も関心もない。
こんな状況が1000年も続いた。

唯一、15世紀からのルネッサンスを迎えたフィレンツェなどのイタリアの都市で、
ギリシャ・ローマ文化の復興にともない、自然・庭園が見直された。
このルネッサンス式庭園は、16世紀にフランス・イギリスに広まり、
フランス式庭園、イギリス式風景庭園として発展するのは、17~18世紀のこととなる。

大学の誕生が背景にある
植物園が作られた都市について見ていくとヒントがありそうだ。
11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、
特にヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェなどが海運や商業によって繁栄し、
当時の国際都市としてヒト・モノ・カネ・知恵を集めた。

当然、国際商業都市には先端の情報が集まるので、
ボローニアにはヨーロッパ各国からビジネス法律を学びたいという人材が集まり、
彼らが教師を雇うという形での西欧最古の大学が1088年 ボローニアに誕生した。

イタリア2番目の大学は、1222年パドヴァに設立され、
フィレンツェには、1321年にフィレンツェ大学の前身、「Studium Generale」が誕生、
ピサ大学は、1343年に設立された。
ちなみに、世界最古の大学は、インドビハール州に427年に建てられたナーランダ大学といわれている。
ブッダがマンゴの木下で説法したところが発祥の地となっている。

植物園の設立経緯での大学と修道院との関係
パドヴァ大学は、医学・自然科学が優れており、ガリレオ、ダンテなどが教えていた。
パドヴァ植物園は、植物学者のフェデリコ・ボナフェーデが構想を練り、
古代からの薬用植物の伝承知識の間違いを正す薬用植物の研究と人材育成のために
大学の付属機関として設立された。

(写真)初期パドヴァ植物園


出典:パドヴァ大学のホームページ

パドヴァ植物園の園内は、円形で4区分され、いまもこの形で残っている。
当時の薬用植物は高価で取引されていたので、泥棒が入ったために塀が作られ門があるようになった。

ここで見逃せないのは、“間違いだらけの薬草”に気づいたことだろう。
ギリシャ・ローマ時代の原本を、イスラムの世界をへて修道院が写本という
図書館と印刷所を併せ持つ役割を、組織的に運営してきた。
しかし、原本のオリジナルの価値の検証、修正、新たな発見などがなく、
植物学者のフェデリコ・ボナフェーデは、これに気づいたといってもいいだろう。
パドヴァ植物園の敷地は、ベネディクト修道会の所有であり
修道院も協力せざるを得ない時期・段階にきていたのだろう。

イタリアの主要都市国家が、パドヴァにならい追従できたのは、
それぞれに大学があったからで、
医学の向上、すなわち薬草の研究になるが、
黒死病(ペスト)後の人口減になった中世・イタリアでは、
医学・薬学を何とかしなければという説得力があったのだろう。

パリ王立植物園は、イタリアから遅れること1626年にやっと
ギィ・ド・ラ・プロス(1586-1641)の提案から10年遅れて創立が承認された。
プロスの書簡にも、“健康を増進し、人の身体を益するもの”として
“教会・墓・前線の要塞よりも偉大な施設”としたためており、
フランスでも教会よりも重要なものがあると言えるようになった様子が伺える。

イタリア都市国家の戦略
この植物園が作られた16世紀は、通商の機軸が大西洋・北海に移行し、
イタリアの都市国家が没落していく世紀となる。
ヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国・フィレンツェ共和国などは、
国際競争で生き延びる構造改革をせざるを得ない時期でもあった。

科学での世界的な人材育成、或いは、医学・薬学での国際競争力の浮揚
等を考えたのだろうか?
フィレンツェの支配下にあったピサ植物園の設立では、
メディチ家のコシモ1世(1519-1574)が、ピサ大学の植物学教授に
当時の植物学をリードしていたドイツのレオンハルト・フックス(1501-1566)を呼ぼうとして
実現しなかった。

この事例が示しているのは
植物園を、先進国としてのポジションを維持するための“戦略”として捉えていた節がある。

振り返ると、20世紀は、ナレッジとその権利化の争いになっている。
パイオニアにとっては、これまでの資産を生かせる戦略であり、追従者がたどり着くのに時間がかかる。
ナレッジを権利化した著作権・発明発見・意匠デザインなどだけでなく
情報として記述されているDNA、動植物の種なども含まれるようになった。

ルネッサンスで失った1000年を取り戻そうと努力したイタリアでは、
次世代の戦略として、
人材・種の確保・医療・サイエンス思考というものが見えていたのだろう。


世界初の植物園がイタリアで発想され実現した理由(仮説)をまとめてみると
5つほどあるが、
① 大学 ==人材育成をベースに国際競争力向上==
② 医学=薬学=本草学  ==物語でなく科学に転換==
③ ルネッサンス ==脱中世(宗教)改革マインド==
④ 為政者は“庭園”で植物・園芸の楽しさに触れる ==美意識の芽生え==
⑤ 16世紀はイタリアの都市国家の国際競争低下の始まり ==都市の再生==

イタリアの都市国家が他国に先駆け植物園という装置を発想・発明できたのは、
②のルネッサンスと、生存の危機の⑤とのインパクトがより大きかったと思う。
ルネッサンスは、為政者の見る目を劇的に変え
都市競争力の衰退は、何かをなすことの意思決定を後押しした。
と思えてならない。
世界初という金字塔は、大学にしろ、ルネッサンスにしろ、植物園にしろ
決していい環境では生まれていないようだ。
劣悪だからこそ希望を持ち生き延びるための必然的な知恵が発露する。
歴史で記録・評価されない残骸が多々あるのかもわからないが、
生き延びるためのスイッチはみんな平等に持っていることを実感する。
劣悪な環境だからこそ考え、行動したのだろう。


<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国

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トラディショナルな サルビア・セミアトラータ(Salvia semiatrata)

2008-01-08 08:15:22 | セージ&サルビア


メキシコ原産のセージはおもしろい。見ていて飽きないものが多い。
造形の妙、色彩の妙、この組み合わせの妙なものが多い。
見慣れないからだけでなく、発想が素晴らしい。

赤紫と白のビロードのような花、細長い深緑の葉のメキシカンブッシュセージ
赤が強い桃色の筒状の花、桃太郎が入っていたような丸い顎のローズリーフセージ
光沢のある濃い緑の葉と、ピンクの受け唇状の花のミニアタ
晩秋に鮮やかな赤が太陽に向かって帆を広げるように咲くパイナップルセージ
この花のブルーを見て名づけたであろうコスミックブルーセージ

そして、セミアトラータも。

個性にあふれたメキシコ原産の中では、
トラディショナルな雰囲気を持つセミアトラータ。

薄くピンクが入った顎、受け唇の下側は品の良いダークブルー、
その上の唇は、薄く白が入り、
絶妙のカラーコーディネイトとなっている。
渋い。

そして、陽に映え鮮やかな黄緑のベルベットのような葉。
渋い。
トラッドだ。
スーツの色合いとしていけそうな感じがする。

今頃咲いているのはおかしいが、
このセミアトラータは、秋にさし芽で育てられたもので、
清水公園のハーブ園から、万が一育てられないリスクを考えて、苗を3個手にいれた。
2~3年後の姿が見えるので、失敗で1年ロスをしたくないので危険分散をした。
室内で育てていたので、そのうちの1個が花をつけた。



サルビア セミアトラータ(Salvia semiatrata)
・シソ科アキギリ属の耐寒性がある多年草だが、霜には当てない方がよい。
・対暑性は強いという。(まだ夏を越していないので)
・原産地はメキシコの標高2000m地帯に生息。
・草丈は1mから1.5mと高いので、摘心をして丈をつめ、枝を増やすように育てる。
・木立になるので、年数がたつと鮮やかな緑の葉と枯れた感じの枝の風合いが良い。
・花期は、夏から秋と長い。しかし、温室で育てた感じになるので、今咲いている。
・ガクは薄い赤紫、花がツートンカラーで黒味が入った青紫と、白味が入った青紫で珍しい配色の組み合わせだ。

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ときめきの植物雑学 その12:16世紀、世界初の植物園が誕生PartⅠ

2008-01-07 00:35:34 | ときめきの植物雑学ノート
世界最古の植物園は、イタリア・パドヴァに1545年にできた。

斜塔で有名なピサがもっと早いという説もあるが、
ヴェネツィアの議会で植物園建設の承認を受けた公文書があるだけに
パドヴァが世界最古の植物園としておく。
いづれにしても、ピサの植物園もこの頃には出来ていたようだ。


パドヴァ植物園

いや植物園は、紀元前1500年頃のエジプトにあった。
という説もあるが、植物を集め栽培する農場はあったようだ。
だが、現代の家庭菜園と同じ機能では、植物園とはいえそうもない。

植物園は、
学術研究を目的に、植物を集め・栽培し・標本を作り
種を取り再現させるなどの調査研究機能を持った場をいい、
1500年中頃のイタリアで興った発明ともいえる。
都市の景観・憩いの場としての公開は、植物園から派生した機能で主機能ではない。

植物園の伝播
イタリアでは、パドヴァ・ピサを皮切りに、
フィレンツェ、フェラーラ、ボローニア(1568年)などでも植物園が作られ、
1580年にはドイツのライプツィヒ、1587年オランダのライデン、
1593年フランスのモンペリエにも伝播していった。

約50年でヨーロッパの主要国家(都市)が植物園を作ったことになる。
この伝播のスピードは相当速いのではないだろうかと思う。
植物に無関心だったはずが、急に関心を持ったのは何故だろうか?

1500年代は、
大航海時代での新しい植物などがヨーロッパに大量に入ってくるようになった。
これらを先駆けて活用するための調査研究の重要性に気づいたとしか考えられないが、
スペインでの植物園は、マドリッド王立植物園の成立が1755年というから
この考え方が適切とはいえないようだ。
ただ、スペインは、黄金には目がくらんだが、
ジャガイモなどの植物には関心がなく、国家戦略の軸にする考えはなかった。
大航海時代の周縁にいたイタリアは、本質が見えたのかもわからない。

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
・イスラムの世界へ
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国


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春を彩る サルビア・ミニアタ(Salvia miniata)

2008-01-05 08:41:52 | セージ&サルビア


初夏から晩秋の花だが、
この開花の時期には、強い陽射しの元で育てたせいか、
ミニアタの体内時計を半年ほど狂わせたようだ。

花穂に付くつぼみの状況から
いまが、開花シーズンのピークのようであり、
咲きたくてうずいている。

しかし、年末はこちらも忙しく、
朝帰りなどしてしまうと、寒さでつぼみがダメージを受けてしまっている。

室内に取り込んであげたいが、取り込めないこともあり
こんなせめぎあいをしながらも
ミニアタの強い子孫繁栄の能力が勝り、
開花する花が増えてきている。

それにしても、メキシコ原産のセージは、独特の個性がある。
ピンク・桃色といえば、煩悩をくすぐるものがある。
ミニアタのこの色は、煩悩が収められてしまうから不思議だ。

同じメキシコ原産のローズリーフセージ(サルビア・インボルクラータ)も、
同じような色をしている。



サルビア・ミニアタ(Salvia miniata)
・シソ科アキギリ属の耐寒性、耐暑性とも弱い多年草。
・学名は、サルビア・ミニアタ(Salvia miniata)。英名は Belize sage, Smooth leaf sage。
・原産地は、メキシコ、グアテマラの標高600m付近の半日陰で霧が出るところ。
・葉は光沢を帯びた緑色で、メドーセージの葉に似ている。
・草丈は1mと成長するが、今は、15cm程度。
・長く伸びた花穂に鮮やかな赤い花がつく。花の時期は、初夏から晩秋だが、12月9日開花。
・冬場は霜のあたらない屋根下か室内で管理。
・冬場でも水切れ要注意。夏場はなおさら要注意であろう。
・さし芽で増やす。

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ときめきの植物雑学 その11:中世ヨーロッパの自然観:『庭 園』

2008-01-04 09:32:08 | ときめきの植物雑学ノート

天国に最も近い山頂に楽園があり、ここを『エデンの園』という。
キリスト教の世界での理想郷が『エデンの園』であり、
現世での楽園が『庭 園』だという。
その楽園=庭園のモデルが『エデンの園』。

しかしながら、西ローマ帝国が滅亡した後の中世時代では、
何故かしら『庭 園』の記録が少なくなる。
ローマ帝国時代の素晴らしい『庭 園』も荒廃し、また、造園と植物の
いわゆるガーデニングの知識・技術も当然のごとく衰退していくことになる。

この中世時代に、
植物の知識・園芸の技術を保持したのは修道院であり、修道士であった。
修道院には、塀に囲まれた院内に薬草園があり、閉じた世界で管理されていた。
また、写本による複製での知識の伝播も修道院が担っていた。

しかしながら
この時代にオリジナルはあまり創られなかったようだ。
修道士にとってオリジナルはご法度なのか、
オリジナルが創れる修道士は枠外として破門されたのか
イスラムの世界で育まれたギリシャ・ローマの知識の写しだけが目立つ
変な時代のようだ。

“知識”が修道院という塀の中に囲い込まれ、かつ、管理されると
自由な発想・競争などの闘争心・生命をかけた冒険心なども管理されることになったようだ。
人口増・成長を支える食料・エネルギーが十分ではなかった中世の時代には、
やむをえない政策かもわからないが、
今の自民党・官僚のお手本になっているのではないかと思えてならない。
変化出来ない停滞こそ、1000年も社会構造を変えずに生きながらえた大きな要因だと思う。
グローバル化されていないローカル社会だから出来たのだろう。

『神が田園をつくり、人間が都市をつくった。』
イギリスの詩人、ウイリアム・クーパー(William Cowper , 1731-1800)の言葉だが、
中世では、庭園づくりは神にお任せし、人間が思い出し創り始めるのは、
15~16世紀になってからのようだ。

スタートはやはり、1420年フィレンツェで始まったルネッサンス。
城壁に囲まれた都市は、暗く・狭く・汚い。
太陽と風と緑に囲まれたヴィラ(別荘)での生活を提案したのは、
レオン・バティスタ・アルベルティ(1404-1472)『建築十書』(フィレンツェ, 1485年)で、
レオナルド・ダ・ヴィンチ同様の天才的マルチ人間でもあった。

アルベルティの提案で、やっとローマ帝国時代の『庭 園』が復活した。

フィレンツェの権力者メディチ家の邸宅と庭園など、アルベルティの提案でつくられ、
代表的な“ヴィラ・カレッジ”は、哲学者・人文科学者などが集まる場となり、
思索と議論と園芸などが楽しめるプラトン・アカデミーとして
メディチ家の名声とルネッサンスの情報発信基地となった。

“自然と植物を楽しむ”という忘れていた記憶は、
メディチ家のような15世紀イタリアの上流階層で復活し、
フランス、イギリスなどの王侯・貴族・枢機卿などへと伝播していった。

飢えていた時代には”美しさ”“楽園”も気づかなかったのだろうか?

“庭”がこれだけ長い間忘れられていたのには驚きを感じる。
1000年もの長い時間がかかり、やっと振り出しに戻り
ローマ帝国の庭園にたどり着いた。

そして、やっと植物への関心が高まり、科学とアートとがそれぞれ発展する。

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
・イスラムの世界へ
・黒死病(ペスト)(1347)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here ルネッサンス庭園
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国

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