大蔵大臣ゴッシェンが前回投稿のようにイングランド銀行総裁に答える一方、並行してベアリングの状態が明かになるにつれ、イングランド銀行内部で主たる銀行、商社の会合が行われる事と成った(アンドレアス)、又ゴッシェンは“ベアリングの事は1866年恐慌はこれに比べれば取るに足らない“と考えていたが、“大商会は一つになって必要な保証を与えなければならない“とし、又“政府の援助がなければこの事は不可能だ“とした。彼は総裁に“大蔵大臣書簡“(1844年法の停止)をだしてもよい旨伝えたが、それに対して総裁は“そのような通達への依存はイングランドに於ける多くの悪しき銀行業務の原因となった“として拒否した。
並行してフランスから金(300万ポンド)が来、又ロシアから150万ポンドが来た。更にバンクレートを6%に引上げた。
一方、イングランド銀行内部で開かれた主要銀行の会議は“公衆の利益が危機に瀕しておりベアリング家にとってはその負債を払う事が不可能であった事を考慮して-実際には支払い能力はあったが-同家の援助を行う決定をし、イングランド銀行が“債務の為に支給し“その代わり全ての不測の損失は3年間継続する“保証基金“によって“各自の保証金額に比例して保証される“ことが申し合わせられた。(この部分の詳細はクラパム、アンドレアスが詳しい)保証基金は1700万ポンドにも達したとされます。
又並行して大臣は“ベアリング商会の手形の割引によって蒙るかもしれない損失の半分を負担する約束をした“とされます(ポンド・スターリング)但しこれについてはクラパムによれば文書にした時には表現はやや“曖昧“にされたと言います。
それらの結果、“銀行取付は一軒も無く、又国内の金の流出も起きなかった“とされます。
保証基金は3年間の予定で存続されたが、これらにつき総括すれば
①“保証基金“の創設は全く例外であり一般的には持ちいれられなかった。
②1883年以来引退していたT.Cベアリングは改組された同社の取締役になりその財産を正大に新会社の自由に委ねたとします。
又クラパムによれば“家族の個人財産が次々に注ぎ込まれた“とします。
③1844年法の停止を回避した事 その理由はそれが上記のように“悪しき慣行になる“とされた事。
④更に、上記の通り政府から保証を取り付けたことがあると思いますが、読者の方もお分かりの通りこれが慣行になるなら正しく“民営“の根幹の問題になるということでしょう。
保証人については損害は発生せず、結果的に“直接的政府の支出“は無かった事になります。(クラパムの記述による)
その結果1894年には一切の支払いが新会社に移行したとされます。
これらを勘案するに“個別会社等への政府の何らかの直接的保証“は今まで見たように19世紀のこれまでのイギリス金融史には無かった事でありますが、これに付き1825年恐慌に付き、1826年早くに、商人達から救済の為、Exchequer Bill(国庫証書)の発行を求められた時、議会で議論されたが拒否されたとし、これに付き、“危機の時の対応はイングランド銀行か政府かとされ、同行が責任を持つべき“(Fetter)。とされた時以来であると思われます。
但し1793年恐慌の時には救済のため国庫証書が発行されましたが、クラパムによれば“割引“されたとしますが、同証書は一時期“流通した“との表現も有り、それ自体“紙券“の役割をした時もあったようです。