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音のイメージ⑥ 鋭い母音 “い音考”…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-10-11 07:18:18 | 日本語学習法
音のイメージ⑥ 鋭い母音 “い音考”
さて月の初めは音のイメージです。

先月は「う→お→あ」という、日本語の“音のバックボーン”について話しましたが、今日は“い”音について述べましょう。

前述のように、“う”は口腔の奥で自然に出す音だし、“あ”は口腔全体を共鳴させて出す音、そして、その中間にある美しい響きを持つのが“お”なのですね。この三つの音は、いずれもけれんみのない母音らしい音ですし、日本語の音の組み立てからすると、音の土台というか、人間で言えば背骨・軸になる音なのです。

しかし、“い”の音となると、鋭い母音”と名付けているように、5つある母音の中で、最も硬い扱いづらい音なのです。

どちらかというと、子音に近い母音とでも言ったらよいのかも知れないのです。



少々、昔の話になるけれど、NHKの放送番組で金田一春彦先生には、数多くの番組に出演していただいた。

私も随分とインタビューしたことを想いだしますね。

テレビだと、対談でも台本があったりして自由がきかないのですが、ラジオの時などでは、先生は話の途中で、俄に歌い出されることもちょくちょくありましたね。

「あのね。高い音に“い”がくると、歌いにくいんですよね。声楽家の四家文子さんも、言ってましたがね、“a”とか“o”の音は歌いやすい音だけれど、“i”はイヤなの。歌いにくいのよって言ってましたよ。

ことに、高く延ばすところに“i音”が来るのが困る。

例えば、シューベルトの野ばらを日本語訳で歌うと、最後のレレミファソラシドーと歌い上げるところが、ほら♪♪♪ バラ、バラ、アカキー ♪♪♪ってなるでしょ。

「バラバラアカ」までの母音は、みんな“a”の母音なのに、肝心の最後の高く延ばすところにくると“i”になっている。

随分バカな訳詞をつけた人もいるもんだつって、彼女、怒ってましたねえ」

・・・・・・・

また、藤山一郎さんもご存命中は、紅白歌合戦の最後で、毎年「蛍の光」の指揮をされていたけれど、実は、自分では決して歌わなかったのは、有名な話です。

これは、私が若い頃、ご本人から直接聞いた話ですがね。

「本来、ことばにメロディーを付けるのが歌なのですが、翻訳の場合には随分無神経というか、言葉の音に逆らった節を付けているものがありますね。そんな歌は歌いたくないのです」ときっぱり言っておられた。

「でも、ご自分で指揮はなさるのでしょ そのときも・・・ですか」

「だってね。ホタールノヒイカーリと、出だしからして、“ほたる”でもない“ひかり”でもないでしょ。日本語のアクセントとは、まるでかけ離れている。それに高い音になると、なぜか“イ”が多くなる。ヒカリ、窓ノツキイー、フミヨムツキーイヒイー・・・いやですね。歌いたくなくないんです」

藤山さんのキッチリした姿勢や考え方が思い出されます。



・・・・・

“い”音を出すときは、口蓋の前の部分(手で触ってみると前の部分は固く、後ろの部分が柔らかいのが分かる)が主に共鳴する。

これは、「う→い→う→い」と繰り返してみると、はっきりと分かるでしょう。

よく、キンキン響く若い女性の声を「頭の天辺から出す声」と言いますがね。“い”音を強くだそうとすると、元来が堅い音なのに、喉の筋肉まで締め付けてしまう。喉を締め付ければ、頭蓋骨も響き始める。

聞いている方は、たまったものじゃあありませんぞ。

練習の方法としては、前記の「う→い→う→い」を繰り返しながら、喉の筋肉をゆるめてやることがコツでしょうかね。


日本人の発声で、もっとも大きな悪癖は、

① アゴを開かないで、口先だけ動かす。

② 喉を締め付けて音を出す。

この二つなのですがね。

ーーーーーーーーー来月につづくーーーーーーーー



対話と数字の関係  ② 「勝つ」と「勝る」…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-09-29 03:14:08 | 日本語学習法
さて、2人が向き合う対話のダイヤグラムを考えてみよう。

・・・人と人が向き合って「対話」は生まれる。これが対話を考える時の基本の形だ。
対話のチャンネルを線で表せば、二人の間を結ぶ一本の線が浮かぶ。
この両端に二人が相対する・・・

 たまたま、二人の意見が合えば問題は起きない。
「そう、そう そうだ。そうなんだよね・・・」
 イエスとイエスの頷き対話だ。
 だが、人間の考えはロボットでない限り、完全に合致することは少ない。
 意見が違えば、自我と自我の“対立”にしかならぬ。
 さあ、そこで、どっちが勝か、どっちが負けるかと綱引きをしたり、棒押しをしたりし始める。

 運動会の綱引きと同じだ。
 白が勝つか、赤が勝つか。
 あるいはツナが切れて、両軍尻餅をついて、引き分けか・・・
 ともかく勝負の世界に入ってゆく。
 途中で「この力の差は6:4が良いところだ」などと、審判が判定するということはまずない。
 この構図から、民主主義を生み出すのは、実のところ、難しい仕事になる。

 そもそも、民主主義とは“勝ち負け”を決めるものではない。
 「勝」という文字は、「勝つ・カツ」とも読めるし「勝る・マサル」とも読める。読みが違うだけでなく、意味も違ってくる。
 「勝つ」の反対は「負ける」だし、ぶつかり合って軍配はどちらか一方に上がる。負けた方は敗者だ。しかし、「勝る」の反対は「劣る」だ。どちらの方が、より良いか、より勝れているかを、審判あるいは第三者が判定する。
 大きく差の開いた1,2着もあれば、胸一つほどの差もない1,2着もある。
 
 民主に続いて自民も党首を決める選挙が行われた。
 候補者は皆、口々に「選挙戦を戦い抜く」と叫び、「必勝」の鉢巻きやら幟を立てたもんだ。
 そして結果が出た途端、握手をして「ノーサイド」と言う。
 自民の場合は、五者の間に大した違いはなかったのだから、2位を幹事長にするなどして、その場の補完は出来る。
 だが、民主の場合などは、党運営の有りようから、政策などに真っ向から“論戦”を挑んでいたのだから、本来なら主張通りの身の処し方が求められる。
 早い話、一緒にやれる話にはならない筈だ。
 ともかく、こうした“戦い”というイメージを先行させて、“選挙”ならぬ“論戦”に及ぶという愚行にはウンザリなのだ。ボクシングか柔道か、はた又、サッカーか。
 ともかく候補者同士が「どうやったら相手に勝てるか」という争いに堕してしまっているのは同罪だな。

 もともと、選挙というのは、候補者同士の「戦い」であって、良いはずはない。
 己の思うところを述べ、投票者に判断を仰ぎ、誰が「より優れているか」を決めるレースなのだ。
 「戦い」や「合戦」なんぞでは決してない。
 どこかが狂っているのだな。
 民主主義の基本的な思想を、誤解している。
 その裏側には、結局は「数の勝敗だ」という伏線が見え見えなのだよ。
 だから、国会で“議論”することを避けて(数が少なければ勝てないから)密室の談合で物事を決めようとしたりする。

 少し長くなるから、来月に話を廻すが、結論的に言えば、民主主義が成立する為には、「客観の立場」を含めた議論の場がなければならないのだね。この話は来月に続けよう。

ーーーーーーーー来月18日に続くーーーーーーーーー

「教科書は古い?役に立たない?」

2012-09-28 17:24:45 | 日本語学習法
みなさんは、日本語の『教科書』に対して、どのようなイメージを持っていますか?

「古い」「実践の役に立たない」「おもしろくない」…、多くの学生がマイナスのイメージを持っているかもしれません。



でも、教科書はそんなに「役に立たない」ものなのでしょうか。

外国語は、教科書以外の材料で勉強したほうがいいのでしょうか。



今回は、私自身の英語学習の経験をもとに、「外国語学習における教科書の使い方」について、

考えてみたいと思います。

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私はあることがきっかけで、英語の勉強が嫌いになりました。

そのきっかけとは、高校1年生の最初の授業で、数千の英単語のリストを渡され、

「これを憶えれば、大学入試は大丈夫だ」と言われた、というものです。



中学のときは英語の寸劇を発表したぐらい、英語が好きだったのですが、

読解も会話も聴解もなく、「とにかく単語を丸暗記をしろ」と言われ続け、英語が嫌いになっていきました。

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その後、社会人になってから、「やっぱり英語はおもしろいかもしれない」と思い、勉強を再開し、35歳のときに、英検準2級に合格しました。

もちろん、このレベルでは「英語ができます」などとはとても言えませんし、そのあと受けた2級は、2点足りなくて不合格でしたが、「ちゃんと勉強すれば、英語もできるようになる(だろう)」という自信がつきました。

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しかし、同時に、35歳というのは、あまりにも遅すぎます。

それで、自分なりにここまで英語を遠ざけてしまった理由を考えてみました。



きっかけとしては、先ほど書いた高校での1回目の授業があげられますが、どうも、それだけではないように思います。

それだけでしたら、授業以外の時間に、別の方法で英語を勉強すればいいのですから。



しかし、高校生のときの私は「英語の教科書」を馬鹿にしていました。

本当に、教科書は家ではまったく開かなかったと言ってもいいぐらいです。

そして、その代わりに、『学校では教えてくれない英語表現』などという本を買い、

「自分は本当の英語を勉強している」と悦に入っていました。



当時、その本を見た中学校の校長先生は、「これは、教科書の内容をきちんと身につけた人が使う本です」と言ってくれたのですが、私には意味が分かりませんでした。

それどころか、(この先生だって知らない表現が、この本には書いてある。それが悔しいのかな)などと考えたりしたのですから、若かったとはいえ、あまりの無知・傲慢のひどさに、私自身があきれてしまいます。



その結果、2次の会話も含めて、試験に出る(つまり、一般的な)英語を身につけることができずに、

35歳でやっと準2級という結果を招いてしまったのです。

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日本語学習の話に戻ります。

教科書は、確かに「最新の表現・若者言葉」のオンパレードではありません。

また、「いつでも・どこでも・誰にでも」通じる表現ばかり、でもありません。



しかし、「教科書に乗っていない日本語が正しい日本語・本場の日本語」というのも、

ちょっと偏っているのではないでしょうか。



例えば、テレビドラマやアニメで使われている日本語がありますが、

あの日本語も、「いつでも・どこでも・誰にでも通じる日本語」ではありません。



教科書だけを勉強していればいい・丸暗記すればいい、というものではないと私も思います。

しかし、「教科書そのものが役に立たない」のか、「教科書の使い方に問題がある」のか、

この両者の違いを、きちんと考えてほしいと思います。

「正しい日本語」「日本人の日本語」は存在するのでしょうか?

2012-09-20 12:44:27 | 日本語学習法
同じ相手でも、話題やその場に居る人、場所、心情、目的によって、表現方法(語彙・文法・表情・声・動作・スピード)が変わります。

つまり、どのような日本語をどのように使ったらいいのか、相手がどうしてその日本語をそのように使ったのかを考えないと、日本語でのコミュニケーションは成立しないということです。それを抜きにして、「これが日本人の日本語だ」などと決め付けることは、私にはできません。

求められればモデルを提示することはできますが、その日本語は「その人の・そのときの状況の日本語」でしかない、私はそう思います。

年齢や立場、性別によっても「きちんと通じる日本語」は変わってきます。ましてや、相手と本当に理解しあえるかどうかは、「モデル会話」を憶えるかどうかとは別の次元の話だと、私は思います。

民主主義と数字の関係について ①…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-09-18 07:28:36 | 日本語学習法
二大政党の社会がある。
欧米民主主義の歴史的な基本パターンだという。
前回の選挙で、日本もそれに習い、追いつこうとした。
そっして見事に失敗した。
何のことはない、国会という対話の場を放棄して、密室の談合で国の有り様を決め始めた。
ごうごうたる非難の声が巻き起こった。
今度は、第三勢力が選挙の鍵なのだそうな。
随分、様変わりをしたもんだ。

だがここで、もう一度、この二大政党政治が、本当に民主主義の形なのかどうか、考えてみてはどうだ。
欧米がそうだから、そうに違いないと思いこんでいる側面がありはしないか。
私はこの考え方に、疑問を呈する。

二人の人間が応対すれば、対話して合意するか、自我と自我の対立となるか、どちらかだ。
今の複雑な社会。それに一億を超す人間。
合意を得るには時間が掛かる。
そこで、代議員を送り、国会を開く。
そう、国会議員とは国民の代弁者なのだ。
選挙の結果、議員の数が決まる。
最後には議員の数で決めようとなる。
数での勝ち負けは、初手から決まっている。
だから、少数派は精一杯抵抗する。
あがく。
多数派は、暫く我慢をしていれば、勝と解っている。
低姿勢で相手を刺激しないように応対する。

これは、日本だけの話ではない。
もっとも日本が典型的なだけだ。
一票差でも勝ちは勝ち、負けは負けだ。
多数決という数の論理は、実は民主主義の非常手段なのだ。
その非常手段が、常套手段だと思いこんでいる。

丁度良い機会だから、民主主義を人間の対話の場と捉えて、少し解説することにしよう。

順序として、“1”から始めて見る。
“1”の対話、即ち“独り言”だ。
私も、このところ独り言が多くなった。
TVを見ていて、つい怒る。
「馬鹿なことやってんじゃねえよ くだらねえな」
口調も、独り言だから下品になる。
チャンネルを変える。
「あれ、またコイツが出てる テレビの寄生虫め」
リモコンを押す。
「叫ぶなよ! おれはテレビの傍にいるんだぜ、全く」
またリモコンを押す。
「また食ってる。ああ、喋るのはよせっ!バカモン 汚えなあ」

独り言は罪がない。人畜無害だ。
でも、それを誰かに聞かれたら、独り言ではなくなる。
二人の対話ではないにしろ、1.5人の対話かなあ?

人が向き合って対話が生まれる。
だが、自我と自我の会話だ。
対話のチャンネルを線で表せば、二人の間を結ぶ一本の線が浮かぶ。
これが対話チャンネルだ。二人は一本の線の両端にいるのだ。
綱引きでも、棒押しでもやってくれ。
一本の線の上でね。