天津ドーナツ

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日本語らしさ…「体ことば」(鼻)  もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2011-09-04 09:58:57 | 日本の文化・歴史・習慣など
・・・さて、月の初めはご存じ、体“ことば”。肩の力を抜いて、日本語の「乙な言葉の技」を楽しんでください・・・(◎の印は、日本語学習、初心者向けです)

◎ 首を伸ばして人を待つ、首ちじめ首をすくめて恐縮し、首ひねり首傾けて考える、首上げて開き直って首を振る、首を振る縦に振るのはガッテン承知、横に振る首・頑固首、首が回らぬ借金ばかり、老いて廻らぬ白髪首、首が危ない首が飛ぶ、やっとの思いで首つながって、ほっと安心首なでる。

* 子は三界の首っかせ、私はあんたに首っ丈、小首傾げて首っ玉、首筋・首元・首根っこ、猪首を見詰めて言ったよね。 「あんた ちょいと 太かねえ」
(註:首っ丈とは、腰丈、胸丈、背丈と同様の首までの丈のことです)

* 手首、足首くびれる処、くびれてないのは首回り、腰には首がないのかね、なぜか乳首は丘の上。

* あれは首輪かネックレス、丸首・とっくり・ハイネック、細首・柔首(ヤワクビ)・ろくろっ首、襟首に舞わす真珠の首飾り、毛糸の首巻き首締めつける、首のサイズは超LLL。
 
 * 首振り三年・尺八修行、義太夫(ギダイウ)子役の首振り芝居、首を振るのは張り子の虎か、駅弁売り子は首掛け芝居 「エ− 弁当 弁当ッ、 弁当にお茶・・・」さぞや、首筋凝ったでしょう。
(尺八は習い始めて三年ほどは、なかなか音がでない楽器、そこで首をふりふり修行するのです)

* 思案投げ首、小首ひねって鶴ッ首、ちんちん鴨の入れ首出し首、首切りバッタはキリギリス、雁首・鎌首持ち上げて、首も回らぬ懐具合。 

*  「お前は首だ!」と首にする、「おおやおや、首になったぜ首飛んだ」、あっさりと首すげ替えられて、もう絶望だと首くくり、首を吊ったら首っつり、首を懸け、首を突っ込む鳩首会談、閉口頓首にございます。   (註:閉口頓首は、お手上げ状態、ほとほと困っている様子)
 
* 悪党の頭首(とうしゅ)が自首して首に縄、首を洗って首差し出して、アグラをかいた首の座だ。「さあ 素っ首をすっぱりやってくれ」 叩いてみせる後ろ首。「さらば覚悟」と一閃・首をはね、首の皮一枚残すは、首切り淺右衛門。

* 首実検、打ち首にした兜首、一番首は誰がした、寝首掻いたか、生き首とったか、首桶眺める首見聞。(昔の戦争はやだねえ、首の取りっこだから)

*  素首(ソクビ)落としに首締め、首投げ、首捻り。行司は叫ぶ「残った残った」。首を抱えてあっけなく、大技決めた、勝った力士は首ひねり、「今のはガチンコだったんだぜ」 

* 正月恒例、悪童連も、首を伸ばして百人一首、慣れない辞書と首っ引き。3月の人形飾りは白首人形、悪ガキ首抜き、雁首落とし。伊達襟そっと襟正し、大首人形に腰抜かす。

ーーーーーー
* “弾いてみて 又 首ひねる 三味線屋” 首尾は上々、シワ首上げて、首筋伸ばして抜き衣紋(エモン)、手首返して威勢良く 「 いよっ はっ ベベン ベンベン ベンベベン・・・・」

*  “田んぼで首綱、畦(アゼ)ではクビキ、さぞや凝るだろ牛の首、稲の穂首の垂れるまで”

♪♪
  いくら口説いても張り子の虎は すました顔して首をふる  ♪アラヨ♪  すました顔して首振るなれど 風の向きよじゃ縦にも揺れる ♪♪ (俗曲もどき)

*      〃 白鷺が小首傾げて二の足踏んで うたぐりうたぐり深くなる〃 

          ーーーーーーーーーつづくーーーーーーーー

日本人は妥協が嫌い?…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2011-08-22 06:38:19 | 日本の文化・歴史・習慣など
 「安易な妥協をするな!」と,労働組合の強かった時代には、随分と聞かされた。
 「新しい政策は妥協の産物!」つい最近の、大新聞の一面見出しだ。
  
  明治以来か、もっと前からなのかは分からないが、日本人は、この「妥協」という“ことば”が、かなり嫌いらしい。
 だが、考えてみたまえ。そもそも民主主義とは、多様な意見や生き方を、互いに話し合って、「妥当なところで折り合う」という、社会のありようなのではなかったのか。

 少し古い話になるが、こんな、経験を思い出した。
 カナダのブリティッシュ・コロンビア州に、日本人の為の大学・「カナダ国際大学」を創ったときのことだ。
 私は初代の事務局長として、教育基本計画や学生寮規則を提案し、カナダ人の初代学長と副学長のアメリカ人と三人の間で議論を重ねた。私が出した原案について、率直な意見を出し合う。学長とは、面識があったが、副学長とは初対面だった。ことに手こずったのは、寮の規則を討論したときだった。アメリカ人の副学長とは感覚がかなり違うのだ。
 私が原案をつくったときには、カナダ、日本、アメリカ三カ国の大学から、実例を取り寄せて吟味したのだが、彼はわたしの案に「“un-comfortable”・しっくり来ないな」を連発する。 
 アメリカの大学寮の規則には、「廊下でスケボーをしないこと」とか、「敷布等を結んだりした綱を使って、窓から出入りをしないこと」など、私たちには“噴飯モノ”のルールが多いのだが、アメリカ人の彼にとっては、どうやら“噴飯モノ”とは思えないらしい。
 「学寮に入るのは日本人だし、管理者も日本人、だから日本流で」と説得するのだが、副学長は、どこか落ち着きが悪いらしく“un-comfortable”だと腕組みをする。なかなか納得してくれない。
 そこでさらに角度を変えて日本の学生とアメリカの学生の気質の違いを、丁寧に話してゆくと、次第に彼の顔が和んできた。それに連れて、質問も具体的に、建設的になってゆく。
 そして5時間、ようやく、「Now I'm“comfortable”」と笑顔になって、三者の考えはまとまった。
 
 私にとって、この副学長が言う「コンファタブル・“comfortable”」という表現が、きわめて印象的だったことを覚えている。
 「議論」というものは、参加したモノが理論的に話し合って、互いに「コンファタブル・心やすらかに納得する」ところ、即ち妥協点を探すための言語行為だということを、実感したのだ。
 
 日本人の多くは、この点において、議論・討論というコミュニケーション行為を誤解しているのではないかとワシは憂える。
 思うに昔、経営者と組合の対立する“春闘”あたりで、「安易な妥協は許さないぞ!」などと叫んでいたことが、心の底にこびり付いていて、嫌いになったのかも知れない。恥ずかしいことだ。
 それとも、「妥協」という言葉自体に、いさぎよさを感じないのは、国民性なのだろうか。しかし、一方で「妥結」や「妥当」という言葉には抵抗がないのに、「妥協」だけが嫌いだというのは、いささか納得できない。
 どんな辞書でもいいから、「妥協」の項目を見直すとよい。ことに「妥」には「心をやすらかにする」という意味がある。お互いが納得して、心やすらかに議論を終えたいものである。
 私には、「妥協を許さぬ毅然とした態度」だとか「正義の道は真っ直ぐだ」などという態度こそ、危ない思想に思えるのだ・・・


日本語、そして日本人を理解したい人へ その2…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2011-07-03 18:21:19 | 日本の文化・歴史・習慣など
・「求同存異」と「大同団結」「滅私奉公」・・・

 今年の正月、中国の胡錦涛主席がアメリカを訪問、ホワイトハウスでの歓迎行事でスピーチをした。その詳細は、日本ではあまり詳しく報道されなかったが、幾つかのキーワードが浮かび上がってきた。なかでも私の心を捉えたのは“求同存異”だった。懐かしい“ことば”でもあった。
 “求同存異”
 この“ことば”に、私が初めて出会ったのは1972年の9月。田中角栄首相らが、周恩来首相の招きで中国を訪問し、日中の国交が正常化した、その時だった。
 北京で田中首相ら一行を迎えた周恩来氏は、日本と中国との国交を回復するに当たって、“求同存異”の精神で当たろうと呼びかけた。
 周恩来氏のこの発言を、日本のマスコミは、いささか乱れ気味に受け取った。ある新聞は「小異を捨てて大同に・・・」と書き、ある新聞は「小異を残して大同に・・・」と書いた。
 
 当時日本にはまだ、中国大使館はなく、代表部だったが、即日、代表部から各メディアにブリーフが配られた。
 ブリーフの要旨は「周恩来首相が言ったのは、“求同存異”であって、その真意は『小異を捨てる』のではない。また、『小異を残す』というのも『取り残す』ことになり、首相の本意ではない。“求同存異”を日本語にすれば『小異をお互いに認め合い、共有しながら、一致出来る大きな道へ進むように話し合おう』という意味なのだ。どうぞ、誤解のないように・・・」
 文章は、正確ではないが、凡そこのようなモノだったと記憶している。
 
 当時、私はNHKの教育テレビで、本音で語り合える討論番組を育てようと腐心していた。私や仲間のディレクターたちにとって、この“求同存異”という“ことば”は、目からウロコというか、天雷の如くに響いた。
 私たちは語り合った。
 「そうだ。“大同”とは議論の目的であり果実なのだ」
 「そして、“異”とは、横たわる課題のことだ」
 「“異”を切り捨てては議論にならぬ」
 「論じ合い、人間の叡智をかけて解決すべきものが“異”なのだ」
 「それは、議論の果実を得るためにこそ論ずるべきだ」
 「我らは、なぜか、つい目前の“異”に振り回され過ぎてしまうのか」
 ・・・
 
 時代は、さらに遡る。
 明治の終わり、帝国議会の開設に向けて、自由民権を唱える各会派に向けて、「小異を捨てて大同につくべし」と、後藤象二郎は呼びかけた。世に言う「大同団結運動」だ。
 要は、個々バラバラに自説を唱えていたのでは、成果は得られない。この際、お互いの相違点には目をつぶって、大きな勢力となろうと言うことだった。
 運動は、肝心の後藤が「一本釣り」されて大臣になり、運動も尻すぼみに消え去ることになる。“小異”を切り捨てたとき、事実上、この運動は死んだのだ。
 だが、「小異を捨てて大同につけ」という言葉は残った。以降、私たちはこの言葉を「フレーズ」として、丸呑みしていた気配がある。
 
 太平洋戦争の最中も、私たち国民は、「一億一心」「滅私奉公」「挙国一致」「欲しがりません勝つまでは」と、庶民のささやかな「異」を唱えることすらも、完全に禁じられて過ごしてきた。
 戦後になっても、「一億総懺悔」の風が吹きまくり、経済復興一筋に走り出し、「エコノミックアニマル」と蔑まれながらも、猛烈社員と化して、“私を捨てて”、夢中で戦後を駆け抜けた。脇目もふらずに。
 私は、60年代後半から巻き起こった学生運動の現場で、幾つもの現場で実況放送を担当していた。よど号、安田講堂の攻防、成田三里塚、妙義山事件、浅間山荘・・・目の前に展開する新しい波を見詰めていた。
 東大医学部の封建的体質の改革を叫んで始まったこの学生運動すら、各派閥の間では「小異」の争いが繰り返され、やがて内ゲバ闘争が激化し、ついには殺し合いにまでなり果て、学生運動の火も、殆ど果実なしに消えた。
 何故に私たちは、かくも「小異」にこだわり、大きな目的を見失ってしまう歴史をたどってきたのだろうか・・・。
 「大同につく道を探すためにこそ、小異を存(のこ)して議論する」。そのことの大切さを、私はもう一度、しっかりと噛みしめたい。
 
 いま、まさに国難とも言うべき大災害にあい、フクシマの悲劇はまだ続いているというのに、政治家は国会で、何を語り合っているのか。
 何故に、彼らは「大同」について語ろうとしないのか。不思議でならない。国会とは、国の未來のために議論する場所である筈なのにねえ・・・
 「どんなことがあっても、政権を自民に渡すな」
 「今こそ、首相の首をとるチャンスだ」
 「菅さん、あんたがいなけりゃ 話し合うだぜ・・」
 ・・・
 冗談じゃあない!
 これじゃあ、やくざの喧嘩と同じじゃないか。
 
 ある人は、これは日本人特有の性向だというが、本当にそうなのだろうか。もし、そうだたとするならば、この国に“民主主義”が”育つことは無いだろうな。
 だが、私はそうは思わないね。日本人も同じ血の流れる人間じゃあないか。
 何かが間違っているのであって、日本人だけが特異なのではない。大なり小なり、どこの国でも同じような現象はある。
 もう一度、民主主義の原点に立ち返れば、“求同存異”の精神が、我らの幸せな未來を予言してくれると信じている。
 
 来週からは、少し自虐的に過ぎるかもしれないけれど、具体的に、この問題にメスを入れて行こうと思います。今月は「50音図の落とし穴」と「体ことば」は休みます。来月までお預けです。

日本料理のマナー

2010-06-23 10:06:22 | 日本の文化・歴史・習慣など
日本料理の種類

① 本膳料理

 西洋料理のフルコースに相当するもので、日本料理のもっとも本格的な供応の形式です。日本料理のマナーの基本になるものです。古くから冠婚葬祭などの際に用いられてきましたが、近ごろでは正式の本膳料理はあまり見られません。

 

② 会席料理

 本膳料理が簡素化されたもので、宴会や結婚披露宴などでお目にかかるのがこれです。本膳料理のようにはじめから全部並べて出される場合と、懐石料理のように順番に出される場合とがあります。



③ 懐石料理

 茶席の料理で、茶を出す前に出す簡単な料理のことで、一品ずつ順に出されます。「懐石」というのは、禅院で温石(おんじゃく)で腹を温めて空腹をしのいだことから出た言葉です。

   

箸のタブーな使い方

 次のような箸の使い方はタブーとされます。無意識のうちにやってしまうこともあるので、お気をつけて!

① 刺し箸

 煮物などを箸で刺して食べること。

② そら箸

 一度箸をつけた料理を取らずにいること。

③ ねぶり箸

 箸を口でなめたり吸ったりすること。

④ 振り上げ箸

 会話が弾んだときなどによく見られる仕草。ついつい箸を指揮棒のように振り上げてしまうこと。

⑤ 迷い箸

 「どれを食べようか」と、料理の前で箸先をあちこち動かすこと。

⑥ 寄せ箸

 箸を使って器を引き寄せること。

⑦ もぎ箸

 箸にご飯粒がくっついているのを口でもぎ取ること。

⑧さぐり箸

 盛られた料理を箸でかき回し、下からさぐり出して好きなものを食べること。

 また、割り箸が出されたときの注意点を申し上げます。

 みっともなさがいちばんあらわれやすいのが、最初に「割る」ときです。箸を縦にもって左右に割るのは縁起が悪いとされます。両手で水平に持ち、上下に割るのが上品なしぐさです。

 また、割ったあとに、両方の箸をしごき合わせるのは失礼にあたります。「ササクレができるような質の悪い割り箸だ」と言っているようなものだからです。

  

おしぼりのタブーな使い方  

 おしぼりで顔やメガネ、さらには首筋などを拭くのは論外、とくにオヤジ!(私もオヤジだが) おしぼりは手を拭くものです。卓上を拭いてもいけません。卓上が汚れたら、布巾をもらって拭き取りましょう。 

 

吸い物のいただき方  

 お椀のふたは、左手を添えて右手でふたの糸底をもって取り、裏返してお膳の右側に置きます。吸い物にかぎらず、ふた物はすべて最初にふたを取ります。その際、右側のものはお膳の右側に、左側のものは左に裏返しておき、食事が終わったら元に戻します。 

 

刺身の食べ方

 ふつうは、小皿のしょう油にわさびを溶かして、これに刺身をつけて食べますが、正式には刺身に少量のわさびをつけ、それをはさむように二つ折りにしてしょう油をつけて食べます。

  

焼き魚の食べ方

 頭に近いところから食べ始め、上身を食べたらひっくり返さず、骨を外してそのまま下身を食べます。骨を外すとき、箸だけでは無理なら、左手を使ってもオーケーです。

  

ごはんの食べ方

 口をお茶碗にくっつけて箸でかき込むような食べ方をしてはいけません。おかずをごはんの上に乗っけて食べたり、出たお茶で勝手にお茶漬けにしたりするのもマナー違反です。

 おかわりをするのに遠慮はいりません。お茶碗の底に一口分だけ残しておかわりをお願いするようにします。

  

寿司の食べ方

 箸を使わずに手で食べるのがお寿司です。桶(おけ)に盛られたものは箸を使いますが、カウンターで握ってもらう場合は直接手でいただきます。

 できればひと口でパクッと食べます。上品ぶって半分だけをかじるのはかえって見苦しいものです。ただし、大口あけて放り込むのでは品がありません。まず半分近くを口に入れ、残りをそっと押し込むようにして食べれば優雅です。



一度、日本料理店で「日本料理のマナー教室」を開きたいですね。
楽しく、そしておいしい勉強ができそうです。