天津ドーナツ

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大学日本語科に欠けているもの…もとNHKアナウンサーの塚越恒爾さんのブログから

2011-07-31 07:42:04 | 日本語学習法
 「われわれ人間ってものをハードウエアとみますとね・・・われわれの肉体的なものは、多分一万年くらい昔から、そんなに変わらないわけでしょ・・・
 まあ全部働かせたとして、せいぜい100ワットくらい・・・ですから、頭の出力なんてせいぜい25ワットあるかないかなんですねえ。
 ところが・・・この25ワットの頭で、とんでもない大きな世界を・・・人類は築き上げてきたわけで・・・」
 
 先生は、葉巻をくゆらしながら、ゆっくりと、ハマキを燻らしながら話しだされた。
 三省堂に頼まれて、中学の国語の教材作りのために、筑波大学に江碕先生をお訪ねした。
 ホテルのゲストルームのような学長室のソファで、先生は葉巻の口をプチンと切る。笑みを絶やさず、穏やかな雰囲気は少しも変わらず、相変わらず灰皿を持ちながら紫煙をたなびかせて、訥々と話しては考え、考えては話す、ゆっくりした間合いが懐かしい。
 先生の話は、やや吃り気味に、まるで「阿弥陀クジ」でもたどるように、うねうねと続く、あとでまとめようとすると、一苦労なのだ。
・・・
 先生にお目に掛かるのは、18年振りだった。
 あれは、1974年の羽田空港のロビー。ノーベル賞を受賞された先生が、アメリカから初の里帰りをされたときだった。記者団の代表の問いかけに、江碕さんは葉巻を手に、長い間合いを取ってから答えた。
 「皆さんは、何故、私がアメリカで研究生活をしているのか。どうして日本に帰って来ないのか、そう思っておられるでしょう・・・日本にいるときはね、私の周りには、傍観者と献身的な協力者が、沢山いらっしゃってね・・・でも、これは物理学を研究しているものにとって、必ずしも有り難い環境ではないのですね・・・
 アメリカの研究所ですとね、付き合う人がみなそれぞれ対等でね・・・お互いが、自分の持っている知識や知恵を交換しようというアティチュードで話しかけてくるんです・・・    
 だから私の方も、相手が経済学者であろうと政治学者であろうと、その対話の中から何かをつかみだそうという態度で会話をする・・・人と人が話しをするということは、お互いの世界を交換するようなものでしてね・・・そうした対話を日常的に重ねることが、実は、創造的な発想を生み出してくれるんですね・・・物理学研究も一人の人間の頭の中だけで出来上がるものではないのですよ・・・」
 ・・・ 
 この時以来、江碕先生には、NHKのスタジオでのインタビューや座談会などで、立て続けに対話する機会に恵まれた。
 いま、40年経って振り返ってみると、江碕玲於奈先生との話の中で、一貫して流れていた大切ものに改めて気づく。
 それは、創造力を育てる環境を、日本の教育風土に根付かせたいという思いだったに違いない。
 ・・・
 「あのね。人間にはね、ハートで話す場合とマインドで話す場合の二つあると思うんですよ。
 ハートで話すっちゅうのはまあいいとして、大切なのはマインドの方でしてね、智慧で話し合うことが必要なんでしょうね・・・「智慧」ってのは判断力とか鑑識眼・評価力っていうものが必要になってくる・・・人の言うことを真面目に聞いて、それを実行するということだけじゃ駄目でね。
 他人との活発な遣り取りを通じて、自分の中にある智慧に結びつけてゆくことが大切なのでね・・・話し合った結果、自分の視野が広くなる。ものの見方が複眼的になる・・・あるいはもっと多面的にものが眺められるようになる・・・世界の秩序の問題を考えても、日本だけじゃない、色んな国の人たちが、他の文化の国の人と、もっと話し合うチャンスを増やさなければならない。
 そういう意味で、「話し合う」ってことは、今の世の中は、より重要になってきたと思うし・・・そうした異なった文化と対話しあうことが、人間のクリエティブなマインドを育ててくれるとね・・・」
 ・・・
 たった25ワットの頭脳出力が、話し合うことで大きな智慧を生む。
 私はインタビューの中で例の「求同存異」を持ち出してみた。江碕さんは、葉巻の煙を吐き出しながら言下に言われた。
 「それは、デモクラシーってことでしょ・・・人間が社会をつくるときに、どうしても必要なことでね・・・同じ考え方の人間が話し合ってみてもね、クリエイティブなことにはならないのでね・・・」
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 今月は、「日本人と討論」特集としてみました。
 「50音図の落とし穴」や、「体ことば」を期待していた方々には、お詫びをしなくてはなりません。8月からは、復活しましょう。
 また、「話し合う」「討論」も、これからも続けますが、特集としては、これで一応の区切りといたします。ありがとうございます。 
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大学日本語科に決定的に欠けているものは、次の部分だと私は思っています。



「他人との活発な遣り取りを通じて、自分の中にある智慧に結びつけてゆくことが大切なのでね・・・話し合った結果、自分の視野が広くなる。ものの見方が複眼的になる・・・あるいはもっと多面的にものが眺められるようになる・・・世界の秩序の問題を考えても、日本だけじゃない、色んな国の人たちが、他の文化の国の人と、もっと話し合うチャンスを増やさなければならない。」



また、日本語の勉強がつまらないのも、このような対話が存在せず、

語彙と文法の暗記(とお仕着せの活動)に終始しているらだと思います。

みなさんは、どう思いますか?

日本語での会話をきちんと勉強したい人へ…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2011-07-31 07:39:14 | 日本語学習法
前回、対話に適した日本語の基本として、「短・簡・明・順」を挙げました。幾つかの質問がきました。
 今月一杯を「議論・討論の特集」としたことから、私の話も少し筋っぽくなって、先を急いだようです。説明不足をお詫びします。
 一つ一つについての解説は、この特集を離れて、来月以降、折に触れて説明したいと思っていますが、この「短・簡・明・順」という基本条件は、全て、“ことば”を受け取る側の「聴きやすさ」に直結しているのです。
 少し、疑問に答えながら、話を進めましょう。
 
 ◎ “聞こえるhear”と“聴くlisten”の違い
 “聞こえた”と“聴いた”は大違い。“話し手”の“ことば”は、“音”に託されて、次から次へと“聞き手”の耳にやってくる。その音を、“聞き手”は耳で“聞き”、脳で“聴”いて理解し、さまざまに反応する。その反応を“話し手”は読みとりながら話を進める。この繰り返しが、肉声の対話です。
 たとえ、音が届いたとしても、聞き手が“聴いて”いてくれなければ、対話にはなりませんね。うっかり聞き逃すとか、空耳だったとか・・・。
 ですから、対話の“ことば”は、受け手が耳で聞き取れ、頭で理解しやすい言語を使わなければならないのです。NHKのニュースは、中学二年程度の平均レベルを、一応の標準にしています。
  
 ◎ カボチャに向かって話はできない
 当然、スピーチの場合でも、聴衆が“聴き取り”、“理解できる”言葉で話すのが大前提です。スピーチとか講演では、とかく一方的な対話になりがちなだけに、“話し手”は、聴衆にどのように受け取られたかを読み取りながら話さなければなりません。これがフィードバックですね。
 聴衆はカボチャではなく、心を持った人間なのですから。人間に届く、心に届く“ことば”を必要とするのです。勿論、話している当人の心も動いていなければなりません。
 例えそれが、福沢諭吉大先生であったとしても、カボチャや川風に向かって大声を発したのでは、只、空間に放出される音に過ぎないのです。
 
 ◎ 読むと話すの間には、深い断絶がある
 「スピーチに際して、一字一句、原稿を書いて読むという人がいるのですが、これは既に出来ている原稿を“読む”という再生作業ですから、どんなに上手く読んだとしても、“話す”ということにはなりません。“読む”と“話す”は、別の作業です。
 “読む”を自動車の運転にたとえますと、“話す”のは飛行機の操縦です。どれほど“飛ぶように”走っても、車は車、二次元の平面を走り続けることになるでしょう。“走る”と“飛ぶ”は本質的に違うのです。だからスピーチを学ぶ人は、所詮どこかで離陸しなければなりません。どうせ飛ぶなら、初めから飛べば、無駄な迂回をしなくてもすみます。
 
 随分昔の話になりますが、田中角栄首相が初めて渡米したときのことです。(求同存異のときも田中さん関連の話でしたね)
 ホワイトハウスからの帰り道、カリフォルニアの日系人会から、15分ほどのスピーチを頼まれた。
 アフターパーティで、老婦人が田中首相に話しかけたそうです。
 「先生、大変失礼とは存じますが、先生は15分間、原稿を読み続けられました。日本人として、私たちは、とても恥ずかしくて顔を上げることも出来ませんでした。来年お出でになるときは、半分の時間で結構ですから、私たちを見て“話”をして下さいませんでしょうか。どうぞ、お願いいたします」
 田中首相は了解し、頑張った。次の年、田中首相は渡米し、カリフォルニアに寄った。
 朝日新聞には、こんな記事が載ったのです。三段抜きの見出しでした。
 「田中首相、ロスで、原稿ナシの15分間スピーチ 去年の約束を果たす」
 会場の拍手は鳴りやまなかったそうです。「やれやれ」
 よしんば、立派な原稿を、良い声で、聴衆に聞こえるように届けたとしても、それは、あくまでも“読む”という行為であって、“話す・スピーチ”にはならないのです。
  
 ◎ 討論とディスカッション
 ディスカッションを討論と約すか、議論とするか、色々と説があります。近頃の米国での使い方をみますと、「検討する」という言葉が適当な訳かなとも思います。
 “discussion”・ディスカッションという“ことば”を、調べると、“discus-”の元の意味は、“shake”・揺さぶる、あるいは“scatter”・ぶちまけるという意味なのですね。
 即ち「ディスカッション」は、“ことば”の「ぶちまけ合い」なのでしょう。
 酒にたとえてみます。
 ここにAという酒があり、Bという酒がある。それぞれに異なる味があり、香りもある。
 この二つの酒をシェーカーに入れて「揺さぶってみる」。
 すると、AでもないBでもない、新しい味が生まれる。だが、同じ酒を混ぜ合わせたところで、新しい味は出てくるはずがない。
 異なった酒を混ぜ合わせるからこそ、そこに新しい味が誕生するのです。
 
 人間が何故議論・討論をするか。どうして、話し合うことが大切なのか。
 前にも述べたように、百人の人間がいれば、百通りの思いがある。みんなが同じ心と立場を持っているなんてことがあれば、それはロボットの世界なのだよね。
 人間であれば、誰もが、少しずつ違う意見を持っている筈だ。だから、社会を創ってゆくためには、お互いが思いを述べ合うことが必要になる。
 異なる意見だからこそ、話し合う必要があり、話し合えば、そこに異見のカクテルが生まれる。だからこその議論であり、討論なのだろうね。
 ネルー首相がインディラさんに送った獄中書簡に書いた言葉を思いだして欲しい。
 「人間は話し合うことによってのみ、真理への糸口を探すことが出来る・・・」
 人間が人間である限り、異見と異見をシェイクすることが必要なのだ。そして、シェイクしやすい“ことば”で話し合わなくてはならない。
 日本語の“書きことば”は、こうした作業には、全く不向きなのだ。だから「短・簡・明・順」が基本形になる。
 それも喧嘩言葉ではなく、喧喧囂囂(ケンケンゴウゴウ)ではなく、侃々諤々(カンカンガクガク)でなくっちゃいけない。
 ケンケンゴウゴウは、感情的になったり居丈高になって、騒がしく、高声を発することであるのに対して、カンカンガクガクは、論理的に理非を直言するありさまを言う言葉なのだ・・・ことに侃々には、「強く正しい」と並んで「和らぎ楽しむ」という意味もあるのです。


人脈の広げ方

2011-07-23 09:18:24 | 顧問・アドバイザーから
昨晩、日本から天津に出張で来ている方に、晩ご飯をご馳走になりました。

ドーナツの副会長も一緒です。



そのときの会話の一部です。

「天津の次は○○に行くんだけど、その時の通訳が

川端さんの教え子ですよ」

「え?どの学生ですか?名前は…」

「えーと、確か、○○さん…」

「あ、知っています。天津の○○大学の学生ですね」

「あ、そうです。そう言っていました。

日本人と話したことはあるのかと聞いたら、天津の川端先生と話したことがあると言っていました」

「そうですか、彼女は日本語はあまり流暢ではないけれど、

まじめでいい学生だと思います」

「やはりそうでしたか。いや、実は、あともう一人の候補がいて、

そちらのほうが日本語は上手だったんですが、メールのやり取りをして

○○さんの方が一生懸命にやってくれそうだったので、○○さんに頼みました」

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人脈を広げようとして、ドーナツをやっているわけではありません。

でも、同じように何かの志を持っている人とは、必要なときには出会うようになっている、

そのときに恥ずかしくないような仕事を積み重ねよう、そう考えています。



○○さんも、私と出会って半年以上も後に、またこのようなつながりができるとは

思っていなかったでしょう。

でも、最初の出会いのときから、一生懸命に勉強し、相手の事情を考えようとしている

ことは伝わってきました。

だからこそ、私もその学生のことを覚えていますし、また同じ理由で、

日本から出張する方にも選ばれたということです。



「人脈の広げ方」と書きましたが、人脈は広げるものではなく、広がるものだと私は思います。

自分の仕事と目的、そして、周囲の人を大切にして、いい出会いを求めていく、

そういう毎日を積み重ねていれば、自然に広がっていくのが人脈だと私は思います。

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ドーナツの副会長は、その方の日本語をほとんど理解できませんでした。

初対面の日本の方の日本語が理解できない、これが、今の大学日本語科の標準的なレベルだと思います。

もしかしたら、日本の大学の中国語学科の学生も同じかもしれませんが、去年の副会長も、その前の会長も、

最初は私との打ち合わせも、日本語ではできなかったのですから、大丈夫です。



すごく傲慢な言い方ですが、

天津の日本語教育の地下10階まで空いていある穴が、

いつになったら埋めることができるのか私には分かりませんが、

こういう仕事してきた無名の人はたくさんいます。



メンバーの一人一人の成長のためにという目的を忘れずに進めていき、

気がついたときにはたくさんの人とつながっていたという日が来るのを楽しみに頑張ることにします。

日本女子サッカーが強くなった理由…育成システム・感謝・理念

2011-07-14 09:19:49 | ドーナツの宝
(決勝進出決定後の監督のインタビューより)

1.個の質が伴わないと、このサッカーはできない。選手たちが少女のころから指導にかかわった人たちの努力すべてが、代表のパフォーマンスにつながっているのです。



2.今日はJFA(日本サッカー協会)会長が来ているので、これから相談してみます。ただ、なでしこの選手たちには、お金よりも大事なものがある。そんなにお金のことは口にしてこない。でも、ファイナル進出ですからね、会長も何か考えてくれるかもしれません。

3.今回、FIFA(国際サッカー連盟)にお願いして、震災以降に日本を支援し、励ましてくれている世界の皆さんに対するお礼のメッセージを掲げさせていただいています。スポーツを通じて、世界に感謝の気持ちを伝えるという意義を、選手たちも分かっています。決勝戦を前に、もう一度思い出したいことがある。震災だけじゃなく、日本のサッカー少女や、未来ある子供たちに、夢や感動を与えるのが、なでしこジャパンの役目なんです。今、なでしこジャパンは日本の誇りなのだという気持ちで戦っています。
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サッカー女子の日本代表チームは、試合前に震災のビデオを見て、

自分達の役割を確認しているそうです。



「自分のためにしか頑張れない人は成長できない」と言うと、

「先生、そんなの時代遅れです。今は、人をだましてでも自分が得をする人が

頭がいいと言われる時代です」と言われてしまう現代ですが、

価値のある成果を出している人・チームには、必ず周囲への感謝・大切にしていること」があります。



周囲に感謝することが、自分の個性を失うことだと考える人がいるかもしれませんが、

それは単に精神的に幼いというだけのことです。

学生たちには、自信を持って、周りの人に「ありがとうございます」と言えるようになってほしいと願っています。