少し昔の話になる。
ラジオの番組で、生前の金田一春彦さんとの対談シリーズを放送したことがある。
その時テーマの一つが、このタイトルだった。
『「書き言葉は図形」ですし、「話し言葉は音」なんでしてねえ』
金田一さんは、ニコニコ笑いながら、さらりと言われた。
言われてみれば、当たり前のことなのだが、こうした名言は、我々には、ずばりと言い切れるものではない。
当然、“書き言葉第一主義”の日本のことだ。各方面から、異論続出することは、目に見えていると思ったのだが、さすがは金田一春彦先生の言葉、なんの反論も無かった。
私にとって、いまだに忘れられない放送であり、“ことば”である。
我ら日本人のコミュニケーションは、どうやら、『音であるという表現力の広がり』を、つい忘れて、文字という図形に頼ってしまうという欠陥が、共通しているらしい。
折角、互いに時間をやりくりして、会議場に集まっているにもかかわらず。お互いが「書かれた原稿」を読み合い、それで会議をしたと錯覚している。
これは、なにも国会ばかりではない。会社や団体での大方の会議を拝聴しても、原稿読みの域を出ない。凡そ、“生きている言葉で話し合う”光景には出食わさない。あるとしたら、冷静さを欠いた野次か、さもなければ怒鳴り合いだ。
今は違っているかも知れないが、私のいた頃のNHKの会議も、大概がそうだったな。
ある会社の社長が、朝日新聞のコラムで書いていた。
「うちの会社では、定例会議を全て止めることにした。ほとんどが、メモを回覧すれば済むことばかりだ・・・。みんな現場では必要な人間だ。貴重な時間を割いてまで、集まる必要なんか無い」
「音として言葉」の最も大切な要素は、現在形で語られるコミュニケーションであり、柔軟に訂正し、説明し、確認しあうことのできるプロセス・コミュニケーションである筈だ。
どれだけ白熱した言葉のヤリトリがあったとしても、「既に書かれた(止まった)メッセージ」の交換では、“話しことば”とは言えない。
“ことば”の泣き声が聞こえる。
「話し」「聞く」コミュニケーションは、その現場で生み出される思考と共に生きているメッセージ”の交換が、本来の姿だ。
「会議、会議、会議・・・会議は昼寝の時間なのさ」
「会議の多い組織は、ダメ組織」
「だけど、会議に出る機会が多いほど、出世するってさ」
「・・・」
「会議ってのは、生きた言葉を殺すところさ」
私は、何も、我田引水の“話しことば”論をしているわけではない。
“話しことば”と“書きことば”の棲み分けをはっきりしろと、言っているのだ。
以前、ある自治体の点字図書館のお手伝いをしたことがあった。
市の公報紙を、声で表現する。
施政方針やら、市議会の速記録、その月の行事予定やら、救急医の当番・・・パンフレットを見ることの出来ない市民への、欠かせないサービスだ。
初めは、なんの苦もなくこなしていったのだが、さてと、図形表示にぶつかった。
円グラフ、棒グラフ、線グラフ・・・市の公報紙だから、当然予算の配分や、意見収集の配分等々はグラフや図形表示になる。
こうした表現は、視覚的には見やすく、一目瞭然のケースもある。
だが、このグラフや図式を、「話し言葉」で説明してごらんなさい。
これは、一苦労だ。実際、録音したものを視聴して愕然としたね。
円の中の区分を言う位ならなんとか理解して貰えるだろうが、棒グラフや線グラフになると、これは・・・全く別の伝達方法を考えるべきなのだろうね。
それでも、市の担当者は、音の“ことば”で表現してくれという。
そんなことをしたって、聞く人の迷惑になるだけなんだがね。
目で見る“ことば”と耳で聞く“ことば”は、共生するべきものなんだよ。