前回投稿でベアリング恐慌について述べましたが、読者の方も気がついたかとも思いますが、これまでの恐慌処理と若干違った局面があったと思われることです。それは、
①1847,1857,1866年の各恐慌においては1844年法の停止の申し入れが有った時、そのまま、大臣の書簡を受け入れたにも拘らず、今恐慌においては同行総裁は、“そのような書簡への依存はイングランドに於ける多くの不健全な銀行経営の原因であった“としてそれを断った。
②但し、損失があった場合にその一部を政府に負担して欲しいとの申し入れをした事。
③ベアリング商会の事後処理の過程で改組した同株式会社へ家族の私財産が投入された事。これは過去の恐慌時の処理を全て具に当たって見ないと断定しきれませんがこれまでのクラパムの叙述の中ではそのような部分が見当たらない事。
④処理の為の他行等の“基金“が作られ結果的にそれにより処理が行われた事。
⑤フランスからの金の借入の他、ロシアから金を購入した事
等が過去の問題処理と明かに異なっていると言う事です。特に英銀行総裁が1844年法の停止につき“不健全な銀行経営の元“とした事は注目すべきと思われます。
(但し、政府の“保証“を求めた事との関連で言えば若干評価は難しいかもしれませんが)
ここで考えなければならないのは常識的に解るように“経済政策“はその時の社会・政治情勢から影響を受けざるを得ないと言う事です。若干、当時の政治状況を振り返ってみれば1890年と言う年は
イ)ドイツでは既に1871年から男子普通選挙権が導入され、ビスマルクが1890年下野し、同年の選挙で社会主義政党である社会民主党が19%の得票を得ていた事、又前年の1889年には第一回メーデーが行われ社会主義の国際組織である第二インターナショナルが作られ又
ロ)イギリスに於いても1884年には、社会民主連盟やフエビアン協会が作られ、1889年にはガス労働者の組合が12時間労働からストライキにより8時間労働を獲得していたと言うような大きな社会状況があったと言う事、
又イデオロギー的にはリカードやマルクス等の“労働価値説“に基づき、“不労所得“への批判が強まっていた事等が背景としては無視できないものがあると言わざるを得ないかもしれません。
又、過去の恐慌のときにロシアから資金を求めたと言う記述はクラパムにも見当たりませんが、当時の欧州の外交関係から言うならイギリスは概ね、ロシアの南下政策に対抗してきたが、1890年は独露再保障条約の更新の年であったが、独逸はビスマルクの下野とともに、その更新を拒絶し、それによりロシアはフランスに接近し1891-1894年で露仏同盟を結ぶこととなったわけで、その力関係からロシアがイギリスに接近を図ったとも見られます。