マクロ経済そして自然環境

経済的諸問題及び自然環境問題に感想、意見を書く事です。基本はどうしたら住みやすくなるかです。皆さんのご意見歓迎です。

景気政策史 37  1900年恐慌前後ー2

2010-08-28 16:14:48 | 景気政策史

 前回、投稿でロシアから始まった恐慌の英、独、仏、への波及について述べましたが、ここにおいてアメリカは1901年5月にニューヨーク取引所で相場の大きな下落がありましたが6月には復調しヨーロッパとは若干異なる展開となりました。その後アメリカ国内での鉄鋼生産が大きくなる中、1903年6月から鉄鋼の下落を始め全般的不況状態となりました。(アメリカでは1900年にようやく金本位制になったばかりで中央銀行的組織は未だなかった)。

 

★★★1890年恐慌と日本★★★  

 そういった中ここでやはり日本が世界経済に登場する事を述べなければならないでしょう。日本は明治以降国内外の政治、経済を対外的にも対応出来るよう金融その他諸種の整備を進めて来た訳ですが、既に1890年の”ベアリング恐慌”時点で世界恐慌に巻き込まれ1889年末から金融逼迫が進み、翌90年1月からは株式が下落し又アメリカの購銀条例の影響もあり銀貨が騰貴し生糸等の輸出に影響が出始めました。その様な中、米価も騰貴し一部では騒動にもなり、軍隊も出動しました。参照 日本恐慌史論 大島清 1957)

 その様な中、大阪の同盟した26銀行が日銀へ貸出を要請し、それまで公債証書だけを抵当としていた日銀も1889年11月から商業手形も抵当として取る事とした。又、日銀券の”限外発行”(参照 本稿第18回 ”規定以上”の発行)を大蔵大臣に申請し、500万円の限外発行のが認められた。これにつき大島は”非常の場合に対する準備行為として市場へ安心感をあたえたと言う意味でその効果は認めなければならないであろう”としています。この手法は或る意味英銀行等の処置とよく似ていると言うべきでしょうか。



★★★1900年恐慌と日本★★★
 
 また今、1900年恐慌では1899年11月10日から年内3回、日銀は金利を引上げ(欧州での金利上昇に合わせたと思われます、参照本稿第36回)又、確実な担保があっても融通しなかった。又11、12月正貨の流出があった。(周知のように日本は日清戦争に”勝利”した後、その賠償金で1897年、金本位制になっていた)翌1900年にも数度の引上げを行った。

 只これにつき当時の日銀副総裁高橋是清は”産業育成による貿易収支改善の立場”から歩合引上げに反対した。参照 日本経済史2石井寛治他編)

 しかしそれでも貿易も逆超で日銀は貸出回収の方針で金利は下がらず、1900年12月には九州で銀行取付が起き、翌2月には大銀行でも多少の取付が起きその後大阪でも取付が起きたが、日銀は調査で救済しうる財産のある者は、有力銀行が共同で救済すべきありとし日銀から借り入れ切り抜け、一部沈静した。又その頃、破産しそうな銀行に対し、自行に被害が及ぶとして、有志銀行が救済に当たったものもあり、そういった中で5月に沈静に向かった。







★★★アメリカの1903年恐慌★★★

 さてここで1900年恐慌のアメリカに話を戻すならアメリカはドイツからの”ダンピング的挑戦”を受けながらその後も溶鉱炉等の増設を行いますが、1903年に入って全般的恐慌となり

 それについて鉄鋼業界誌も”挫折(恐慌)は多くの工場の建設と拡大が完了したためである。建設の段階ではそれらは需要を示したが、いまやそれら自身が巨大な供給のみなもととなった”としています。(メンデリソン)ー”投資の二重効果”と言う事でしょうか。









・・・次回9月4日予定


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