天津ドーナツ

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対話と数字の関係  ② 「勝つ」と「勝る」…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-09-29 03:14:08 | 日本語学習法
さて、2人が向き合う対話のダイヤグラムを考えてみよう。

・・・人と人が向き合って「対話」は生まれる。これが対話を考える時の基本の形だ。
対話のチャンネルを線で表せば、二人の間を結ぶ一本の線が浮かぶ。
この両端に二人が相対する・・・

 たまたま、二人の意見が合えば問題は起きない。
「そう、そう そうだ。そうなんだよね・・・」
 イエスとイエスの頷き対話だ。
 だが、人間の考えはロボットでない限り、完全に合致することは少ない。
 意見が違えば、自我と自我の“対立”にしかならぬ。
 さあ、そこで、どっちが勝か、どっちが負けるかと綱引きをしたり、棒押しをしたりし始める。

 運動会の綱引きと同じだ。
 白が勝つか、赤が勝つか。
 あるいはツナが切れて、両軍尻餅をついて、引き分けか・・・
 ともかく勝負の世界に入ってゆく。
 途中で「この力の差は6:4が良いところだ」などと、審判が判定するということはまずない。
 この構図から、民主主義を生み出すのは、実のところ、難しい仕事になる。

 そもそも、民主主義とは“勝ち負け”を決めるものではない。
 「勝」という文字は、「勝つ・カツ」とも読めるし「勝る・マサル」とも読める。読みが違うだけでなく、意味も違ってくる。
 「勝つ」の反対は「負ける」だし、ぶつかり合って軍配はどちらか一方に上がる。負けた方は敗者だ。しかし、「勝る」の反対は「劣る」だ。どちらの方が、より良いか、より勝れているかを、審判あるいは第三者が判定する。
 大きく差の開いた1,2着もあれば、胸一つほどの差もない1,2着もある。
 
 民主に続いて自民も党首を決める選挙が行われた。
 候補者は皆、口々に「選挙戦を戦い抜く」と叫び、「必勝」の鉢巻きやら幟を立てたもんだ。
 そして結果が出た途端、握手をして「ノーサイド」と言う。
 自民の場合は、五者の間に大した違いはなかったのだから、2位を幹事長にするなどして、その場の補完は出来る。
 だが、民主の場合などは、党運営の有りようから、政策などに真っ向から“論戦”を挑んでいたのだから、本来なら主張通りの身の処し方が求められる。
 早い話、一緒にやれる話にはならない筈だ。
 ともかく、こうした“戦い”というイメージを先行させて、“選挙”ならぬ“論戦”に及ぶという愚行にはウンザリなのだ。ボクシングか柔道か、はた又、サッカーか。
 ともかく候補者同士が「どうやったら相手に勝てるか」という争いに堕してしまっているのは同罪だな。

 もともと、選挙というのは、候補者同士の「戦い」であって、良いはずはない。
 己の思うところを述べ、投票者に判断を仰ぎ、誰が「より優れているか」を決めるレースなのだ。
 「戦い」や「合戦」なんぞでは決してない。
 どこかが狂っているのだな。
 民主主義の基本的な思想を、誤解している。
 その裏側には、結局は「数の勝敗だ」という伏線が見え見えなのだよ。
 だから、国会で“議論”することを避けて(数が少なければ勝てないから)密室の談合で物事を決めようとしたりする。

 少し長くなるから、来月に話を廻すが、結論的に言えば、民主主義が成立する為には、「客観の立場」を含めた議論の場がなければならないのだね。この話は来月に続けよう。

ーーーーーーーー来月18日に続くーーーーーーーーー

「教科書は古い?役に立たない?」

2012-09-28 17:24:45 | 日本語学習法
みなさんは、日本語の『教科書』に対して、どのようなイメージを持っていますか?

「古い」「実践の役に立たない」「おもしろくない」…、多くの学生がマイナスのイメージを持っているかもしれません。



でも、教科書はそんなに「役に立たない」ものなのでしょうか。

外国語は、教科書以外の材料で勉強したほうがいいのでしょうか。



今回は、私自身の英語学習の経験をもとに、「外国語学習における教科書の使い方」について、

考えてみたいと思います。

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私はあることがきっかけで、英語の勉強が嫌いになりました。

そのきっかけとは、高校1年生の最初の授業で、数千の英単語のリストを渡され、

「これを憶えれば、大学入試は大丈夫だ」と言われた、というものです。



中学のときは英語の寸劇を発表したぐらい、英語が好きだったのですが、

読解も会話も聴解もなく、「とにかく単語を丸暗記をしろ」と言われ続け、英語が嫌いになっていきました。

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その後、社会人になってから、「やっぱり英語はおもしろいかもしれない」と思い、勉強を再開し、35歳のときに、英検準2級に合格しました。

もちろん、このレベルでは「英語ができます」などとはとても言えませんし、そのあと受けた2級は、2点足りなくて不合格でしたが、「ちゃんと勉強すれば、英語もできるようになる(だろう)」という自信がつきました。

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しかし、同時に、35歳というのは、あまりにも遅すぎます。

それで、自分なりにここまで英語を遠ざけてしまった理由を考えてみました。



きっかけとしては、先ほど書いた高校での1回目の授業があげられますが、どうも、それだけではないように思います。

それだけでしたら、授業以外の時間に、別の方法で英語を勉強すればいいのですから。



しかし、高校生のときの私は「英語の教科書」を馬鹿にしていました。

本当に、教科書は家ではまったく開かなかったと言ってもいいぐらいです。

そして、その代わりに、『学校では教えてくれない英語表現』などという本を買い、

「自分は本当の英語を勉強している」と悦に入っていました。



当時、その本を見た中学校の校長先生は、「これは、教科書の内容をきちんと身につけた人が使う本です」と言ってくれたのですが、私には意味が分かりませんでした。

それどころか、(この先生だって知らない表現が、この本には書いてある。それが悔しいのかな)などと考えたりしたのですから、若かったとはいえ、あまりの無知・傲慢のひどさに、私自身があきれてしまいます。



その結果、2次の会話も含めて、試験に出る(つまり、一般的な)英語を身につけることができずに、

35歳でやっと準2級という結果を招いてしまったのです。

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日本語学習の話に戻ります。

教科書は、確かに「最新の表現・若者言葉」のオンパレードではありません。

また、「いつでも・どこでも・誰にでも」通じる表現ばかり、でもありません。



しかし、「教科書に乗っていない日本語が正しい日本語・本場の日本語」というのも、

ちょっと偏っているのではないでしょうか。



例えば、テレビドラマやアニメで使われている日本語がありますが、

あの日本語も、「いつでも・どこでも・誰にでも通じる日本語」ではありません。



教科書だけを勉強していればいい・丸暗記すればいい、というものではないと私も思います。

しかし、「教科書そのものが役に立たない」のか、「教科書の使い方に問題がある」のか、

この両者の違いを、きちんと考えてほしいと思います。

「正しい日本語」「日本人の日本語」は存在するのでしょうか?

2012-09-20 12:44:27 | 日本語学習法
同じ相手でも、話題やその場に居る人、場所、心情、目的によって、表現方法(語彙・文法・表情・声・動作・スピード)が変わります。

つまり、どのような日本語をどのように使ったらいいのか、相手がどうしてその日本語をそのように使ったのかを考えないと、日本語でのコミュニケーションは成立しないということです。それを抜きにして、「これが日本人の日本語だ」などと決め付けることは、私にはできません。

求められればモデルを提示することはできますが、その日本語は「その人の・そのときの状況の日本語」でしかない、私はそう思います。

年齢や立場、性別によっても「きちんと通じる日本語」は変わってきます。ましてや、相手と本当に理解しあえるかどうかは、「モデル会話」を憶えるかどうかとは別の次元の話だと、私は思います。

まじめ・効率追求はいいことですか?

2012-09-18 19:38:42 | ドーナツの宝
最初に聞きたいのですが、日本語の「まじめ」は中国語の「认真」と同じでしょうか。



すくなくとも日本語の「言われたことをそのまま実行する=まじめ」は、物事の本質を見抜くためには役に立たないそうです。

また、「無駄・余裕・笑い」のない職場では、新しいアイデア・改善策が生まれることもありませんし、生産物の質を高めることもできません。そんなことをしているより、一つでも多く作ったほうがお金が増えるからです。

そして、人が受けるストレスの中で、「時間に追われる」ことによるストレスは、とても大きいのだそうです。

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私は、自分の授業は「アイデア勝負」だと思っています。

相手の人数・レベル・趣味・目的・性格・学習場所の環境・時間などの条件を元に、

その授業の最終目的地と、そこにたどり着くまでのストーリーを考えます。



それは、「○時間考えれば浮かんでくる」というものではありません。

あるときは30分も経たずに授業のストーリーが浮かんできますが、あるときには数日かけても「これだ!」というものが浮かんでこなかったりします。



そういうときには、仕方がありません。

買い物をしていても、ご飯を作っていても、頭の中は授業のことを考え続けています。

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ある人は、このような仕事の仕方を「まじめ・責任感がある」と言うかも知れませんし、私も(そうなのかな)と思っていました。

でも、「無駄がアイデアを生み出す」という心理実験の結果を知って、ようやく自分がしている意味が分かりました。



私は、「○時から○時まで」というように、時間で仕事を決められるのが大嫌いだったのです。

時間で労働を区切る、それは、自分がどんなものを生産しているのか、ということとは全く関係のないことだと、私は感じていたのだと思います。



そして、自分の働き方やエネルギーの使い方を時間に決められることが、どれぐらいのストレスになるのか、ということも感じていたのだと思います。



職人や研究者は、自分が納得するかどうかが仕事の基準ですし、それは時間で決められるものでありません。



また、私はときどき(いつも?)、ボーとしたり、フラフラ出歩いたりしていますが、それは、「頭の中に少し空間をつくっておくことが、新しいアイデアにつながる」(脳科学者)ということを、無意識に感じていたからだと思います。

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「先生はいつまでも子供みたい」と言われることもありますが、もし、時間に追われることに抵抗を感じなくなることが、大人になるということでしたら、私はたぶん、大人にはなれないでしょう。

自分の仕事を時間で区切られたり、無駄を省こうとして、新しいアイデアが浮かんでくるのを待つ時間がなくなったりするぐらいだったら、「子供みたい」「もっとまじめに仕事しなさい」と言われるほうがましだと思います。

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「先生の授業は遊びが多くて、効率が悪いと思う」と言われることもありますが、(ロボットみたいに語彙や文法を暗記するだけだったら、自分ひとりでやればいいのに)って思っていたりします。

(その日にやるべきことが終わったら、残りの時間は遊んだっていいんじゃないか)と思っていましたが、今は違います。

「その日にやるべきことが終わったら、残りの時間は遊んだり、無駄話をしたり、ボーっとしたり、散歩をしたりしなければいけない」のです。



時間で労働や勉強を区切ることに慣れると、次は時間に追われる生活をすることになります。

一切の無駄を省こうとすると、新しいアイデアや仕事・勉強の楽しさも失います。

だから、先生や上司に言われたことだけを実行するという「まじめなだけ」では、仕事も勉強も生活も、楽しくないだろうなと思うのです。

民主主義と数字の関係について ①…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-09-18 07:28:36 | 日本語学習法
二大政党の社会がある。
欧米民主主義の歴史的な基本パターンだという。
前回の選挙で、日本もそれに習い、追いつこうとした。
そっして見事に失敗した。
何のことはない、国会という対話の場を放棄して、密室の談合で国の有り様を決め始めた。
ごうごうたる非難の声が巻き起こった。
今度は、第三勢力が選挙の鍵なのだそうな。
随分、様変わりをしたもんだ。

だがここで、もう一度、この二大政党政治が、本当に民主主義の形なのかどうか、考えてみてはどうだ。
欧米がそうだから、そうに違いないと思いこんでいる側面がありはしないか。
私はこの考え方に、疑問を呈する。

二人の人間が応対すれば、対話して合意するか、自我と自我の対立となるか、どちらかだ。
今の複雑な社会。それに一億を超す人間。
合意を得るには時間が掛かる。
そこで、代議員を送り、国会を開く。
そう、国会議員とは国民の代弁者なのだ。
選挙の結果、議員の数が決まる。
最後には議員の数で決めようとなる。
数での勝ち負けは、初手から決まっている。
だから、少数派は精一杯抵抗する。
あがく。
多数派は、暫く我慢をしていれば、勝と解っている。
低姿勢で相手を刺激しないように応対する。

これは、日本だけの話ではない。
もっとも日本が典型的なだけだ。
一票差でも勝ちは勝ち、負けは負けだ。
多数決という数の論理は、実は民主主義の非常手段なのだ。
その非常手段が、常套手段だと思いこんでいる。

丁度良い機会だから、民主主義を人間の対話の場と捉えて、少し解説することにしよう。

順序として、“1”から始めて見る。
“1”の対話、即ち“独り言”だ。
私も、このところ独り言が多くなった。
TVを見ていて、つい怒る。
「馬鹿なことやってんじゃねえよ くだらねえな」
口調も、独り言だから下品になる。
チャンネルを変える。
「あれ、またコイツが出てる テレビの寄生虫め」
リモコンを押す。
「叫ぶなよ! おれはテレビの傍にいるんだぜ、全く」
またリモコンを押す。
「また食ってる。ああ、喋るのはよせっ!バカモン 汚えなあ」

独り言は罪がない。人畜無害だ。
でも、それを誰かに聞かれたら、独り言ではなくなる。
二人の対話ではないにしろ、1.5人の対話かなあ?

人が向き合って対話が生まれる。
だが、自我と自我の会話だ。
対話のチャンネルを線で表せば、二人の間を結ぶ一本の線が浮かぶ。
これが対話チャンネルだ。二人は一本の線の両端にいるのだ。
綱引きでも、棒押しでもやってくれ。
一本の線の上でね。