天津ドーナツ

みんなで力を合わせて、天津の日本語教育を楽しく、元気にしましょう。ご意見・ご要望は左下の「メッセージ」からどうぞ。

キヌサヤの筋をとる…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-02-19 08:01:49 | 顧問・アドバイザーから
日向(ヒナタ)で新聞を読んでいた。
 カミサンが、キヌサヤをザルに入れて持ってきた。
 筋取りをしてくれという。
 拙者、新聞をたたみ、チラシ広告を二枚ほどテーブルに広げた。
 
 その上にザルを置き、おもむろに筋取りを始める。
 プチッとヘタを折り、スイーと静かに背中の筋を引く。
 筋を取るとき慌てて引くと、途中で切れる。
 一旦切れると、ツメで糸口を探さなければならぬ。
 筋を取り残せば、茹でたあとも口にさわる。
 
 〜 ヘタをプチッ、そのまま静かにスイー 〜
 この〜 プチッ、スイー〜 のリズムがいいね。
 筋の取れたキヌサヤを別のザルに入れ、ヘタと筋はチラシ広告の上に捨てる。
 〜ヘタをプチッ、静かにスイー、筋をポイ〜
 次第に動作にリズムが出てくる。
 
 無心にやっている内に、ふと思った。
 今は、格別急ぐ必要はない。時間もタップリある。
 それなのに、手の動きは、いつの間にか“効率よく”やろうとしているらしい。
 頭の中では“効率的”にやろうなどとは思っていないのだが、手順とか手配りが、自然にそうなって行く。
 〜ヘタをプチッ、静かにスイー、筋をポイ〜
 リズムは次第に早くなる。
 
 これが、もし「請負仕事」だとしたら、もっと効率を考えるのだろうな。「全部終えたらなんぼ」となれば、もっと工夫する。ザルの置き場所、ヘタの捨て方・・・改良の余地は充分にある。
 「時間給」なら、どうする。
 「時間なんぼ」となったら、ゆっくり丁寧に、時間をかけたほうが、良い金になる。
 しかしそれも、ほどほどで、あまり時間を掛けすぎると、次の仕事が来なくなるかもしれぬぞ。
 そこんとこの兼ね合いがむずかしいだろうし、また、そんなときに「人間が素見される」だろうよ。
 
 じゃあさ、料理屋の板前ならどうするかね。
 まず、ヘタの「プチン」からして、見た目を気にするだろう。
 料理人の心って奴が、首をもたげるぜ。
 少しの汚れも許せないし、痛んだものがあれば、断固ハネる。
 でも、手慣れてくればまた別かな。
 ・・・
 だが今は、誰が食うのでもない、拙者が喰らうのだ。
 ・・・
 ああ、無心でいるなんてことは、我ら凡人には出来ないこった。 
 
 筋は取り終えた。
 チラシ広告でヘタを包んでゴミ箱に捨てる。
 キヌサヤを水で洗うと、緑色が一気に冴える。
 熱湯に一つまみの塩。
 さっと茹でる。
 この緑色の爽やかさが身上なのだ。
 手早くザルに上げ、冷水にくぐらせる。
 ひとつだけ摘んで、口に放り込む。
 軽い歯ごたえの 緑色。

・・・・・・・


本田宗一郎氏の社長引退スピーチ

2012-02-18 12:14:53 | 顧問・アドバイザーから
私が「低公害エンジンの開発こそが、先発四輪メーカーと同じスタートラインに並ぶ絶好のチャンスだ!」と言ったとき、研究所の若者は「排気ガス対策は企業本位の問題ではなく、自動車産業の社会的責任のうえからなすべき業務です!」と主張して、私の目を開かせ、心から感激させてくれた。

残念ながら「若者はいいなあ、若者にはかなわないなあ」と感ずることが多くなってきた。

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ドーナツは、「教育産業の社会的責任」を果たすためにやっているのであって、

どこかの大学や教師の実績作りのために始めた活動ではありません。



あの本田宗一郎氏でさえ、自分が組織を中心に考えたら引退をしなければと言っているのですから、

たかだか天津の日本語サークルであるドーナツが、自分たちのために周囲や学生を利用しようとするなんて、

思い上がりもはなはだしい、貢献できるチャンスをいただけるだけで幸せじゃないか、と思うのです。




ドーナツというプロジェクトのために学生がいるのではなく、


学生達のためにドーナツがあるということを、何度でも確認しておきたいと思います。

「ン」と「ム」、ハミングは声音の基礎だ…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-02-08 11:34:38 | 日本語学習法
*  
 音としての「ン」の受け取り方は、これまで述べてきたように、実にまちまちだが、私には、別の観点がある。
 それは、ハミングの音だ。
 学生時代、コーラスを唄っていたときから、このハミングの音に複数の音を感じていた。のちにNHKのアナウンサーになって、鼻濁音を知ったとき、突然、脳裏にひらめいた。
 「ああ、ハミングの音には三つの異なる音があるのだ」と・・・
 ハミングはご存じのように口から出る息を止めて、鼻を通し、頭蓋や口腔全体を共鳴させる音だ。その息を止める位置には、三つの止め処があるのだね。
 ①は、唇を閉じ、口の先端で息を止めてハミングをする。これが{m音}ムーーーという音になる。
 ②は、唇は開き、舌の中程と口蓋で息を閉鎖すれば、それは{n}の音、即ちンーーーである。この二つがハミングの大半を占める。
 ③は、さらに口の閉鎖を、舌の奥と軟口蓋を付けて出す音で、{ŋ}となって、これが「鼻濁音」をつくる。これは連続しては出ない音だから、ハミングとは言えないかもしれない。だが、平素の会話の中では、ガ行の前にn音がくると、実際には鼻濁音となって頻繁に使われている。
 別の言い方をすれば、口を結んで鼻の裏側を響かせて出せば“m”、少し口を開き、ナ行の子音の位置でハミングすれば“n”になる。そして、連続音ではないが、もっと奥に音を呑み込めば“ŋ”になる。この三つのハミングの響きの違いを感じることは、音を作る上で大切な要素なのだ。
 私は、呼吸や声音について、基礎的な訓練を教えることが多いが、このハミングの変化を、口の先から奥へと移動させることで、フォルマント移動を実感させることが出来る。大切なトレーニングの一つなのだ。
 こうした観点から言えば、“m”と“n”は、アイウエオの母音と繋がらずに、独立した音になる日本語の基本の音でもあり、欠くことの出来ない国語の基礎になる音なのだ。
 
 ところが、国学者・賀茂真淵は言った。
「日いづる国は、五十聯(いつら)のこゑのまにまに言をなして、よろづの事をくちづから言える国・・・人の心なほかれば、事少なく、言もしたがいてすくなし。惑うことなく、忘るる時無し。故に天地のおのづからなるいつら(50)の音のみにしてたれり」と、50音以外を否定する。
 本居宣長もまた、縦5×横10の五十音だけが、日本語の音であり、これこそが正しい音で、それ以外は、全て邪音であると断じた。即ち、両者とも「n」音の否定である。
 
 これには、雨月物語を書いた文筆家・上田秋成も黙ってはいられなかった。そこで、有名な「カガイカ論争」の火蓋が切られた。
 このあたりは、先月ご紹介した樋口覚氏の文章を借りる。
 ・・・「古代に“ん”音と“む”音があったとする秋成と、“む”音しか存在せず“ん”音は“不正の音”としてきびしく指弾する宣長との、この国語史上に不滅の印を残す論争は、その論難の先鋭、激語、痛罵の応酬にもかかわらず、“ん”音の存否をめぐって、両者の音韻論の解釈の違いから国語観の違いにまで一気に届いてしまうのである・・・」
 
 私は思う。これは、言語論争というよりも、国学者と文筆家の、思想の相違である。
 ともかく、本居宣長は「皇国の正音に“ん”音はあってはならぬ音であり、邪音として、五十音からは抹殺しなければならぬという思想の持ち主であった。
 この論争は、遂に匙を投げたというか、馬鹿馬鹿しくなった秋成が、「往々笑解(おうおう、そうかい)」という一文で終わりを告げた。
 だが、終わったのは二人の論争だけであって、実は、この国学者の皇国思想は、50音図の裏側にびっしりと張り付いているように、私には思われるのだ。
 なぜ、日本の国語学者は、国語の基本である「日本語の音」について、正面から取り組もうとしないのか。教育の現場においても、言語の音は教えることもなく、日本語は空転しているというのに・・・

 次回の結論を待って、「50音図の落とし穴」の連載を一区切りとしたい。

知能を育てる…ブログ「鐘の声」より

2012-02-08 11:28:50 | 日本語学習法
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/(「鐘の声 ブログ」)の要約です。

1.知性なき丸暗記は、(仮性)の反社会的知的障害者を人為的に育てているのではないか。
2.社会性と高度な知能(総合・構造化された知識)と関係がある。

上の2点を踏まえたうえで、

3.知能の上下ではなく知能の種類と考えるべき。
  大学教授になる人も、芸能で人を幸せにできる人も、どちらもすばらしい知能の持ち主。

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日本語教育も、多様な能力が育つようなものになってくれたらと思います。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、学生は育たず

2012-02-07 14:48:09 | 顧問・アドバイザーから
もともとは、山本五十六という人の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず」です。

上官の命令には絶対服従をしなければいけない軍人でさえ、これらの過程を経ないと「動かない」のです。

ましてや、軍隊でもない(ときどき「教師の命令は絶対だ」と勘違いしている人もいますが)学校という組織においては、

教師が何か正しいことを言っていれば、学生はいろいろなことができるようになっていく・自ら進んで取り組むようになる、と言うものではないと思います。



例えば、

1.やってみせ:学生にスピーチの見本を見せなければいけません。

2.言って聞かせて:スピーチのポイントを、学生が分かる言葉で説明できなければいけません。

3.させてみせ:「試しに」させてみなければいけません。いきなり本番、というのはだめです。

4.ほめてやらねば:教師の手本どおりにできたら、それはすばらしいことです。

  ここで褒めないと、「学習性無力感」に陥ります。

5.学生は育たず:学生が育たないのは、99%が教師起因、つまり教師の責任(教育技能や知識・経験・情熱の不足が原因)です。