前回投稿で19世紀末のイングランド銀行の金融政策と不況の関係について若干述べましたが、世情、19世紀末の恐慌として取り上げられるのが1890年に起きた“ベアリング恐慌“です。これは恐慌史のうえでも1873年恐慌の次に起きたものとして取り上げられるものです。又一般的にはアメリカ、ドイツ等の工業の隆盛に伴い又イギリスを徐々に凌駕するにつれ景気循環の波も移行していったとされます。
1880年代後半からブームが訪れ、北米への投資や、南アフリカでの金鉱等への投資が進んだとされます。そしてその中でも注意を引いたのが南米への証券投資であり89年のイギリス海外証券投資が全体で1億2千2百万ポンドに及んだうち4千万ポンドが南米の投資に向けられたとされ(ドイツ恐慌史論:石見徹)その多くがアルゼンチンに向けられたとされ、それが“セデユラス“という“土地担保付債権“に向けられたとされます。
これは確定利付き債権であり、極めて名高い二件のイギリス商店により欧州に導入され販売されたとされます(アンドレアス)そこにおいてアルゼンチンの財政状態に不安が起こりそこからイギリスで危惧され優良な証券の価格の下落が起きました。
イングランド銀行の利率は通常の“秋の流出“-穀物輸入の関係等による通例の流出-とスペインの金の需要によりバンクレートが6%になりその間、一時は欧州第6番目の有力者と呼ばれたベアリング商会がその引き受けた南米の事業会社の証券の発行に失敗があったとされその証券はロンドン金融市場で販売する事が困難に成ったという事で、転売不可能になった証券を大量に抱え込み困難に成ったとされます。
“ベアリング商会“は以前の投稿で18世紀末に“イングランド銀行論“を著したF.ベアリングが始祖になるイギリスでも名門とされる会社であった訳でありますが
、それがシテイーの中で不安が広まる中、11月8日にベアリング商会はイングランド銀行に自らの置かれている状態につき開陳しました。その中もし当商会が支払いを停止すれば大きな被害が出るのは明らかであった。そこで同行総裁リッダデールが大蔵大臣ゴッシェンと接触を持ちました。
当初、ゴッシェンは“一商会の為には介入する事“は出来ないとしましたが“支払い能力があるならあらゆる支援を惜しまない“としました。