前回投稿でバジョット原理とその適用について述べましたが1873年恐慌の後、1882年、1884年、1890年と恐慌が続きます。(前掲:山口)クラパム、ポンドスターリング(12章からはビクター・モーガンの著述)は1882年、1884年恐慌には直接触れておらず、この間は、主として同書等によって著述していますが、補完可能な限り努力するのは当然ですが、ここで19世紀末のイングランド銀行の金融政策と不況の関係について述べたいと思います。
①公定歩合の“無効性“と金融緩和政策
これは1870年代頃より言われるようになったものであり、公定歩合と市場利子率との密接な連関が失われ公定歩合を引上げても市場利子率が上昇せずしたっがて外国短資の流入も失われ国際収支対策として公定歩合引き上げが無効になったとされるものです(前掲:西村)これに付きこれは
イ)1870年以降国際収支が金利の上下に敏感に反応するようになったという事
ロ)公定歩合の上下が市場金利の上下を引き起こさなくなったという事
を意味するとされ何故公定歩合の上下と市場金利の上下が連動しなくなったかという事に関しては議論が有るようですが、モーガンは“株式銀行の預金の急速な増加と銀行間の激烈な短資の運用の競争が割引率を押し下げた“としています。
そのような中、イングランド銀行は公定歩合政策を補完するものとして公開市場操作を用い、それによって公定歩合の引き上げが市場利子率の引き上げとなりそれが大規模な短資流入、金の流入となりそれによってイングランド銀行の金融緩和政策を可能としたとされます(西村)
(尚同行の公開市場操作についてはクラパムの2巻が詳しい。)
②公定歩合政策と国内産業への考慮
上記のように依然として準備金を守る政策として公定歩合政策が使われたわけですが、それにつきモーガンは“高い利率を有効に保つ事が困難である事、及びイングランド銀行が国内産業が窮地にあるところへ更に高利率という負担を負荷するのは乗り気でなかった“として同行が種々の実験を始めたとします。
未定稿 2008.11.20
注:本稿は投稿に当たって万膳を期していますが、不正確、誤謬等発見した場合はそのつど注を記して改訂しています事をご承知於きください。