マクロ経済そして自然環境

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景気政策史―58 19世紀イギリス対外商業政策と不況 その15  英仏通商条約と“自由貿易”

2013-03-29 13:27:50 | 景気政策史

 

 

一般的に19世紀“自由貿易”が欧州的に完成されたのは1860年の英仏通商条約の締結によりそれが最恵国条約により欧州全体に広がる事により完成されたとされるのが一般的見解であるが、やや詳細に見るならこの英仏通商条約の成立そのものがかなり政治的なものであったと見ざるを得ない(この事は多くの欧州以外での貿易が力により広められたのと照応するが これは今後、触れるが)イタリア独立戦争の中(井上幸治編 フランス史p405~)で、フランスがニース等の併合により領土的野心を表した事等により欧州内の緊張が強まり、それは当時のイギリス大蔵大臣のグラッドストーンが、英仏条約が好戦的感情や侵攻へのパニックに対する唯一の薬であり(Page 227)“選択はコブデン条約(1860年条約の事)とフランスとの戦争の高い危険性の間にある”(Morley:The Life of Gladstone vol.2 p23 前掲 Ashleyによる引用 p 361) との表現、叉それらの状態から軍備予算の増額への動きも出ていたような事からも明らかであるが、そのような中、1859年の終わり頃にはフランスの立場はかなり難しくなっていた。

そのような欧州での孤立を英国との商業条約で打開しようとナポレオン三世が考える中、“かかる政策により英仏両国間の永久的政治関係を改善せんとする以外に何らの希望を持たない”(前掲 北野p449)と考えていたコブデンが、初め非公式にフランス側の政治経済学者のシュブァリエとの間で交渉を行い後、公式の物になった。これは当初、秘密裏に行われしかもフランス側の立法部の承認を必用としなかった(皇帝の条約締結権による)。(フランス側には有力な自由貿易派はおらず、保護貿易派がより力を持っていた)(前掲フランス史p408  Ashley p360-361、Page.p225 )

ナポレオンはその公表した見解の中で“国際交易の恒常的増大無くしては貿易は栄えない、増大する工業なくしては農業も未開発のままである”と述べ綿、羊毛等の関税の廃棄を主張し、保護主義者からの大きな反発があったが英仏両者の最終的決断の理由は政治的なものであったが1860年1月に条約は締結された。(前掲Ashley p361)

条約の骨子は、詳細は後の交渉に任されたが(Ashley p362~)、(levi:p420)

① 相互的な最恵国待遇の付与

② 相互の国で賦課される内国消費税分に応答する追加的関税の付加権

③ フランスは“禁止的関税”を無くし、多くの輸入品の関税を減じ、輸入製品に対する税率を30%限度とする事。

④ イギリスは多くのフランス製品に対する関税を廃棄する事、ワインや外国製の火酒に対する関税を減ずる事

⑤ 両者は石炭の輸出の禁止を禁ずる事

とされ詳細は後の交渉による事となっており、有効期間は10年でその後通知が無ければ延長されるとした。

また“自由貿易の原則”を壊さないためイギリスでの関税削減は全ての他の国に適応するものとした。(Page 226) 

 1820年代にハスキソンによって導入された“互恵関税”の方向性(前述)はその後、30年代以降イギリスの穀物法による農業保護制度や大陸諸国の後発産業保護の考えから徐々に廃棄され(Page p90)、また40年代関税引下げを断行したR.Peelは[私は他の国々が我々の例に直ちに従うだろうと言う保証を諸君にする事はしない。外国は我々の例に従わなかっただけでなく実際は之まで以上に高い関税率をイギリス製品の輸入に対し課してきた。しかしこのために諸君の輸出にどのような事が起こったというのだろうか。諸君の輸出貿易は大いに増加したではないか・・敵対的関税に対抗する最善の方法は自由な貿易を奨励する事である]と“一方的自由貿易”を主張した。(前掲熊谷:マンチェスター派経済思想史研究p98 によるSpeeches of Sir Robert Peel p601からのの引用)

(但しこの英仏条約も英国の“過激な自由貿易派”からは他国の譲歩に拘らず我々のゲートを開けておくと言う基本からの逸脱であり、“互恵的である”として批判を受けた)(前掲 Page p227)

 その条約から他の欧州諸国はフランスに対しイギリスのみにそのような優位が与えられる事に対し憂慮していたが、まずフランスとベルギーが条約を結びそれは相互に最恵国待遇を与える事と相互的関税引下げが内容であったがそれがその後の欧州諸国の条約のモデルとなり、(Page、p234)フランスは1861年にベルギー、1862年にドイツ関税同盟、1863年にイタリア、1864年にスイス、1865年にスエーデン、ノルウエー、ハンザ、スペイン、オランダ、1866年にオーストリア、1867年にポルトガルと条約を結び、(Ashley p365)他方、イギリスは1862年にベルギーと、1865年にドイツ関税同盟と、1863年にイタリアと条約を結び、最恵国条項により第3国に与えた特恵が自動的に相手国にも適応され、これにより欧州の“自由貿易体制”が確立した。

 

参照:条約締結の詳細はA.L.Dunham: The Anglo-French Treaty Commerce of 1860、及び北野大吉:英国自由貿易運動史p446以降に詳しい

 

 

 

以下次回


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