天津ドーナツ

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コミュニケーション技術の練習方法…前提編

2011-08-30 20:12:59 | 日本語学習法
人人網を通じて知り合った学生との会話で、コミュニケーションについて知りたいと思っている人が多いのではないかなと思いました。

それで、これからちょっとずつ、私が勉強していることを書いてみますので、

みんなも一緒に考えてみてください。



今日は、その勉強を始めるにあたり、前提となる考え方の紹介です。



まず、

自分の感情・思考・行動(言動)の選択の過程に責任を持つ、というのがコミュニケーションの基本だそうです。



といっても、



自分が何を感じているのか、

何を考えているのか、

どんなことを言ったりやったりしているのか、



きちんと把握できないと、「選択」なんてできないですよね。



まずは、

「あ、今、私はこの人のことを好きだと思っている」とか、

「あ、私は今、この人とは話したくないと思っている」といったことから、

「なんだか今日は疲れて、早く休みたいな」といったことまで、

自分の気持ちを自分で感じることが、コミュニケーションの技術を磨く大前提になるのだと私は思います。



というわけで、ここまで書いてもう疲れたので、今日はここで終わりにします。

続きはまた今度。

“担板漢”にだけはなるまい。…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2011-08-28 09:41:08 | 顧問・アドバイザーから
先月の「日本人と議論」特集、「妥協ぎらい」の最後に・・・「妥協を許さぬ毅然とした態度」だとか「正義の道は真っ直ぐだ」などという態度こそ、危ない思想に思えるのだ・・・と私は書いた。
 これに対して、中国にお住まいの、恐らく日本人の方(無署名)から、コメントを頂いた。

(川端注:この日本人は私です。入力ミスで無署名となってしまいました)
 
 ーーーー「私自身もそうなのですが、「いさぎよくない」と言われると、とても恥ずかしく思うのは、日本人の特性でしょうか。いさぎよく腹を切れ」「いさぎよく散る」という言い方は、時代劇などでも聞いたことがありますが、それは「生きて虜囚の辱めを受けず」につながるのでしょうか。
 バランスの問題かとも思うのですが、こちら中国でも正義を貫き最後は湖に身を投げた「屈原」を偲びますし、孔子のような方もいます。
 何より、塚越さんご自身が、「本当の対話を追求する」という一点だけは譲ってこなかったように、私には思います。塚越さんは、今まで、自分が譲れない線をどこに設定するのか、ということをお考えになったことはありますでしょうかーーー

 まずはコメントを頂いたことに、厚く、お礼申し上げます。
 ところで、日本人特有の「いさぎよさ」が、戦時中の「生きて虜囚の辱めを受けず」に直接繋がるかどうかは、難しいところですね。たどりたどって行けば、無縁とは言い切れませんが・・・。
 「いさぎよさ」には、「未練がましくなく」、「ワルアガキをせず」といった、すっきりした“終わり方の美学”のような味がします、日本人の好みの態度でしょうが、いささか「かっこよすぎる」という雰囲気があることも否めません。
 「屈原」的な生き方をとるか、「孔子流」で生きるかといわれても、現代に生きる私にとっては、どちらも“偉大な、伝説の生き方”です。
 人はそれぞれ、その時を生きているのですから・・・
 私のような凡人は、終生「顧みて悔やむばかり」の人生です。“譲れない一線”を設定して、強く生きてきたという意識は、残念ながら無かったように思います。強いて言えば「来るを拒まず、去るを追わず」というのが生き方だったのかなと、顧みております。
 そして、中年になってからは、“担板漢”にだけはなるまい。そう思い定めていました。
 
 “担板漢”、ご存じでしょうが、これも元は中国からきた言葉だとおもいますが、禅宗でもよく使われていますね。
 “担板漢”とは、板を担いだ男です。
 どの辞書を見ても、「物事の一面しか見ない人のこと」と書いてありますが・・・私には、もっと深い意味を持った“ことば”だと思えるのです。
 
 男が、板を肩に担いでいる・・・この絵を、頭に描いてみましょうか。
 板の一面だけがみえると同時に、板の裏面は勿論のこと、板で遮られた向こうの世界が見えなくなるのです。即ち、世界の半分が視界から消えてしまう。板が長ければ長いほど、残りの視野は狭まります。ひどいときには、右と左の肩に、二枚の板を担ぐ男すら見かけますね。こうなれば、左右の板に挟まれた、極狭い前方の隙間しか見えなくなるのは必然です。斜眼帯をつけられた競争馬です。こんな人に町を歩かれたら、どうなるでしょう。物騒でなりませんな。
 とかく、「妥協を許さぬ毅然とした態度」だとか「正義の道は真っ直ぐだ」と思いこんでいる人には、この手の人が多いのではないか。そう思うのです。
 間違えないで欲しいのは、私が「自分の生き方を真っ直ぐ通す」ことに反対しているわけではなく、むしろ、「我が道を通しすぎて、意地を張りすぎた過去」を持つ男であり、もう一度若返っても、同じ道を通るかも知れぬと、自分では分析しているのです。
 私が、「顧みて悔やむ」のは、もっと人の“ことば”を沢山聞くべきだったという反省です。
 
 価値観の違う人の意見を無視する人は、相手にも、あなたの意見も無視されるチャンスを与えていることを自覚しなければなりません。お互いさまですからね。
 
 江碕玲於奈さんも、人間一人の頭脳の出力はせいぜい25ワット。だからこそ、多くの人の意見に耳を傾けることが大切なんだと、言っておられた。
 ネール首相が娘のインディラさんに「人は、話し合うことによってのみ“真理への糸口”を見つけることが出来る」と述べた。「真理」などと言うモノは、そう簡単に見つかるモノではなく、せいぜいその糸口を見つけるために、人間は対話をする。そう言っているのですね。
 若い頃、古垣鉄郎さんに「神は、人は一つの口と、二つの耳を人にお与えになった。これは、人の“ことば”に、もっと耳を傾けなさいと言うことでしょう」とさとされたことを思い出します。
 だからこそ、「“担板漢”にだけはなるまい」と、己を戒めているのが、本当の姿でしょう。
 
 多くの日本人は議論を、論戦だとか論争と混同する。勝った負けたの勝負にしてしまう。堂々の論陣を張り、論的を論破する。その「ひとりよがり」な姿勢が問題なのだと、私は考えます。
 本来、議論とは、話し合うことによって、互いの誤りや誤解を訂正しながら、妥協の道を探るという智恵の対話・江碕さん流に言えば、ウイズダムの対話をすることなのでしょう。
 互いが「コンファタブル」になるまで、論理的に語り合う。それが、民主主義を支えている原点だし、そうした議論のありようを理想とし目標として、それに近づけたいと、話し合ってみるのです。
 でもね、現実には、いつでも「コンファタブル」に終われると言うわけにはいかないものなんだよね・・・それが人間なのだろうか。

自信

2011-08-22 20:51:35 | 顧問・アドバイザーから
「自信がありません」とよく口にする学生がいます。

「自信を持つように」とよく口にする先生がいます。



でも、私は、そういう人たちと、どのような話しをしたらいいのか、

とまどってしまいます。

それは、この人たちが言う自信が、何に対するどの程度の自信なのかが分からないので、

その後の会話を続けるのが難しいのです。

自分の日本語が日本人に通じる自信がない、とか、

スピーチコンテストで、覚えた原稿を間違いなく再現できる自信がない、とか、

観客があくびをしても笑顔をキープできる自信がない、とか、

自分のミスをストレートに指摘してくる人を相手にする自信がない、とか、

会話が上手になる自信がない、とか、

社会に出て経済的に自立する自信がない、とか、



何かしら具体的に話してくれたら、こちらも一緒に考えることができます。

それは、この場合の自信がないというのは、

「それができるようになるための効果的な練習方法・ポイント・考え方を知らない」

「どこの誰がそれを教えてくれるのかを知らない」

ということとほとんど同じで、解決方法を一緒に考えることは可能だと思うからです。



私自身のことを言えば、人間関係を構築する・友好的に保つ・修復する・上手に終わらせるという自信がない、

つまり、人間関係に不安があると大変だなと実感しています。

(あんまり気にしない人もいますよね)

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ドーナツは、学生たちのそういうさまざまな不安(自信のなさ)を解決するために作りました。

それがどれだけの効果があるのか、おそらく10年、20年という時間が経たないと検証はできないと

思いますが、教育とはそのようなもののはずです。



20年後、中国も日本も、今とは違う社会になっていると思いますが、

そのときの社会の中心になっているのは、今の大学生たちです。



願わくば、ドーナツを卒業した学生たちが、自分の頭で考え、周囲の人と協力し、

自分がいる社会に貢献できるようになっていてほしいものです。

日本人は妥協が嫌い?…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2011-08-22 06:38:19 | 日本の文化・歴史・習慣など
 「安易な妥協をするな!」と,労働組合の強かった時代には、随分と聞かされた。
 「新しい政策は妥協の産物!」つい最近の、大新聞の一面見出しだ。
  
  明治以来か、もっと前からなのかは分からないが、日本人は、この「妥協」という“ことば”が、かなり嫌いらしい。
 だが、考えてみたまえ。そもそも民主主義とは、多様な意見や生き方を、互いに話し合って、「妥当なところで折り合う」という、社会のありようなのではなかったのか。

 少し古い話になるが、こんな、経験を思い出した。
 カナダのブリティッシュ・コロンビア州に、日本人の為の大学・「カナダ国際大学」を創ったときのことだ。
 私は初代の事務局長として、教育基本計画や学生寮規則を提案し、カナダ人の初代学長と副学長のアメリカ人と三人の間で議論を重ねた。私が出した原案について、率直な意見を出し合う。学長とは、面識があったが、副学長とは初対面だった。ことに手こずったのは、寮の規則を討論したときだった。アメリカ人の副学長とは感覚がかなり違うのだ。
 私が原案をつくったときには、カナダ、日本、アメリカ三カ国の大学から、実例を取り寄せて吟味したのだが、彼はわたしの案に「“un-comfortable”・しっくり来ないな」を連発する。 
 アメリカの大学寮の規則には、「廊下でスケボーをしないこと」とか、「敷布等を結んだりした綱を使って、窓から出入りをしないこと」など、私たちには“噴飯モノ”のルールが多いのだが、アメリカ人の彼にとっては、どうやら“噴飯モノ”とは思えないらしい。
 「学寮に入るのは日本人だし、管理者も日本人、だから日本流で」と説得するのだが、副学長は、どこか落ち着きが悪いらしく“un-comfortable”だと腕組みをする。なかなか納得してくれない。
 そこでさらに角度を変えて日本の学生とアメリカの学生の気質の違いを、丁寧に話してゆくと、次第に彼の顔が和んできた。それに連れて、質問も具体的に、建設的になってゆく。
 そして5時間、ようやく、「Now I'm“comfortable”」と笑顔になって、三者の考えはまとまった。
 
 私にとって、この副学長が言う「コンファタブル・“comfortable”」という表現が、きわめて印象的だったことを覚えている。
 「議論」というものは、参加したモノが理論的に話し合って、互いに「コンファタブル・心やすらかに納得する」ところ、即ち妥協点を探すための言語行為だということを、実感したのだ。
 
 日本人の多くは、この点において、議論・討論というコミュニケーション行為を誤解しているのではないかとワシは憂える。
 思うに昔、経営者と組合の対立する“春闘”あたりで、「安易な妥協は許さないぞ!」などと叫んでいたことが、心の底にこびり付いていて、嫌いになったのかも知れない。恥ずかしいことだ。
 それとも、「妥協」という言葉自体に、いさぎよさを感じないのは、国民性なのだろうか。しかし、一方で「妥結」や「妥当」という言葉には抵抗がないのに、「妥協」だけが嫌いだというのは、いささか納得できない。
 どんな辞書でもいいから、「妥協」の項目を見直すとよい。ことに「妥」には「心をやすらかにする」という意味がある。お互いが納得して、心やすらかに議論を終えたいものである。
 私には、「妥協を許さぬ毅然とした態度」だとか「正義の道は真っ直ぐだ」などという態度こそ、危ない思想に思えるのだ・・・


トの法則…全体の20%を徹底的に学習すると、全体を押さえることができる

2011-08-18 20:47:28 | 能力試験対策
完璧主義は要りません。

パレートの法則とは、イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレート(Vilfredo Federico Damaso Pareto)が発見した冪乗法則です。

全体の2割程度の高額所得者が社会全体の所得の約8割を占める,という法則で、
俗に80対20の法則、2:8の法則、80-20ルールとも呼ばれます。

経済以外にも自然現象や社会現象等ほかのさまざまな現象にも適用できると考えられています。

不良全体の80%は、20%の原因に由来する」
「売上の80%は、全商品の20%が作る」
「売上の80%は、全顧客の20%によるものである」といった解釈がそれで、

このパレートの法則を試験勉強にあてはめてみると、本試験で出題されるような重要箇所の80%は、試験範囲全体の20%に集中しているということになります。

ですから、その試験に出る20%に努力を集中し、完璧に勉強すれば、試験で80点が取れるということになりますね。

実際に、『80対20の法則』の著者リチャード・コッチ氏は、オックスフォード大学時代にこの法則を利用して、最小限の努力で最優秀の成績で学位をとったそうです。

コッチ氏は、オックスフォードの過去の試験問題を調べてみたそうです。すると、問題の少なくとも80%(場合によっては100%)が、その学科に関する20%の知識で十分に答えられることがわかったと報告しています。

試験勉強をする上で大切なのは、その20%の範囲を見極め、そこを集中的に潰していくことです。

「その20%とは?」
それは、過去の本試験で出題されたところです。

ですから、過去問を集中的に行えばOKです。

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能力試験も、過去の3回分を徹底的に学習することが合格への近道だと、私は思います。

徹底的にというのは、

1.聴解部分は「リピート・シンクロリーディング・シャドーイング・ディクテーション」ができるようにする

2.語彙・文法部分は、正解・不正解の理由が説明でき、すべての選択肢で短文作成ができるようにする

3.読解部分は、「要約:筆者の意見とその理由・問題意識」を自分の言葉でできるようにする



さらに、

聴解分野で出された問題文が、読解分野で出されても対応できるようにする、

読解分野で出された問題文の音声を聞いても、「リピート…」ができるようにする、

といったように、分野をまたいで応用することができるようになるまで学習するといいです。



出題範囲のすべてを完璧に押さえようとして、覚えるそばから忘れていくより、

重要ポイントを繰り返し学習し、そこから広げていったほうが確実だと私は思います。



単語集や文法の本を何冊も並べている人は、自分の勉強方法が効果的なのかどうか、

ぜひ検証してみてください。