天津ドーナツ

みんなで力を合わせて、天津の日本語教育を楽しく、元気にしましょう。ご意見・ご要望は左下の「メッセージ」からどうぞ。

信頼関係を結べる人たち

2012-01-29 22:49:42 | 顧問・アドバイザーから
ユニクロのM店長は、「学生の成長につながるアルバイトになったらいいですね」とおっしゃって、4人の学生を採用してくれました。このアルバイトが正社員としての採用につながるかどうかは、その学生の努力しだいです。

また、ある日本企業は、卒業までの2年から3年間の「仕事力向上トレーニング」を無料で引き受けてくださいました。今、天津のあちこちでみられる有料の就職関連講座の質は、私はもう話題にはしません。

昨日(28日)は、超がつく大手商社の方が、私の研究室まで来て、ドーナツの取り組みについてお話を聴いてくださいました。



私は、日本語科の学生たちが、クラスメートや先生方、そして日本人や日系企業の人たちをどう思っているのか、

もっとはっきりいえば、信頼しているのかどうかは、分かりません。

中国を安価な労働力の供給源、あるいは市場としてしか捉えてない日本人が多いことも事実ですし、

日本語教育の実態が、教育の名を借りたビジネスであることも、否定はできません。



でも、一部の企業の方が、本気で中国の人を運営のパートナーとして考え始めていることは事実ですし、

中国のことは中国の人に任せたいと考えている会社があることも事実です。



「自分の言うことを聞くかどうか」「こちらの予定通りに学生が動くか」ということしか頭にない教師にしか接していないと、上記のことは信じられないかもしれませんが、社員の個人的な幸せが会社の発展につながるというのが、これからの企業のあり方だという社長もいます。



利益が必要な企業でさえ、社員一人ひとりの個人的な人生に配慮し始めているのであれば、教師が最優先で考えるべきことは、学生と学生の周囲(家族や故郷の人びと)の幸せ以外にあるのでしょうか。



京セラという、これまた超がつく一流企業の「稲盛氏」が、

「事を起こすにあたっては、自分に「私心がないか」を問わなければいけない」と

おっしゃっています。



自分が「先生、先生」と呼ばれ続けるうちに、自分のやっていることが全て正しく、学生が従うのが当たり前と考えてはいないか、確認をしながら2012年の仕事を進めていきたいと思います。(もし、私が勘違いをするようなことがあったら、上記の企業の方々が厳しく教えてくれるはずです)

*体“ことば”・髪(かみ・はつ・びん・け・もう)の部…元NHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-01-29 08:38:16 | 日本語学習法

◎ 自慢の髪型ヘヤースタイル、逆毛を立てて、緑の黒髪 色しっとりと、洗い髪ならカラスの濡れ羽色、乙女の黒髪大象をつなぎ、肌の白さと髪の長きは、まっこと七難隠します。
(註:女の髪の毛で作った綱は、大きな象を繋いでも切れないほど強い。男を引きつけるなんぞは当たり前)

* 怒り狂って髪の毛逆か立て、総髪・蓬髪・怒髪に乱髪天をつき、秋風に乱れる髪はバサラ髪、サミダレ髪をかき分けて「うらめしやー」、あな恐ろしや総毛だつ。 ブルブルッ!(×_×)

* むだ毛・アホ毛の毛むくじゃら、枝毛・癖毛に遊び毛・立ち毛、髪冠は髪がしら、ツムジは薄毛の縮れ毛、ツケマツゲをばピンと立て、巻き毛も愛嬌、増毛・植毛・薄毛の対策、不思議に濃いのはスネ毛だけ、混じり毛なしの純毛でございます。
 (註:アホ毛は、美容業界の隠語。まとめた髪の毛からピンピン跳ねてる短い毛)
 
* 髪結いの亭主が生やす無精髭、地毛は怒り毛、鼻毛を抜いて引き眉毛、鬢付け油の撫でつけ髪で、日がな一日三毛(ミケ)を抱き、猫毛なでなで毛玉を解いて、いつのまにやら尻の毛ぬかれ。

* 天空澄みて地平にかすむ、青山一髪(セイザンイッパツ)これ中原(チュウゲン)、間一髪と髪の毛一本残すは手練の刃(ヤイバ)、前髪落とした若衆髪の艶っぽさ。
 (中国の詩:遠くかすむ青山が青空と線のように交わるさまを 1本の髪の毛にたとえた)

* 何人、紅毛・金髪が集まったって、弁髪・シラガが寄ったって、黒山の人だかりとはなるまいね、てらてら頭の坊主が群れりゃ、後光が差します節電効果。 眩しいばかりだ。   

* 馬疲れれば毛長し、やつれた女はほつれ髪、遺髪を抱いて髪を下ろした後家さん剃髪、有髪の僧は在家で修行、坊さんカンザシ何故に買う。

* 産毛(ウブゲ)・脇毛に胸毛にそぼろ毛、鬢の毛・癖ッ毛・後れ毛じゃまっけ、ピンと跳ねるは毛癖に候、抜け毛に猫っ毛、寝乱れ髪が鼻毛を抜いて、振り分け髪と日本髪が、不毛の土地へ膝栗毛。

* 濡れ髪を染めてみたけど銀髪・茶髪は洋髪に、黒髪・揺れ髪・鬢付け油で抜け毛を整髪、野郎は理髪か散髪か、白髪・染髪、脱毛対策、植え髪・結い髪、なんとかしましょう髪飾り、何ともならぬは河原っ毛。  (^◇^;)

* 羽毛・羊毛・硬毛・植毛、黒毛は和牛で葦毛は馬の毛、刷毛(ハケ)に毛筆、筆の穂先は命の毛、喉毛は山羊の毛、腰毛に力毛(チカラゲ)墨タップリと、筆の毛先をちょっと舐め。
(註 喉毛;筆の穂先に近い部分の毛で、墨の含み をよくするヤギ毛、シカ毛がつかわれる)

* 額髪は愁いの毛、引眉・眉毛に長髪揺らし、後ろ髪には髪油(カミアブラ)、髪高々と束ねた髪型は、難攻不落の203高地。  大正ロマンですかねえ。

* 毛を吹いて、兎(ウ)の毛で突いた傷探し、九牛の一毛ここにあり「いやいや、そんな大げさな、ほんのカスリ傷に毛の生えた位のもんでして・・・」  (^◇^)

            ーーーー小唄ーーー
 髷にさしたる房楊枝
        浴衣の裾をかいどりて
           髪結い新三は いい男


世界一のサッカークラブ「FCバルセロナ」の育成方法

2012-01-21 08:22:38 | ドーナツの宝
サカイウ(http://sakaiku.jp/)からの転載です。

■私たちは幼年時代を最大限に延ばしてやらなければならない
私たち親は、子どもの幼年時代を最大限に延ばし、子どもがずっと子どもらしくいられるようにしてあげなければいけません。早いうちからプレッシャーをかけてはダメなんです。サッカーをやる子どもたちの場合、家族と一緒にいる時はなるべくサッカーを話題に“しない”方がいいと思います。



子どもがハットトリックを決めた日は、父親はそのことを大ごとにせず、子ども本人よりもチーム全体について話をすることをおすすめします。サッカーを家族の中心にしないことがコツなのです。



例えば、サッカーの代わりに勉強を家族の中心的話題にした方がよいのではないかと思います。両親や兄弟にとってサッカーの重要度があまりにも高まってしまうと、子どもにとってサッカーが頭痛の種になり、夢も失ってしまう。毎回の試合が学校の試験のようになってしまうからです。



サッカーをプレーする子どもには、プレッシャーを与えないほうがよいです。子どもは子どもらしく―。人間としての成長の方が、スポーツのレベルアップよりも大事ではないでしょうか。私の経験からいうと、称賛をあびすぎて周囲を見失ってしまうこともあります。そんな時、家族は現実へと導いてくれます。





■イニエスタからの言葉。「選手にとって大切なものとは」
イニエスタ:「若い選手にとって、周囲の人々の言葉は最も強い影響を与える。子どもの頃からずっと、お前が一番だとか、完璧だとか、そういうことばかりいうのは逆効果だ。そういうやり方はいけない。幸い、僕のまわりにいた大人はもともと謙虚で、『努力しなければ何も成し遂げられない』と、いつも僕に教えてくれた。父のアドバイスにはいつもしっかり耳を傾けていたし、時には指導者のアドバイスよりも父のアドバイスを当てにしていたこともあった。でも父はいつも『監督のいうことをよく聞くんだぞ』と僕にいっていた。」



バルサのトップチームに上がれるのは、才能のある選手よりも努力して伸びた選手の方が多い
イニエスタ:「努力、規律、継続は、トップチームに上がるために必要不可欠な価値観だ。日々の努力は、きちんと報われるものだ。バルサのトップチームに上がれるのは、才能のある選手よりも努力して伸びた選手の方が多い。すべての練習で努力しなくてはいけない。練習中に『もっと頑張れ』と指導者にいわれたことは、僕は一度もないよ」



チーム内で大切なのは「敬意」だ
イニエスタ:「チーム内で大切なのは『敬意』だ。友情よりずっと大切なことだよ。どんなに仲良くなったとしても、チームメイトの間には必ず敬意がなくてはいけない。そうじゃないと、集団が機能して勝利することはできないからだ。

例えば、僕が今のように出場機会に恵まれていなかった頃、僕はピッチに出ていくチームメイトたちの背中を見ながら、僕の方が調子がいいのにと思っていた。でも、チームメイトへの敬意から口を噤んで何もいわなかった。チームメイトに対する敬意、礼儀、仲間意識からね。こういう価値観の大切さを若い時に教わり、その教えをずっと守ってきたから、今の僕があるんだと思う。」


童話の賀状…元NHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-01-18 08:03:12 | 日本語学習法
*  
 賀状を書くときには、ゆっくりと墨を擦り、筆で手書きする。
 どんなに忙し時でも、私は長年、そうしてきた。
 
筆で書くほどの腕を持っていたわけではなく、むしろ“下手”であるからこその、年に一度の「お習字」だった。
 多いときには、千枚を超えたこともあったし、年中行事としては、苦痛になることさえあった。
 だが昔から、宛名も文面も活字だけの賀状を貰ったときの味気なさを感じていた私にとって、自分の賀状は、当然、肉筆でなければなるまい。
 下手でも何でも、年の暮れには、賀状を筆で書き、恥も承知で掻き続けてきた。
 
 その私にとって、5年前の脳出血は、右手に知覚障害という後遺症を残してくれた。
 印刷屋に頼むか、それとも、主義を通すか。年末になると、リハビリ中の右手を眺めながら、悩んだ。そこで考えたのは、電話の肉声年賀だった。
 しかし、それも善し悪し、相手が不在であれば賀意は通じない。
 
 そこで、今年は少し趣向を変えた。
 新作の短い童話を、メールに添付してみたのだ。メールならば、何とか文字は打てる。そこで、出来る限り友人のメールアドレスを調べて“賀状”を送った。
 送った童話は、何れも短編で、アイヌの民話を題材にした3種類だった。
 ところが、その中の一つ「パナンペとペナンペの鬼退治」については、奇妙に賀状の返事が返って来た。何故かは判らない。
 ちょっと、ご紹介しよう。
 
 物語の荒筋を紹介すると、「パナンペとペナンペは二人ともよくオナラをする。鬼にさらわれたパナンペは、親鬼の留守の間に、“言葉どおりに受け取ることしかできない鬼の子たち”をダマして、鬼の宝ものをまんまと頂き、幼い子を除いて、首をちょん切って逃げる。親鬼に激しく追い掛けられるが、鬼の宝を逆利用して、最後には“よく効くオナラ”かませて、逃げおおせる。
 それを知ったペナンペも鬼退治に出かけるが、宝ものは、もう残っておらず、危うく鬼に殺されかかるが、“よく効くオナラ”を連発し、ほうほうの体で逃げ帰る。鬼は残った幼い子と二人で“あんなクサイ人間なんか、もう食うのは止そうや”と夕日を見ながら話し合った」というスジガキだ。
 
 だが、思いの外、様々な反応が返ってきた。これは童話の書き手にとって、今年初の収穫となりましたね。
 
 NHKの同僚、Yさんは、「読みきかせしている声が聞こえてくるようです」と、短く、かつイメージ深く、受け取ってくださった。
 同じくNHKの教え子の一人は「宮沢賢治のような、小気味いい文体。本当に、音にして読むとリズムが良いですね」・・・おいおい、ちょっとそれは言い過ぎじゃあないかね。賢治さんに申し訳ないよ。
 
 親しい友達からは、素直な、そして嬉しい反応があった。
 「おならの武器は子どもたちが喜びそうですね!アイヌにもこのようなお話があったのですか?たくさんの子どもたちの笑顔に繋がることを思い、その笑顔を見たい気持ちで一杯です。・・・いやいや、しっかり読んでくださって、ほんとうに有り難うございます。
 
 中国で日本語を教えている友人からは、こんな反応が来た。
 「パナンペがいろいろな道具を使って逃げるところなどは、『古事記』を連想しました。アイヌの物語にそういうものがあるのだとしたら、日本人の原体験にアイヌの文化が影響を与えているということでしょうか」・・・ううむ、古事記を連想しましたか。
 同氏はさらに言う。
 「二人だけになった鬼の親子はちょっと寂しそうです。私達も、自然界の動物からしたら「鬼」ですよね」・・・ああ、そうかも知れませんねエ。
 
 昔の大学の仲間からは、こんな叱責もきた。
 「鬼の子とは言え、鍋で煮てしまうのは残酷な気がします。
 浜辺と森と山奥と川の位置関係に違和感があるように思います。
 ・・・ああ、いやいや、どうもどうも、困ったな・・・でも、彼は幼い孫に、いつも送った童話を読んでくれているんだね。だから、そう感じたのは無理もないさ。それに彼は、今も、立派なエンジニアだったのだな・・・。
 ・・・・・
 ・・・・
 ・・・
 この童話添付の賀状は、期待以上の成果を揚げてくれました。
  皆様 有り難うございます。
  来年も、もっと新年にふさわしいモノを書いて、お送りいたしましょう。


*「50音図の落とし穴」・「ン」は50音の尻尾か!…元NHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-01-09 11:28:11 | ドーナツの宝
「50音図の落とし穴」も、細かく書いてゆけばキリがない。だから、この「ん」で打ち止めにするが、どうしても書いておかなければならないのは、「ン」のポジションだ。
 
 アイウエオ・・・・と唱えていって、最後にとってつけたように「ン」と、ぽつんと一字だけ書かれている・・・「ン」は「50音図の落とし穴」ならぬ、「落とし物」なのか、「はぐれモノ」なのか、何れにしても「縦横・5×10の音表」の、どこにも所属する場所がないらしい。
 イロハだって同じ事、・・・アサキユメミジエヒモセズ・・・そこでイロハ唄は終わっているのだけれど、キャラメルのオマケよろしく、別扱いで「ン」と叫んでおわる・・・とすると、イロハ唄にガムかなんかで、無理矢理つけた尻尾かもしれぬ。
 「50音のはぐれもの」にしても「イロハの尻尾」にしても、日本語を発音するには“無くてはならぬ”音だからこそ、最後に叫ぶことになるのだと思う。
 
 第一この音は、母音なのか、子音の扱いなのか、それすら定義されていない。定義されぬというよりも、どう位置づけていいのかが分からぬ。母音のように音は韻となって続けることが出来るのだが、母音としては扱われない。幸田露伴が「幻の音」と言ったとか・・・
 多くの学者や文筆家が、この音について首をひねり、素性を探るのだが、各人各様、定まった見解には至らない。
 カードゲームでいえば「鬼・Joker」なのだろうかね。

 だが、実際にこの「ン」がなくなると、日本語の発音はどうなるだろう。
 第一、「ニホンジン」という発音が成立しなくなる。テンペンチイもいけないし、アンウンすら漂わない。カンノンさまもいなければ、カンカンノウマサンも踊れないし、ハンペンもニンジンも買えなくなる。コンバンワとアイサツすることだってできないし、ションベンもウンコすらもだめなのだ。
 誰だって「ン」の音が、言語にとって「欠くべからざる音」であることに反対はしないだろう。
 
 例えば、井上ひさしさんは「ンの音を最初に出したのが、北京原人かジャワ原人か、どこの誰かは知らないが、なぜ彼は呼気を口から出さなかったのか。なぜ彼は口腔内の器官全てを閉鎖して、鼻の方へ呼気をねじ曲げてしまったのか」と慨嘆する。
 
 一方で谷川俊太郎さんは「五十音のおしまいに、軽業師のようにぶら下がっている「ン」が大好きだ・・・「ン」には動詞とみまがうばかりの動勢がある」と面白がっている。
 こうした、多くの「ン」論については、樋口覚氏の“「の」の音言論”(五柳書院)に、詳しく書かれている。興味のあるかたは、この本を読まれることをお勧めする。因みに私も、この本によって、啓発されたひとりだ。
 
 ところで、この「ン」についての多様な見解の中で、注目すべき大論争があったのはご存じだろうか。上田秋成と本居宣長の「呵刈葭(カガイカ)論争」である。
 これについては、なんとしても述べなくてはなるまいが、少し長くなるので来月に廻すことにする。
その上で、私見を述べたい。
 ・・・・なお、今年からは、8の付く日、即ち 8日、18日、28日のあたりで、記事を新しくして行きますので、よろしくお付き合いを願います・・・・・本日81才を迎えた ファンタ爺より