天津ドーナツ

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「書き言葉は図形」、「話し言葉は音」…元NHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-05-28 19:27:26 | 日本語学習法
 
少し昔の話になる。
 ラジオの番組で、生前の金田一春彦さんとの対談シリーズを放送したことがある。
 その時テーマの一つが、このタイトルだった。
『「書き言葉は図形」ですし、「話し言葉は音」なんでしてねえ』
 金田一さんは、ニコニコ笑いながら、さらりと言われた。
 言われてみれば、当たり前のことなのだが、こうした名言は、我々には、ずばりと言い切れるものではない。
 当然、“書き言葉第一主義”の日本のことだ。各方面から、異論続出することは、目に見えていると思ったのだが、さすがは金田一春彦先生の言葉、なんの反論も無かった。
 私にとって、いまだに忘れられない放送であり、“ことば”である。

 我ら日本人のコミュニケーションは、どうやら、『音であるという表現力の広がり』を、つい忘れて、文字という図形に頼ってしまうという欠陥が、共通しているらしい。
 折角、互いに時間をやりくりして、会議場に集まっているにもかかわらず。お互いが「書かれた原稿」を読み合い、それで会議をしたと錯覚している。
 これは、なにも国会ばかりではない。会社や団体での大方の会議を拝聴しても、原稿読みの域を出ない。凡そ、“生きている言葉で話し合う”光景には出食わさない。あるとしたら、冷静さを欠いた野次か、さもなければ怒鳴り合いだ。
 今は違っているかも知れないが、私のいた頃のNHKの会議も、大概がそうだったな。
 
  ある会社の社長が、朝日新聞のコラムで書いていた。
 「うちの会社では、定例会議を全て止めることにした。ほとんどが、メモを回覧すれば済むことばかりだ・・・。みんな現場では必要な人間だ。貴重な時間を割いてまで、集まる必要なんか無い」

 「音として言葉」の最も大切な要素は、現在形で語られるコミュニケーションであり、柔軟に訂正し、説明し、確認しあうことのできるプロセス・コミュニケーションである筈だ。
 どれだけ白熱した言葉のヤリトリがあったとしても、「既に書かれた(止まった)メッセージ」の交換では、“話しことば”とは言えない。
 “ことば”の泣き声が聞こえる。
「話し」「聞く」コミュニケーションは、その現場で生み出される思考と共に生きているメッセージ”の交換が、本来の姿だ。
 「会議、会議、会議・・・会議は昼寝の時間なのさ」
 「会議の多い組織は、ダメ組織」
 「だけど、会議に出る機会が多いほど、出世するってさ」
 「・・・」
 「会議ってのは、生きた言葉を殺すところさ」

 私は、何も、我田引水の“話しことば”論をしているわけではない。
 “話しことば”と“書きことば”の棲み分けをはっきりしろと、言っているのだ。

 以前、ある自治体の点字図書館のお手伝いをしたことがあった。
 市の公報紙を、声で表現する。
 施政方針やら、市議会の速記録、その月の行事予定やら、救急医の当番・・・パンフレットを見ることの出来ない市民への、欠かせないサービスだ。
 初めは、なんの苦もなくこなしていったのだが、さてと、図形表示にぶつかった。
 円グラフ、棒グラフ、線グラフ・・・市の公報紙だから、当然予算の配分や、意見収集の配分等々はグラフや図形表示になる。
 こうした表現は、視覚的には見やすく、一目瞭然のケースもある。
 だが、このグラフや図式を、「話し言葉」で説明してごらんなさい。
 これは、一苦労だ。実際、録音したものを視聴して愕然としたね。
 円の中の区分を言う位ならなんとか理解して貰えるだろうが、棒グラフや線グラフになると、これは・・・全く別の伝達方法を考えるべきなのだろうね。
それでも、市の担当者は、音の“ことば”で表現してくれという。
そんなことをしたって、聞く人の迷惑になるだけなんだがね。
 
 目で見る“ことば”と耳で聞く“ことば”は、共生するべきものなんだよ。


4年目のドーナツを宜しくお願いいたします(川端)

2012-05-20 13:33:58 | 顧問・アドバイザーから
天津ドーナツを応援してくださっているみなさまへ

いつも、天津日本語学習サークル「ドーナツ」を応援してくださり、本当にありがとうございます。
おかげさまで、ドーナツも来年は4年目を迎えることができます。

3年目の今年は、天津視覚障害者日本語訓練学校とのカラオケコンテストや、
PK(勝ち抜き)スピーチコンテスト、第2回1・2年生スピーチコンテストを行ってまいりました。

どれも、今までの天津にはなかったものですが、それぞれの大学が積み重ねてきたものを
つなげていった結果、実現できたコンテストです。

また、日本人留学生や日本企業の方々の参加も、少しずつ増えてきており、
コンテストに参加した学生たちからも、喜びの声が届いております。

これも、発足当初から応援してくださっているみなさまのおかげです。
本当にありがとうございました。
ぜひ、お時間や条件の許す範囲で、今後も天津の学生たちへのご支援をお願いいたします。

なお、個人的なお話になってしまいますが、私自身は、
3年目を持って、ドーナツの顧問を退くことにいたしました。

来年度以降のことは、学生リーダーたち自身が話し合って決めることに
なっておりますし、新しい顧問が必要な場合も、自分たちで依頼をしにいくということにいたしました。

これは、この3年間で大学間のネットワークができたと思われること、
また、今後は、天津の学生や地元の先生方が、自分たちで各方面と連絡を取り、
自分の手で必要な日本語学習環境を作っていってほしいと願ってのことです。

今年の後半は、少しずつ学生や各大学に仕事の主導権を渡してきましたし、
そろそろ、自分たちで活動の計画を立てて実施する時期だと判断いたしました。

この3年間は、本当に楽しく、あっという間の3年間でした。
今までご支援くださった皆様、そして、本当に多くのことを教えてくれた天津の学生たちに、
心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

末筆になりますが、皆様方のますますのご発展とご健康をお祈りいたします。


天津にて 川端敦志


星雲状態の日本語…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-05-19 04:39:34 | 日本語学習法
 日本語というのは、遠くで見ると、一塊になって存在しているが、さて、その中に入ってみると、いや雲散霧消というかまとまりがない。ときとして、漠然としていて、つかみ所のない気分に襲われる。
 五里霧中と言うが、実は芯が見えないのだ。
 例えてみれば竹輪だね。
 出来たての頃は芯があったのだろうけれど、いまではガランドウだ。
 別の言い方をすると、星雲状態だね。
 もっとも困るのは、スタンダードの形が無いことだろうか。
 どの言語にしたって、スタンダードの形があり、その他にかしこまった形や、砕けた形があるのが普通だ。
 だが、日本語という星雲状態の塊は、芯を覗くと青空だけが見える。
 相対する人間同士の相対的関係や、シチュエーションで、千変万化するからね。


 毎日頻繁に交わす、アイサツの“ことば”にしたって、スタンダードがない。
 「おはようございます」が基本形なのか。「おはよう」が基本か。未だに決着はついていない。
 現実の問題として、年長者なら「おはよう」は使えるが、若者が使える場面は限られる。
 相手次第だ。そうした意味では、「おはようございます」を基本と考えた方が現実的だ。
 しかし、疑問は残る。

 ちょっと、考えてみようか。
 「おはようございます」の、最初の「お」は敬語だ。
 後ろの半分ほどを占める「ございます」も丁寧語という敬語だ。
 するってーと、本体は「はよう」だけしか残らない。
 だが「はよう」だけでは、“ことば”としてハンチクで、使いようがない。
 朝のアイサツの基本の形・スタンダードは・・・

 その上、「おはようございます」という言葉の“拍”は9音節もあって、長ったらしい。
 だから、親密な間柄では「オス」と、極端な省略語(アブリビエーション)となる。
 少し前に、「オハ」という新語を流行らせようと、あるタレントが試みたらしいが、長くは続かなかったな。

 私たち日本人は、初めっから、こうしたスタンダードのない、相手次第の日本語に、どっぷり浸かっているから、この不思議な現象を不思議とは思っていない。
 だから、日本語を外国人に教えている人は、皆さん困る。

 昔、あるアメリカの友人が言っていた。
 「何故、朝のアイサツだけ、敬語まみれにするのか」と。
 なるほど、昼は「こんにちは」、夜は「こんばんは」だ。敬語はつかない。
 そのとき私は、「そりゃ、一日の初めのアイサツを大切にする思いからだろう」と言った。
 彼は、半分納得した。
 「ああ、だから新年のアイサツも、大切だから『おめでとうございます』なんだね」
 しばらくして、彼はつぶやいた。
 「だから、人生最後のアイサツも『ゴしゅうしょうサマ』か。でも、感謝ののアイサツは『オありがとうゴザイマス』じゃないよね。


かな文字のイメージ その1…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-05-08 12:37:19 | 日本語学習法
日本大辞林という辞書が、明治27年に発刊された。著者は物集高見氏(もずめ-たかみ)、 物集高世氏の長男で、父子ともに著名な国学者だ。
 この辞書には、カナ文字について、その音のもつイメージが書き込まれている。日本の辞書としては恐らく初めてのことだろう。若い頃、ワタシはこの文章を読んで、少なからず、感動したことを思い出す。
 先月までは、本居宣長ら国学者の狭い了見に批判を加えてきたが、この人は少し違う視点を持っていたのだと感じている。
 新しいシリーズの枕に、物集高見氏の音についての感じ方をご紹介しよう。
註:「音」という字には「コエ」とルビが振ってある。念のため。 



あ行から順に並べてみる。(仮名遣いは原文通り)
「あいうえお」は、嘆くと驚くとによぶ音(コエ)にて、広く大きなるものをいふにかなふ。
「かきくけこ」は、金石(カネイシ)などよりたつ音にて堅固(カタラカ)なるものをいふにかなふ。
「さしすせそ」は、風の吹く音、紙などのすれあう音にて、狭くささやかかなるものをいふにかなふ。
「たちつてと」は、琴、鼓などよりたつ音にて、剛強(ツヨゲ)なるものをいふにかなふ。
「なにぬねの」は、嘆くと驚くとによぶ音にて、また発散(ヒラキチリ)するものをいふにかなふ。
(「ハ行については、ワタシの不注意から消えたのか。もともとなかったのか。兎も角手元にはない。ご存じの方がおられたら、お教えを請う)
「まみむめも」は、嘆くによぶ音にて、まろやさなるものをいふにかなふ。
「やいゆえよ」は、嘆くと驚くとによぶ音にて、優なるものの美はしきものをいふにかなふ。
「らりるれろ」は、笛、鈴などよりたつ音にて廻転(くるくる)するものをいふにかなふ。
「わゐうゑを」は、嘆くと驚くとによぶ音にて、撓みまがれるものをいふにかなふ。

 物集高見氏は、“ことば”というものは、写生語から出来たという説をとっていて、それぞれが固有のイメージを持っていると考えていた。昔の人だから、その感性に新しさ、鋭さは見られないが、実に興味深い。
 ことに、文字の持つ音の特性や響きに何を感じるかということは、日本語を考える上で、大切な視座なのだが、そのご国語学者の多くは、あまり興味がなかったのか、重要視されなかった。何故だろうか。
 「50音図の落とし穴」につづいての、新しいシリーズは、こうした“ことば”の持つイメージ、時代と共に変化し揺れてゆくイメージについて、日本語の自由闊達な用法などを例を引きながら、ご一緒に楽しんでゆくことにしたい。カテゴリーは「音の“ことば”」に入れた。

天津ドーナツ「天津日本語ゼミ(仮称)」中間報告会

2012-05-05 06:31:12 | イベント・コンテストの予定

                   当日のスケジュール                          

日付:2012年5月13日 14:00~17:20

場所:天津商業大学

プロセス:

2:00 学生責任者の挨拶:天津商業大学の王永ヤクさん

     RT(ラウンドテーブル)による討議(40分)

2:40 全体発表および質問応答

    ① 天津商業大学 Aゼミ:3年生基礎研究ゼミナール(30分)

    ② 天津商業大学 Bゼミ:2年生読書会ゼミナール『おくのほそ道』(30分)

    ③ 河北工業大学 日本の青年の恋愛観   (30分)

    ④ 天津師範大学津沽学院:「日本語の曖昧さ」(30分)

4:40 全体討議と第三者による評価(40分)

5:20 記念撮影