「われわれ人間ってものをハードウエアとみますとね・・・われわれの肉体的なものは、多分一万年くらい昔から、そんなに変わらないわけでしょ・・・
まあ全部働かせたとして、せいぜい100ワットくらい・・・ですから、頭の出力なんてせいぜい25ワットあるかないかなんですねえ。
ところが・・・この25ワットの頭で、とんでもない大きな世界を・・・人類は築き上げてきたわけで・・・」
先生は、葉巻をくゆらしながら、ゆっくりと、ハマキを燻らしながら話しだされた。
三省堂に頼まれて、中学の国語の教材作りのために、筑波大学に江碕先生をお訪ねした。
ホテルのゲストルームのような学長室のソファで、先生は葉巻の口をプチンと切る。笑みを絶やさず、穏やかな雰囲気は少しも変わらず、相変わらず灰皿を持ちながら紫煙をたなびかせて、訥々と話しては考え、考えては話す、ゆっくりした間合いが懐かしい。
先生の話は、やや吃り気味に、まるで「阿弥陀クジ」でもたどるように、うねうねと続く、あとでまとめようとすると、一苦労なのだ。
・・・
先生にお目に掛かるのは、18年振りだった。
あれは、1974年の羽田空港のロビー。ノーベル賞を受賞された先生が、アメリカから初の里帰りをされたときだった。記者団の代表の問いかけに、江碕さんは葉巻を手に、長い間合いを取ってから答えた。
「皆さんは、何故、私がアメリカで研究生活をしているのか。どうして日本に帰って来ないのか、そう思っておられるでしょう・・・日本にいるときはね、私の周りには、傍観者と献身的な協力者が、沢山いらっしゃってね・・・でも、これは物理学を研究しているものにとって、必ずしも有り難い環境ではないのですね・・・
アメリカの研究所ですとね、付き合う人がみなそれぞれ対等でね・・・お互いが、自分の持っている知識や知恵を交換しようというアティチュードで話しかけてくるんです・・・
だから私の方も、相手が経済学者であろうと政治学者であろうと、その対話の中から何かをつかみだそうという態度で会話をする・・・人と人が話しをするということは、お互いの世界を交換するようなものでしてね・・・そうした対話を日常的に重ねることが、実は、創造的な発想を生み出してくれるんですね・・・物理学研究も一人の人間の頭の中だけで出来上がるものではないのですよ・・・」
・・・
この時以来、江碕先生には、NHKのスタジオでのインタビューや座談会などで、立て続けに対話する機会に恵まれた。
いま、40年経って振り返ってみると、江碕玲於奈先生との話の中で、一貫して流れていた大切ものに改めて気づく。
それは、創造力を育てる環境を、日本の教育風土に根付かせたいという思いだったに違いない。
・・・
「あのね。人間にはね、ハートで話す場合とマインドで話す場合の二つあると思うんですよ。
ハートで話すっちゅうのはまあいいとして、大切なのはマインドの方でしてね、智慧で話し合うことが必要なんでしょうね・・・「智慧」ってのは判断力とか鑑識眼・評価力っていうものが必要になってくる・・・人の言うことを真面目に聞いて、それを実行するということだけじゃ駄目でね。
他人との活発な遣り取りを通じて、自分の中にある智慧に結びつけてゆくことが大切なのでね・・・話し合った結果、自分の視野が広くなる。ものの見方が複眼的になる・・・あるいはもっと多面的にものが眺められるようになる・・・世界の秩序の問題を考えても、日本だけじゃない、色んな国の人たちが、他の文化の国の人と、もっと話し合うチャンスを増やさなければならない。
そういう意味で、「話し合う」ってことは、今の世の中は、より重要になってきたと思うし・・・そうした異なった文化と対話しあうことが、人間のクリエティブなマインドを育ててくれるとね・・・」
・・・
たった25ワットの頭脳出力が、話し合うことで大きな智慧を生む。
私はインタビューの中で例の「求同存異」を持ち出してみた。江碕さんは、葉巻の煙を吐き出しながら言下に言われた。
「それは、デモクラシーってことでしょ・・・人間が社会をつくるときに、どうしても必要なことでね・・・同じ考え方の人間が話し合ってみてもね、クリエイティブなことにはならないのでね・・・」
・・・・・・・・・・
今月は、「日本人と討論」特集としてみました。
「50音図の落とし穴」や、「体ことば」を期待していた方々には、お詫びをしなくてはなりません。8月からは、復活しましょう。
また、「話し合う」「討論」も、これからも続けますが、特集としては、これで一応の区切りといたします。ありがとうございます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大学日本語科に決定的に欠けているものは、次の部分だと私は思っています。
「他人との活発な遣り取りを通じて、自分の中にある智慧に結びつけてゆくことが大切なのでね・・・話し合った結果、自分の視野が広くなる。ものの見方が複眼的になる・・・あるいはもっと多面的にものが眺められるようになる・・・世界の秩序の問題を考えても、日本だけじゃない、色んな国の人たちが、他の文化の国の人と、もっと話し合うチャンスを増やさなければならない。」
また、日本語の勉強がつまらないのも、このような対話が存在せず、
語彙と文法の暗記(とお仕着せの活動)に終始しているらだと思います。
みなさんは、どう思いますか?
まあ全部働かせたとして、せいぜい100ワットくらい・・・ですから、頭の出力なんてせいぜい25ワットあるかないかなんですねえ。
ところが・・・この25ワットの頭で、とんでもない大きな世界を・・・人類は築き上げてきたわけで・・・」
先生は、葉巻をくゆらしながら、ゆっくりと、ハマキを燻らしながら話しだされた。
三省堂に頼まれて、中学の国語の教材作りのために、筑波大学に江碕先生をお訪ねした。
ホテルのゲストルームのような学長室のソファで、先生は葉巻の口をプチンと切る。笑みを絶やさず、穏やかな雰囲気は少しも変わらず、相変わらず灰皿を持ちながら紫煙をたなびかせて、訥々と話しては考え、考えては話す、ゆっくりした間合いが懐かしい。
先生の話は、やや吃り気味に、まるで「阿弥陀クジ」でもたどるように、うねうねと続く、あとでまとめようとすると、一苦労なのだ。
・・・
先生にお目に掛かるのは、18年振りだった。
あれは、1974年の羽田空港のロビー。ノーベル賞を受賞された先生が、アメリカから初の里帰りをされたときだった。記者団の代表の問いかけに、江碕さんは葉巻を手に、長い間合いを取ってから答えた。
「皆さんは、何故、私がアメリカで研究生活をしているのか。どうして日本に帰って来ないのか、そう思っておられるでしょう・・・日本にいるときはね、私の周りには、傍観者と献身的な協力者が、沢山いらっしゃってね・・・でも、これは物理学を研究しているものにとって、必ずしも有り難い環境ではないのですね・・・
アメリカの研究所ですとね、付き合う人がみなそれぞれ対等でね・・・お互いが、自分の持っている知識や知恵を交換しようというアティチュードで話しかけてくるんです・・・
だから私の方も、相手が経済学者であろうと政治学者であろうと、その対話の中から何かをつかみだそうという態度で会話をする・・・人と人が話しをするということは、お互いの世界を交換するようなものでしてね・・・そうした対話を日常的に重ねることが、実は、創造的な発想を生み出してくれるんですね・・・物理学研究も一人の人間の頭の中だけで出来上がるものではないのですよ・・・」
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この時以来、江碕先生には、NHKのスタジオでのインタビューや座談会などで、立て続けに対話する機会に恵まれた。
いま、40年経って振り返ってみると、江碕玲於奈先生との話の中で、一貫して流れていた大切ものに改めて気づく。
それは、創造力を育てる環境を、日本の教育風土に根付かせたいという思いだったに違いない。
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「あのね。人間にはね、ハートで話す場合とマインドで話す場合の二つあると思うんですよ。
ハートで話すっちゅうのはまあいいとして、大切なのはマインドの方でしてね、智慧で話し合うことが必要なんでしょうね・・・「智慧」ってのは判断力とか鑑識眼・評価力っていうものが必要になってくる・・・人の言うことを真面目に聞いて、それを実行するということだけじゃ駄目でね。
他人との活発な遣り取りを通じて、自分の中にある智慧に結びつけてゆくことが大切なのでね・・・話し合った結果、自分の視野が広くなる。ものの見方が複眼的になる・・・あるいはもっと多面的にものが眺められるようになる・・・世界の秩序の問題を考えても、日本だけじゃない、色んな国の人たちが、他の文化の国の人と、もっと話し合うチャンスを増やさなければならない。
そういう意味で、「話し合う」ってことは、今の世の中は、より重要になってきたと思うし・・・そうした異なった文化と対話しあうことが、人間のクリエティブなマインドを育ててくれるとね・・・」
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たった25ワットの頭脳出力が、話し合うことで大きな智慧を生む。
私はインタビューの中で例の「求同存異」を持ち出してみた。江碕さんは、葉巻の煙を吐き出しながら言下に言われた。
「それは、デモクラシーってことでしょ・・・人間が社会をつくるときに、どうしても必要なことでね・・・同じ考え方の人間が話し合ってみてもね、クリエイティブなことにはならないのでね・・・」
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今月は、「日本人と討論」特集としてみました。
「50音図の落とし穴」や、「体ことば」を期待していた方々には、お詫びをしなくてはなりません。8月からは、復活しましょう。
また、「話し合う」「討論」も、これからも続けますが、特集としては、これで一応の区切りといたします。ありがとうございます。
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大学日本語科に決定的に欠けているものは、次の部分だと私は思っています。
「他人との活発な遣り取りを通じて、自分の中にある智慧に結びつけてゆくことが大切なのでね・・・話し合った結果、自分の視野が広くなる。ものの見方が複眼的になる・・・あるいはもっと多面的にものが眺められるようになる・・・世界の秩序の問題を考えても、日本だけじゃない、色んな国の人たちが、他の文化の国の人と、もっと話し合うチャンスを増やさなければならない。」
また、日本語の勉強がつまらないのも、このような対話が存在せず、
語彙と文法の暗記(とお仕着せの活動)に終始しているらだと思います。
みなさんは、どう思いますか?